056-対話という方法

 対話は方法である。

 ソクラテスがアテナイの街角に立って以来,2人の間で交わされる問答は真の知へいたるための方法であった。問答という単位はすなわち対話を意味する。問うことによってはじめて,問われるべき対象が作り出される。そして,それに答えようとすることは,問いの対象を認めることである。ならば,問う者があらかじめ真の解答を知っていると言うことはできない。答える者が応答してはじめて,自己の問いの有効性に気付くからだ。

 こんにちわれわれの社会で,問答が会話の方法として頻繁に用いられる場のひとつは学校だろう。教室の生徒たちは,かれらなりに知を目指し,教師や教科書などのさまざまなリソースと問答するよう期待されている。しかし,授業研究が具体的な実践の詳細な分析から学びの過程を明らかにしたところによれば,教師と生徒の認める問いの対象が一致していないことがある。

 一例に,教師の行なう「既知情報の質問」(known information question, cf. Erickson, 1996)がある。一般に質問は,未知の情報を取得するという機能を果たす。ところが既知情報の質問,すなわち質問者は当然知っているはずの情報をわざわざ相手に問うことには,それとは別の機能がある。たとえば,授業中に「いま何時ですか」と問うことは多様な機能を持ちうる。遅刻した生徒に投げかけられたそれはかれにとって叱責であるかもしれないし,時計の読み取り方にかんする授業では,生徒にとって自分を評価するものかもしれない(Mehan, 1979; 茂呂, 1997)。日常的な会話ならば,「いま何時ですか」という問いの対象とするところは,質問者と応答者のどちらにとっても「いまは何時か」であり両者で一致する。ところが授業における既知情報の質問では,表面的な形式は日常的な会話でのそれと同じであるにもかかわらず,応答すべきものとして生徒の認めた対象は,「いまは何時か」ではない。おそらく,「あなたは遅刻すべきだったのか」「あなたはわたしの正しいと認める答えを言えるか」が,生徒にとって問いの対象となりうるものであろう。

 2つ目に挙げた「あなたはわたしの正しいと認める答えを言えるか」が生徒にとって問いの対象となることは,研究者によっては問題視されるものである。エリクソン(1996a)は,生徒の注意がこの問いの対象に向けられると,次のような仮定が生じるという。すなわち,「習得すべき知識の総体がどこかにあり,教師はすでにそれを習得している。それゆえ,教師は教室のなかで権威をもつことができる」(p.60 n.3)。すると,この仮定のもとにある生徒の目指すべきは,なんらかの権威によって真であることの保証された知を探ることとなる。

 たとえば数学は,生徒の提出する答えが「教師にとっての正しさ」の点から評価されやすい分野だろう。この経験の果てに生徒が身につける習慣はどのようなものか。数学という実践が意味するのは,教師の決めたルールにしたがうことや適切なときにそのルールを想起することであり,数学的な真理とは教師の定義したこととなる(Lampert, 1990)。しかし,そこでの数学的真理はあくまでも教師にとってのそれである。

 問答という方法で近づこうとする真の知が教師=質問者と生徒=応答者の双方にとって等距離にある共通の問いの対象であるとするなら,既知情報の質問が念頭に置く数学的真理は教師に近すぎるばかりでなく,実は共通の問いの対象でもない。教師が知りたいこと,すなわち問いの対象とは生徒の知識であり,一方で生徒の認めた答えとは,自分を知識もつ人格として呈示することにほかならないからだ。

 もちろん,教師の用意する正答がなんらかの知の形であることは疑いない。とすると,授業の目標を「教師の用意する所与の知」と「誰も知らない真の知」のどちらに置くかが教育実践上の課題となることも考えられる。もしも実践上の課題が方法の選択にあるならば,どちらかを臨機応変に選べばよいだけの話だろう。

 しかし,現代という混迷の時代に住むわれわれは,新たに発生する多様な問題状況から解決すべき問いの対象を発見して,すみやかに対処するように強いられている。そうした時代に必要となる教育実践は,再生産される所与の知を引き受けながら,新たな問いの対象とそれへの答えを協働的に創造することを目標に掲げるはずだ(Kozulin, 1998, p.154)。とすると,教育実践上の課題は,異質な2つの知を選択することにあるのではなく,いかにしてそれらを織り合わせるかにあると言える。この課題の達成には,やはり対話としての問答に注意を払わなければならない。

 では,当面のところ,何が実践上の課題となるのか。ここで,先に触れたエリクソン(1996a)に戻ろう。「習得すべき知識の総体がどこかにあり,教師はすでにそれを習得しているがゆえに,教室のなかで権威をもつことができる」という仮定が,生徒の問いの対象をずらしたのだった。さて,「習得すべき知識の総体」と「教師の権威」とは,授業を構成する課題内容と,授業に参加する人々の関係性に,それぞれ該当する。別の論文でエリクソンは,両者を授業の進行を制約するものとして捉え,それぞれ課題構造(task structure)と参加構造(participation structure)と呼んだ(Erickson, 1982, 1996b)。

 課題構造には,教師が用意する問題の論理的構造や難易度,解くのに要求されるスキルや回答の形式(クローズドエンドか,オープンエンドかなど)などのことがらが含まれる。一方の参加構造に含まれるのは,援助の要求に応えたり,発言権を得ようとしたり,一人あるいは集団で作業をするといったときに,生徒と教師が相互行為を展開するのに用いる機能的な方法である。

 これら2つの概念が必要なのは,同じ課題構造でも参加構造が変わることによって,生徒の学習することの内容に変化が現れるからである(Erickson, 1996b)。これは,相互行為の構造次第で生徒の認める問いの対象が変わりうることを示唆する。この示唆にしたがうならば,問いの対象の協働的な創造という教育実践上の課題にとって,参加構造に注目することは有効だろう。オコナーとマイケルズによれば,実際に教師は,課題構造を構成する活動へ生徒をまきこむために,授業の参加構造を慎重に調整しているという(O’Connor & Michaels, 1993, 1996)。

 授業の参加構造に注目する研究の歴史は70年代初頭の米国に始まり,今日に至るまで続けられている(レビューとして,Cazden, 1986; 金田, 2000)。その中には,参加構造に介入して授業の改善を目指した試みがいくつか見られる。そこでは,教師と生徒の相互行為上の役割や(Herrenkohl & Guerra, 1998; Herrenkohl, Palincsar, DeWater & Kawasaki, 1999; Lampert, 1990),やりとりに用いられる言語形式(Wells, 1999)が取り上げられてきた。以下では,課題構造と参加構造のうち,特に後者について分析と介入を行なったいくつかの試みから,授業の問答=対話がいかにしてデザインされてきたのか紹介していく。この作業を通して,社会文化的アプローチにおける対話概念のこれまでとこれからの見通しをつけてみたい。

 手始めに先ほど挙げた数学の例から入ろう。教師の設定する正答の発見が生徒にとっての問いの対象となるとき,かれらにとって数学の実践とはこの経験にほかならない(大谷, 1994)。しかし,ランパート(1990)によれば,正答やそれを導くための定理もひとつの仮説だと疑う勇気と慎重さこそ,数学的実践に求められるものである。かれはこの実現に向けて,授業の参加構造へ介入したのだが,それは具体的には相互行為における教師と生徒の役割配分を再定義する試みであった。

 ランパート自身が数学を担当する小学5年生のクラスに出した問題は,「累乗」をどのように理解すればよいかというものであった。累乗を計算するには,ある数を指数ぶんだけ掛ければよいのだが,授業の目標は,生徒がそれを数学上の知識として習得することだけではなかった。ランパートは「取り組むべき問題(problems)は生徒に出したが,答え(answers)にいたる道は説明しなかった。答えてほしい問い(questions)は,単に解答(solutions)が得られるかどうかのほかにもあった。数学における前提や方法の正統性を問いとして,それに答えてもほしかったのである」(Lampert, 1990, p.38)。

 1時間半ほど続いたという教師ランパートと生徒たちとの議論は以下のように進められた。たとえば「5の4乗の下一桁はいくつか。その理由は?」という教師の質問に対してある生徒が提出した解答が,その名前とともに黒板に書かかれる。書かれた解答はあくまでも「誰かの提案した仮説」であることが確認されるので,他の生徒は根拠を示した上でそれに対して疑問や反論を述べることができる。もちろん,はじめに答えた生徒はそれらに解答しなければならない。こうして,仮説の提出→反論→再反論というプロセスが,教室全体で展開されたのである。

 ここでの教師と生徒の役割について検討してみよう。ランパートによれば,教師の役割は以下のようであったと見なせる。すなわち,どのような活動が適切かを生徒に示すこと,自身が生徒の担うべき役割のモデルとなること,その場その場で数学的な議論展開の模範を示しながら再創造することである。一方で生徒の役割は,教師の想定する正答や方略を発見するばかりでなく,他の生徒が提出した仮説を評価して,それに応じて自分なりの仮説を発表することでもあった。教師が正答を定義していた従来の授業と比べて異なる点は,解答を評価する役割が教師だけでなく生徒にも配分されていたことである。

 これにより,教師と生徒との間で問いの対象が共有される可能性が開かれる。論文のタイトル(When the problem in not the question and the solution is not the answer)から推し量られるように,ランパート(1990)にとって「問題と解答」「問いと答え」は異質な対であった。それはちょうど,従来の数学的参加構造で展開される相互行為と,新たなそれとの違いとに対応する。すなわち,教師=出題者と生徒=解答者という非対称的な役割で構成された参加構造と,教師と生徒のどちらも問う者という対称的な役割から成るそれとの違いである。

