034-「僕たち語り」と「おとな陰謀史観」の甘い関係

堀井憲一郎 2006 若者殺しの時代 講談社

 堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社新書)を、通勤電車の中で読んだ。

 かつてテレビで見た堀井憲一郎は、素朴な疑問に独自に調査したデータを用いて検証するというスタイルを売りにする、ユニークなコラムニストであった。今でもそのようだ。そのユニークさは本書でもちらりと見ることができる。

 本書にはいくつかデータが登場するが、著者「らしい」ものを挙げれば、こんなところがおもしろかった。

  • 女性誌・男性誌クリスマス記事の変遷
    • 1970年アンアン「2人だけのクリスマス」
    • 1983年アンアン「クリスマス特集 今夜こそ彼の心(ハート)をつかまえる!」
    • 1987年ポパイ「クリスマス、今年こそ決めてやる」
  • 月9トレンディドラマでの携帯電話使用場面の変遷
    • 最初に使った俳優→石田純一:1989年1月『君の瞳に恋してる!』(ただし自動車電話)
    • 携帯電話同士による最初の通話場面→1995年『いつかまた逢える』
    • 最初の折りたたみ式ケータイ使用→中山美穂:1996年『おいしい関係』
  • 週刊文春ミステリーベスト10国内部門に入った本の”重量”の変遷(ページ数ではなく、”重さ”というのが、いい)
    • 1983年6冊平均404.0g
    • 2000年10冊平均522.9g

 いずれも、当時の雑誌や録画してあるビデオをかたっぱしからすべて見た(あるいはバイトに見てもらった)り、あるいは本を実際に秤に乗せたりして調べたもの、だそうだ。調査内容はばからしいが、きちんとやろうとしたら、案外こういう調査は難しい。

 こういったサブカル関連の調査をする際、ソースが雑誌や本であれば、国立国会図書館に行くことでなんとか調べがつく。しかし、テレビ・ラジオを媒体とするコンテンツについては、いったん放送されたものをソースとすることが難しい。そういうとき、ビデオに録画したものをきちんと残しておいてくれている人がいると大変助かる。著者はどうも月9ドラマを4作目からすべて保存してあるようで、そういうマニア的な努力は大事だと思う。最近では、Youtubeやニコ動など動画共有サイトに、えらく昔のテレビ番組が投稿されていることがあり、あるところにはあるんだなと嘆息する。

 さて、本書のタイトルはえらく物騒である。その含む主張は以下のようにまとめられる。1980年代のある頃から、未熟な大人を「若者」としてカテゴライズした上で、かれらの生活をえらく金のかかるものに仕立て上げ、スーツを着た「おとな」がかれらから金を巻き上げることを通して日本経済が動いてきた。その過程を通して、「若者」と呼ばれる人たちは、便利な生活は送れるが何の目標も持てず、かといって何もせずにいると「おとな」から怒られるという状態に追い込まれた。

 言っていることはどこかで聞いたことのあるようなものであり、新鮮味はない。また、著者の経験とその周囲に起きた出来事を具体的な例として話が進んでいくので、日本社会全体についての主張としては説得力はまるでない。

 それでも本書をおもしろいなと思うのは、ひとつは先程述べたように、一次データを自分で集めるという姿勢。もうひとつは、「僕」や「僕たち」という一人称的な語り方と、「おとな」批判という内容とがぴったりと結びついていること。著者自身があとがきでふりかえるように、これは一つの「書き方」である。おそらく、自らの置かれた状況を作り出したなんらかの外的な力を対象化した瞬間に、「僕たち」というどことなく弱さのともなった共同体的な人称が妥当性を持ったのではあるまいか。

「おとな」なるものは具体的な者でも物でない。「おとな」的な側面を内面化し、表現する者はいる。同様に、「若者」的、さらに言うなら「こども」的な側面を表現する者もいる。ある種の社会学の伝統に従うなら、こども、若者、おとなは、いずれも特定の社会的場面で妥当性を持つカテゴリーにすぎない。

 きちんと書く準備はないが、たとえば「”僕たち”という人称を用いた、おとな陰謀史観」とでも名付けられるような語り口があるのかもしれない。この語り口は、「おとな」という圧倒的な力を持つ存在の陰謀により、「僕たち」が迫害を受け、現在ひどい暮らしをしている、というストーリー構造をもつものと考えられる、かもしれない。ここでの「僕たち」とは、少なくとも本書の文脈では、「若者」の代名詞と考えてよい。

 要は、世代間の対立をある種の語り口によって構成されているものとして見ることができる、ということである。さらにおもしろいのは、そういう見方自体が、とっても80年代的なもののように思われることだ。本書の場合、本文とあとがきとの関係が80年代的である。つまり、本文の方で「おとな」対「僕たち」の対立を例証しておいて、あとがきで「でもそれは語り口だからね」とひっくり返す。この「なーんちゃって」的態度がぼくには80年代的に見える。

「なーんちゃって」以後に「若者」あるいは「おとな」になった人たちは、これでは途方に暮れるしかない。ひっくり返ったちゃぶ台は誰が片付けるのか。いまだに「なーんちゃって」でしか語れない著者でないことは確かだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA