065-学習論としての古典(1) アリストテレス「心とは何か」

dun (2012年9月27日 22:22)|コメント(0)| トラックバック(0)

アリストテレス 桑子敏雄(訳) (1999). 心とは何か 講談社

Peri Psyche,英語ではOn the Soul。永らく「霊魂論」「心理学」と訳されてきたこの書物を,ばっさりと「心とは何か」と訳したのはまず英断だったと思う。なにより,わかりやすいし,とっつきやすい。

心理学を含む近代科学の祖がデカルトだとするなら,それよりさかのぼった時代のあらゆる学問の祖はアリストテレスであった。実際のところ,デカルトはアリストテレスを否定することを通して近代の幕を開けたところがある。心と身体とが別物だと言ったのも,アリストテレスへの反逆だった。

身体はギリシャ語で「ソーマ」と言う。この「ソーマ」は訳しにくい言葉らしい。日本語の「物質」も「身体」も同じ「ソーマ」だというのである。

現代の生命科学であれば,身体は単なる物質として扱われることの方が多いだろうから,むしろ同じ言葉であってもかまわないのかもしれない。しかし,アリストテレスは,「ソーマ」と呼ばれるものの中に2種類を区別した。1つが生きることのないものであり,もう1つは生きることのできるものである。この言い方はすこし回りくどいかもしれない。しかし,アリストテレスの思想を理解する上で必要な概念がここにある。

アリストテレスは,現象がとりうる3つの状態を区別した。デュナミス,エネルゲイア,エンテレケイアである。桑子敏雄の訳では,それぞれ「可能態」「実現態」「終局態」となっている。例えば,大工。雨が降って家で子どもと遊ぶ大工と,晴れて家をせっせと造っている大工は,アリストテレスによれば,状態が異なる。前者は家を造る可能性をもっている(が,実際には造っていない)状態にある大工であり,これをデュナミスとしての大工と呼ぶ。後者はその能力をいかんなく発揮している状態にある大工であり,これはエネルゲイアとしての大工である。エンテレケイアはエネルゲイアとだいたい同じなのだそうだが,能力の潜在的な限界にまでいたるまで力を出し切った状態とでも言おうか。エンテレケイアには「テロス(目的)」が含まれているのである。

さて,ソーマ(=物質・身体)には生きることのないものと生きることのできるものの2種類があるとされた。これを3つの状態を示す言葉で言い換えると,生きるデュナミスのないソーマとそれがあるソーマである。生きるというデュナミスは,エネルゲイアとしては,動くこと,および感覚することして発揮される。そして,アリストテレスにとって,心とはこのように「可能的に生命をもつ自然的物体の第一の終局態」(p.71)のことなのである。

ここで言う「第一の終局態=エンテレケイア」は,学習という問題と深くからむ。第一の,と言うからには,第二のエンテレケイアもある。それは,心に関連した諸能力を行使し,何らかの結果に至った状態のことを指す。簡単な例で言えば「考えて,分かる」ような状態のことである。考える可能性をもつ存在が,実際に考え,そしてなんらかの考察にいたる,という3つの状態が展開していく過程を想像すれば分かりやすい。これは考える能力をもつ存在において起こりうる過程であるが,そもそも考える能力をもつにいたるまでの過程というのもあるだろう,というのがアリストテレスの考えで,そういう能力を持つにいたった状態を第一のエンテレケイアと呼んだのである。

この考え方を学習にあてはめてみると,次のようになろう。我々は学習が可能な存在の一員として生まれてくる(デュナミス)。そのような存在が実際に学習する(エネルゲイア)ことを通して,なんらかの状態にいたる(第一のエンテレケイア)。このようにして学習という変化の過程が完了するわけだが,もちろんそれで終わりではなく,第一のエンテレケイアをもとにした次なる過程が始まっていき,第二の,そして第三のエンテレケイアが生起するという図式として説明できるのである。

064-マルセル・デュシャン、あるいは芸術家がその糧を得る方法について

dun (2011年12月14日 23:59)|コメント(0)| トラックバック(0)

マルセル・デュシャン,ピエール・カバンヌ 岩佐鉄男・小林康夫(訳) 1995 デュシャンは語る 筑摩書房

本書はおそらく1966年にフランスのヌイイーで行われた対談を編集したもので,会話の端々に今ではもはや歴史となった現在が見え隠れする(たとえば,ケネディについて)。

すでに伝説となった様々な「作品」が制作された裏の話がゆったりと語られているのだが,彼の場合,その語ること自体もなんだか作品の一部のようでいて,額面通りに受け止めきれないところにおもしろさがある。

■作品

―あなたの『泉』は『階段を降りる裸体』と同じくらい有名になりました。
 その通りだ。
―この名声は、あなたにとって,商業面での反響をもたらすものではなかったようですね。
 ええ,全然!
―あなたはそれを望んでいらっしゃいましたか。
 私は望みも求めもしなかった。(p.112)

私が腰掛の上に自転車の車輪をさかさまにのせたときには,レディ・メイドという考えも,あるいは何かほかの考えも,全然なかったのです。それは単なる気晴らしでした。そんなことをすると決めた理由も,あるいは展示したり,叙述したりしようという意図も,私にはありませんでした。(p.91)

芸術史においてデュシャンの名は,『泉』とともにある。それほど,この「作品」のもつ印象は強い。

『泉』(Fountain. 1917/1964)
http://www.abcgallery.com/D/duchamp/duchamp26.html

すでに作られた工業製品を,「作品」としてドンと置く。こうした作品群は,「レディ・メイド」と呼ばれた。

1914年につくられた『壜掛け』は,デパートで買われたものだった。デュシャンはそこに銘を入れただけである。1915年の『折れた腕にそなえて』は彼が渡米後につくった最初のレディ・メイドである。それは雪かきシャベルに銘を入れたものだった。

シャベルと『壜掛け』との違いは,題もつけたことだった。どこにでもある日用品とタイトルが同時に提出されることで,わたしたちはそこにどうしても意味を見いだそうとしてしまう。しかしデュシャンは「それが何の意味ももたないことを望んでいた」(p.106)と述べる。

『自転車の車輪』(Bicycle Wheel/Roue de bicyslette. 1913)
http://www.abcgallery.com/D/duchamp/duchamp20.html

『壜掛け』(Bottle Rack/Egouttoir (or Porte-bouteilles). 1914/64)
http://www.abcgallery.com/D/duchamp/duchamp21.html

『折れた腕にそなえて』(In Advance of the Broken Arm. 1915)
http://www.abcgallery.com/D/duchamp/duchamp22.html

1916年4月にニューヨークで開かれた展覧会に,デュシャンは陶器の小便器に“R.Mutt”と署名して出品した。しかし展覧会にその作品の姿はなかった。「『泉』は仕切りの後にぽんと置かれていて、展覧会の間中、私はそれがどこにあるのか知りませんでした」(p.108)。便器を放っておくのは,「常識ある人」からすれば当然の反応であろう。

レディ・メイドには,どんなものが選ばれたのか。

それはものによります。一般には、《外見》に惑わされないようにしなければなりません。あるオブジェを選ぶというのは、たいへんむずかしい。半月後にそれを好きなままでいるか、それとも嫌いになっているかわかりませんからね。。美的な感動を何にも受けないような無関心の境地に達しなければいけません。レディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪をとわずあらゆる趣味の欠如に基づいています。
-あなたにとって趣味とは何ですか。
 ひとつの習慣です。すでに受けいれたものを反復すること。(p.93)

現代芸術における彼のレディ・メイドは燦然と輝く。だが,本人にとって最も重要だったのは,それとは違う2つの作品だったようだ。一つは『階段を降りる裸体』,もう一つは『大ガラス』と称される未完の作品である。

『階段を降りる裸体』(Nu descendant un Escalier. No.2. 1912)
http://www.abcgallery.com/D/duchamp/duchamp2.html

『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも/大ガラス』(The Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even or The Large Glass. 1915/23)
http://www.abcgallery.com/D/duchamp/duchamp29.html

大ガラスの制作年に1915/23とあるのは,8年間かかったという意味である。しかしそれでも未完成のまま,作者はそれを手放した。

前者を描くにあたって影響を受けたものとして,デュシャンは2つを挙げる。一つは明らかなキュビズムの影響である。もう一つは,エチエンヌ・ジャン=マレイによる高速度写真,要するに連写された写真である。デュシャン本人の言葉を借りれば、「古典的な裸体とは違った裸体」を「運動の中に置く」(p.53)ことがこの絵の出発点であった。

ところがこの絵は、1912年のアンデパンダン展に出展を拒否された。

-このような事態も、あなたを後に反芸術的な態度へと押しやった一因となっているのでしょうか。
 それは、個人的な意味での過去から私自身を完全に解き放つ助けにはなりました。(p.56)

1912年にニューヨークで展示された際には支持・不支持両側からの大きな反響をもって迎えられたようだ。インタビュアーの言葉を借りれば一種の「スキャンダラスな成功」(p.86)であった。