 ところで,ランパートが生徒に示した討論の方法は,日本の学校でも見られるものだ。オコナーとマイケルズは,教師ではなく生徒が「○○さんが言った意見は,××だと思う」などの形式で他の生徒の解答を引用しながら推論を進める事例を日本の学校の授業から紹介している(O’Connor & Michaels, 1996)。また,クックはこのような参加構造を日本における授業の1つの特徴として挙げた。そして,生徒同士で互いに引用したり評価をしたりするこの参加構造を経験した結果,他者の発言をよく聞く習慣が身につくのだと示唆している(Cook, 1990)。

 この示唆がどこまで一般化できるか,そもそもこの参加構造が日本の学校に特徴的なものなのかは不明であるが,評価するという社会的役割が,具体的な相互行為においては聞く姿勢を前提としているという部分は確かだろう。すなわち,評価するという役割を引き受けるには,まずその前に相手の話をよく聞くという行為が求められるのである。本節で注目したのは発言する際の役割だったが,次節では他者の発言を聞く際の役割について取り上げる。

 相互行為の民族誌的研究が明らかにしたように,「聞き手」という役割を引き受けるためには,ただ話し手の近くにいればよいのではない。会話の場に参加する人々に対して,自分を「聞き手」として提示する必要がある(Goffman, 1981; Goodwin, 1981)。さらに,いかにして「聞き手」となるかということは,話し手の話し方をも規定していく。たとえば病院では,診察室に入ってきた患者が「診察を受ける者」として医者の方に目を向けたときに,医者が話し始めて診察が開始される(Heath, 1986)。このように,相互行為に「聞き手」として参加することは決して受動的な態度ではない。すると,いかにして聞くかという点が,相互行為の展開を左右する。

 小学4年生を対象に理科の実験授業を実施したヘレンコールとグェルラ(1998)が検討したのは,生徒が「聞き手」という相互行為上の役割を担うことによって,授業中の議論の質が変化するかどうかという点であった。手続きは以下の通りである。まず平均的な成績の生徒たちがランダムに2つのクラスに分けられた。両クラスとも,各班で「記録係」と「報告係」に分担したうえで実験を行ない,得られた結果を実験前の予測と結びつけて理論をとりまとめ,それをクラス全体に対して報告するよう求められた。ただし一方のクラスのみ,結果発表の際に,報告を聞く側の生徒がその内容をチェックし,あらかじめ用意した問いのリストにもとづいて適切な質問をするよう教示された。

 発言内容の確認や反対意見の表明など,議論を進める機能を果たす発話について報告中に現れたものを数量的に分析したところ,発話量ではいずれにおいても聞く側の生徒に質問者としての役割が与えられていたクラスの方が発話量の多かった。これより,科学的な推論をクラス全体で進めていくには,実験者=報告者が「予測→実験→理論化」という手順をふむだけでは十分でなく,後に質問するために報告を批判的に聞くという社会的役割の存在の重要性が示唆されたのである。

 このことは,別の授業の観察からも補強される(Herrenkohl, Palincsar, DeWater & Kawasaki, 1999)。授業構成は先ほどと同様に,班ごとの実験の後で結果と理論を報告するというものであった。ここでの分析の中心は,実験結果を統一的に説明する枠組(すなわち「理論」)を生徒たちが定義し直し,それ自体を問いの対象とするにいたった議論の過程にある。はじめは,教師と生徒の間で,また生徒同士の間でも,「理論」の指し示すものにズレがあった。ある生徒にとっては「かつて経験したこと」や「いつも起こるはずのこと」が,またある生徒にとっては学校の文脈における「正答」が理論であった。いずれにせよ,変更可能な仮の説としては捉えられていなかったのである。

 ヘレンコールら(1999)が観察した5年生クラスの事例から変化をたどってみよう。授業のテーマは「液体に浮かぶものと沈むもの」であった。「理論」が問いの対象となったきっかけは,報告者が「(実験材料の)プラスチックの立方体には中に空気が入っているので,それは水に浮かぶ」という仮説を立てたところ,実際の実験では沈んだことであった(Herenkohl et al., 1999, 477)。この事態に際して「聞き手」の生徒から「理論は変えてもよい」という理解のしかたが提起された。これ以降,自分なりに「理論」を定義する生徒が現れ始めたという。

 ここでは,報告する「話し手」と質問する「聞き手」とのやりとりにおいて,「理論とは何か」を問いの対象とする問答のようなものが成立したと考えられる。経験的な知識や学校での正答を「理論」と呼ぶならば,それらは不動である。過去は変えようがないし,正答は固定された文字として教科書に書かれているからだ。「変わらないもの」から「変わりうるもの」へと定義し直したことは,生徒にとって重要な転換点となる。

