033-タテとヨコから遊びを見る

ロジェ・カイヨワ 多田道太郎・塚崎幹夫(訳) 1990 遊びと人間 講談社

 私たちは、遊びについて何か知っているような気がしている。しかし、その「知っている」の中身について述べることはなかなか容易ではない。

 たとえば、遊びは子どもの日常生活に結び付いているような気がするものの、大人だって立派に遊んでいる。また、遊びの対極には真面目があるような気がするものの、遊びに没入するさまは真面目と呼びたくなる。

 かようにとらえどころのない対象を論じる際には、まず常套手段として、対象の範囲を確定することから始めることが多い。要は、定義である。

 カイヨワも遊びを定義することから始めた。彼によれば、遊びとは次の6つの側面をもつ。(1)自由な活動であること、(2)時空間的に明瞭な境界をもつこと、(3)先が読めないこと、(4)生産的ではないこと、(5)規則があること、(6)虚構であること。世に遊びと呼ばれる活動はこれら6項目において現実にあるその他の活動と区別される、と彼は言う。遊びとは、現実の世界から「隔離された活動」(p.89)なのである。

 定義によって他の活動から区別された遊びは、分類作業に移される。カイヨワは、ここでかの有名な4類型、すなわちアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)を、そしてそれぞれに共通するタテの軸として、パイディア(遊戯)とルドゥス(競技)を設定した。パイディアとは奔放な気散じ、ルドゥスとは我慢を要する規律正しさを、それぞれ概念化する言葉である。カイヨワによって提起された分類にしたがって整理すると、以下の表のようになる(p.81の表1を改変)。

         アゴン       アレア      ミミクリ     イリンクス
パイディア  取っ組み合い   じゃんけん   ごっこ遊び   ぐるぐる舞い


ルドゥス   スポーツ競技      くじ       演劇      スキー

 さて、問題はこの分類表の使い方なのである。

 ひとつには、現実に起こった遊びがこの分類表のどこに当てはまるのか検討することが考えられる。たとえば、ベーゴマはアゴンとアレアの中間でルドゥス寄り、シンナー遊びはパイディア寄りのイリンクス、といったように。

 この使い方は、現状の整理にはたいへん役に立つ。言ってみれば、遊びの現在を水平的に横断する視点を提供する。

 もうひとつ、この表は何かの変化を説明するモデルの下地にも使える。どういう現象がそれに当てはまるのかはともかくとして、たとえば、イリンクスからミミクリへ、そしてアレアからアゴンへという発展のプロセスをたどる何かがある、といったように。

 この使い方は、言ってみれば、遊びの歴史を垂直的に縦断する。

 カイヨワは、横断と縦断を同時におこなおうとしたわけだ。文化史を遊びから読み解き直した偉大な先人ヨハン・ホイジンガを受け継ぐにあたり、この表をもってその任に当たろうとしたのである。

 横だけを見てもいけない。それだと、ある時代に何が遊びであり、何が遊びでないのかは分かるかもしれないが、その境目にはたらく動きが分からない。また、縦だけを見てもいけない。それだと、かつて大人が大真面目に執り行っていた社会的活動と、現在の子どもの遊びとの形式的類似を比較することはできるが、似たものがなぜ現代において残存しているのかを説明できない。これについてカイヨワはこういうことを書いている。

「遊びの縦の歴史、すなわち、幾時代にもまたがる遊びの形態変化-典礼が輪舞に終わる運命、魔術の道具や崇拝の対象物が玩具になる運命-は、これらの細々とつながってきた血縁関係を発見した碩学たちが予想したほどには遊びの本質について教えるところはなかったということだ」(p.118)。

 よく似た形態をもつ現実的活動と遊びとは、同時代に併存しうる。カイヨワによれば、「まじめな活動の〔機能の〕退化によって子供の遊びが生まれたのではなく、むしろ二つの違った分野の活動が同時的に存在するということではないか」(p.116)。

 この、同時代的な併存のありようと、歴史的な発展の軌跡とを、同時にながめるパースペクティブが必要なのだと、カイヨワは言っているようだ。

 さきの4分類にしたがえば、確かに現代の私たちの生活にはいずれにも該当する活動は存在する。しかし、それぞれのもつ社会的な機能が、時間を追って変化してきた、カイヨワはこのように言う。「いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組合せの優位をすこしずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう」(p.166)。

 このようにしてカイヨワは、人間の精神史を突き動かしてきた動力を、遊びとして湧出したものの形式の中に見出そうとする。現実的活動と遊び活動とを共通して生み出す力を問おうとするわけだ。そうすることによって、おそらく究極的には、ある文化でのどの遊びを見れば、その文化での現実的活動の本質が分かるのか、という問いを提出し、それに答えようとしたのだろう。

 蛇足だが、本書に収められた補論に、心理学における遊び研究の検討がある。そこではピアジェの研究にも触れられており、遊びにおける子どもたちの約束が、後の道徳の形成に重要な役割を果たすという彼の指摘に賛意を示している。

 しかしカイヨワは、ピアジェが遊びにあるアレア(運)の側面をすっぱりと切り捨てた(というよりも、はじめから見ていなかった)ことに不満を述べる。たとえば、ある種の歌遊びでは、鬼役の割り当てと交替が不可欠の要素であるが、状況に応じて「たまたま」鬼役になるから参加者はそれを引き受けるのだろう。これがもしも、男が鬼の役、女が逃げる役といったように、遊びの外にある現実的属性と結びついた必然的役回りであったとしたら、まったく楽しくないのではないか。あくまでも、遊びの範囲内において、予測のつかない出来事として現れるから、さらに、そのうち誰かと鬼を交替するという期待があるからこそ鬼役は引き受けられるのだろう。

 この、規則の枠内における偶然の要素をカイヨワは無視せずに概念化したことは、なにかとても大切なことだったように思う。

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