『泉』後のデュシャンは,何かをつくる作業としては『大ガラス』だけにかかることとなった。この作品は,彼が実験的に製作したものの言わば「集大成」(p.130)である。彼が「関心を持っていた唯一のもの」(p.132)でもある。

『大ガラス』は1926年にひびが入る。これについて「ひびがはいって,ずっと良くなりました。百倍も良くなった。」(p.157)とデュシャンは述懐する。

■特別なことをするのではない

私には《創造》という言葉は恐ろしい。普通の社会的な意味では,創造というのはたいへんやさしいものなのですが,実を言えば,私は芸術家の創造的機能などというものは信じません。(p.18)

-あなたは絵画の道に進まれた。そこに何を期待なさったのですか。
 わかりません。…(中略)…モンマルトルのボヘミアンのようなものでした。生き,そして描く。絵描きであるということには,実際何の意味もないのです。(p.38-9)

芸術家とは誰のことなのだろうか。芸術作品とは何かという問いとともに,現代芸術の文脈において,この問いをつきつけた一人は,間違いなくデュシャンだろう。

で,芸術家とは誰のことなのだろうか。

デュシャンのしたことを胸のすくような思いで見た者にとって-ぼくも含めて-デュシャンは英雄であった。しかし自らを語るデュシャンは英雄ではなく,日々の糧を得るために何かを作る職人であり,そこがなんだかみみっちくて嫌であった。

誰でも何かをつくっています。そしてカンヴァスに向かって,額付きの何かをつくっている人が,芸術家(アルティスト)と呼ばれるのです。かつては,彼らは私のもっと好きな言葉で呼ばれていました-職人(アルティザン)です。われわれはみんな職人です。(p.18)

実際のところ,デュシャンは誰かから頼まれて作品を作ることが多かったようだ。

―あなたの人生のうちのかなりの多くの出来事について,あなたはただ、ひとの頼みに答えることだけに甘んじている,という印象がありますが?
 普通,ただそれだけです。自分からひとに頼んで何かをする,いわゆる野心家では,私はないのです。…(中略)…芸術家が自分は何かをつくる義務があると信じたり,大衆に尽くすべき義務があるとしたりするような社会的役割,それを芸術家に割り振るのは嫌なのです。

もしかするとデュシャンは,作品の作品であるゆえんを,ただ「芸術家ひとり」のうちに置くのではなく,芸術家も含む実践のエコノミーに委ねていたのかもしれない。であるから,むしろデュシャンは芸術家である自分の趣味(テイスト)に基づいてではなく,ルールや科学の方法,ありものの「レディ・メイド」など,きわめて他律的な制約への微細な抵抗のなかで制作をしてきたように見える。

「数学」(p.72)「反網膜的な態度」(p.82)「機械製図」(p.94)「あらゆる絵画の約束事の外にありますから,いかなる趣味も負っていません」(p.94)

-技術的な問題以上に,あなたが取組まれたのは,科学的な問題でしたね。比率や計算の問題。
 すべての絵画は,印象主義以来、スーラも含めて,反科学的なものになっています。それで私は科学の正確で厳密な面を導入することに興味を持ちました。…(中略)…私がそれをしたのは,科学に対する愛からではありません。むしろ科学を,おだやかで軽い,取るにたらないやり方でけなすためだったのです。(p.74)

私が好まないのは,まったく非-観念的であるもの,純粋に網膜的なものです。(p.160)

最後に,作品を他律的に制作した芸術家として,デュシャンとともに,ジョン・ケージを挙げておかねばならないだろう。実際に,デュシャン自身,ケージに対するシンパシーを示している。

―ハプニングについては,どう思われますか。
 ハプニングはとても私の気にいっています。それは,はっきりと画架の上のタブローに対立するようなものなのですから。
―それは,あなたの《観客》の理論と実にピッタリと対応していますね。
 まさにその通りです。ハプニングは,芸術のなかに,それまで誰も置いたことのないひとつの要素を導入しました。退屈(アンニュイ)です。…音楽におけるジョン・ケージの沈黙も,実際,それと同じ考えです。誰もそれを考えたことがありませんでした。(p.210)

063-アイルランド現代詩は語る

dun (2011年12月14日 22:10)|コメント(0)| トラックバック(0)

栩木伸明 2001 アイルランド現代詩は語る:オルタナティヴとしての声 思潮社

口伝とは,実践と模倣に基づく教育法である。この方法には,本質的に,創造性が内在する。口伝えされた歌は,その歌い手によるそれぞれのヴァージョンとして聞かれるのである。

ヴァージョンは,〈オリジナル〉との差分として聞かれるからこそヴァージョンとしての意味を持つ。しかし私たちは〈オリジナル〉を知らない。にもかかわらず,私たちはある歌を聞くとき,同時に2つの歌声を確かに聞くのである。目の前の歌い手の声と,かつて,確かに〈オリジナル〉を歌っていた歌い手のそれと。

まず,アイルランドの伝統音楽はふつう楽譜の介在なしに,演奏者から演奏者へと渡される(演奏者の多くは楽譜がよめない。あるいは積極的によもうとしない)。親から子へ,先生から弟子へ,旅行者から地元の演奏者(歌い手)へと,うたや曲は口移しあるいは聞き覚えで伝達されてゆく。口承文化一般の特徴として,この伝達のプロセスでおこる揺れというか誤差のようなものが,楽譜によって固定されない個々のパフォーマンスの味わいになる。つまり,ひとりひとりの歌い手や演奏者は,どんなによく知られた曲でもそれぞれ自分自身のバージョンを持っていて,それを自分のものとして歌う(演奏する)ことができるし,一回ごとの演奏は文字どおり一回限りの経験となる。聞き覚え,マネすることからはじめて自分のバージョンへと練り上げてゆく習得と改変の流儀を,試みに「替えうた」の詩学と呼んでみようか。(p.232)

こうしてカーソンは,手垢のついたクリシェや先行作家の詩的世界をひねったりすりかえたりして,見事にリサイクルしていく。おもえば,物語が口伝えされてゆくうちに伝言ゲームのように細部が改変され,筋やポイントがよじれてゆく。人々はそうした多数のヴァージョンをあるがままに尊重し,眉につばをつけながら楽しむのだ。(p.172)

ここで「替えうたの詩学」と呼ばれる,アイルランドにおける詩の制作プロセス。果たしてその実際はどのようなものか。

アイルランド語の詩のいちばんの妙味は,音の連なりが持つ豊かな音楽性と単語の多義性を利用した言語遊戯にある。アイルランド語と英語の対訳,あるいはそれに日本語訳を加えて,歪んだ鏡を合わせ鏡にしてのぞきこむようにしながらアイルランド語を読んでいくと,原詩じたいが一種の二重世界をもっていることに気がついてくる。(p.122)

まずもって,アイルランド語の性質があるようだ。一義的な単語による直線的な構造ではなく,ある語が同時にある語を率いて来て,それらを同時に聞くような構造。

そしてさらに重要なのは,肉声を制作の方法の欠かすことのできない一部に組み込んでいることだ。

彼(女)たち(※アングロ・アイリッシュの作家たちのこと,イェイツなど。伊藤注)には外部からの視点ゆえのアドバンテージがあったが,発見し,翻訳し,書き留め,固定することは物語やうたの息の根を止めて標本化してしまう危険性をも,伴っていた。そのため,イェイツらの試みは,ヴァナキュラーであるアイルランド語の文化をロマン化したにすぎないとして,イェイツよりも十五歳以上若いジェイムズ・ジョイスの世代からは批判され,新しく起こったアイルランド共和国のカトリック・イデオロギーが強化されてゆくにつれて,「ケルトの薄明」に内在する外部性/プロテスタント性が批判の対象となっていく。(p.26)
アイルランドの現代文学を全体としてながめてみるとき,伝統音楽に負けず劣らず声の文化にとって幸福だとおもうのは,詩や小説や戯曲に「声」性が残存しているからではない。そうではなくて,書き手たちがむしろ積極的に身近にある声を楽しみ,みずからも声のワザを磨き,さまざまな形で声の可能性を自分たちの作品にとりこみ,生かそうとしているからである。彼(女)たちは,肉声によって伝達されてきた歌やストーリーテリングを「伝統芸能」にまつりあげることなく,使いまわしのきく器として選択し,自分たちに都合のよいようにカスタマイズすることを考えている。肉声に抗しがたい魅力があるのは,それによって話が語られるゆえである。ちょっとおおげさに言えば,ひとびとは日常生活の中で話をやりとりしあうことによって,世界を認識している。アイルランドでは,ひとりの人物は逸話の集積として,また,歴史は反復しつつ連続してゆく物語として,記憶にとどめられ,語りなおされてゆくのだ。(p.234)

現代にあっては,歌はすでに電子的に消費し尽くすもののようでもある。それを可能にするのはある種の複製技術であるが,そもそも歌における「複製」とはどういったプロセスを指すのか,よく考えておかねばならないだろう。