 以上で紹介したヘレンコールら(1998, 1999)の授業は,責任と義務の配置として実現する参加構造を意図的に作り出そうとするものであった。本節の冒頭で述べたように,報告する声が耳に届く範囲にいればおのずから「聞き手」となるのではない。ここでは,質問する者という具体的な行為の必要性が「聞き手」としての役割を意味あるものとしていたと考えられる。科学的議論という活動に参加する「聞き手」とは,みずからの問いの対象を「話し手」の報告から発見する能動的な行為者のことである。本章のことばで言いかえれば,実験結果に基づいて理論を導く科学的推論の方法が,あるいは「理論」ということばの指すものそれ自体が,すべての生徒にとって問いの対象となるようにしむけられていたのである。生徒が目指すべき問いの対象は,教師の提供する「正解」でも,かつて生徒自身が経験した「事実」でもなかった。それは問答を通して発見され,生徒たち自身によって引き受けられたのである。

 前節で見た授業には多様な道具が導入されていた。たとえば,報告された理論をクラスで共有するための表や,質問するのに用いられたリストがそうだ。また,ヘレンコールら(1998,1999)は,「予測→実験結果→理論化」という科学的推論の手続きも「知的道具(intellectual tools)」と呼んだ。ワーチ(1998/2002)は,人間の知的な行為を道具による被媒介性から捉えるなかで,これらの道具をただ単に使ってみるだけでなく,ひとが自分の行為のレパートリーに組み入れて使いこなすようになることの重要性を一方で指摘した。さらに,道具をよりよく使いこなすようになるためには,ヘレンコールらの観察における報告に対する質問などのように,なんらかの社会的な参加構造に埋め込まれることが必要だと述べている(邦訳, p.151)。

 だが,道具はいかにして参加構造に埋め込まれるのだろうか。たとえば「理論」ということばは,音声言語や図表の形をとって,確かに授業を通して生徒の周囲にあっただろう。また,報告や質問を通して実際に使われてもいた。では,このとき「理論」ということばは,参加者それぞれにとって何のための道具だったのだろうか。

 参加者一般を主語とするならば,道具はかれらにとって「利用可能だった」などの一般的な言い回ししかできない。だが教室にいるのは参加者一般ではなく,具体的な個々人である。かれらの目指すことが異なるならば,それぞれにとって道具の持つ意味も違うはずである。すると,授業のような協働的活動において,何が道具となりうるか,何のための道具かといったことを,参加者は相互に確認し合わなければならない。これはちょうど,ヘレンコールら(1999)が観察した授業で,「理論」ということばの定義が,生徒たちの間で共通の問いの対象として認められたこと,それが実際に問われたことに相当する。教師や生徒たちが各自が道具とするものやその意味を確認できる参加構造において,道具の使用が促進される(ワーチ, 1998/2002)のもこのためだろう。

 道具が埋め込まれた参加構造とは,あるモノが道具として成立するための相互行為上の配置のことである。それ自体で独自の意味を持つ道具が,それとは独立に存在する参加構造に挿入されることではない。むしろ,道具が独自の意味を持つと見なされるとき,それはある特殊な参加構造において成立しているのである。道具の意味が不定であることを確認できる参加構造が成立し,その意味の確定が参加者の共通の目標となった教室こそ,問いの対象を共有する人々が対話を続ける「探求のコミュニティ」(community of inquiry, Wells, 1999)と呼ぶことができる。

 ウェルズ(1999)がデザインする「探求のコミュニティ」としての教室では,知を目指す協働的な対話が目指される。かれによれば,知識(knowledge)とは知ること(knowing)の生起する個々具体的な状況から離れてなお存在しうる物質や観念ではない。あくまでもある個人が,他者との協働を通して焦点を当てるべき問いを構築し,それに対して自分なりに意味づけ常に更新し続けるもの,それが知である。ともするとわれわれは,書かれたことばなどに知がすでに用意されていると考えてしまうが,そうではない。あくまでも,書かれたことばが埋め込まれた社会的な実践において,それを意味づけ直す行為として「知ること」がある(pp.88-92)。かれの提起する知の探求とは,あるコミュニティで協働的に実践することと,そこから歴史的に新しい意味が発生することから構成される,具体的なプロセスなのである。ここでの授業実践が「探求」と呼ばれるのは,知識の伝達・所有説への代替案としてであり,問いは誰に対しても常に開かれているということへわれわれを注目させるためである。以上から分かるように,「探求のコミュニティ」とは,これまで述べてきたいくつかの授業実践が目標とするところをまとめてくれる概念である。

 では,教室を探求のコミュニティとするにはどうしたらよいのだろう。そのためにウェルズが注目したのが,対話を構成する最も本質的な要素,すなわち言語であった。ただし,ここでの言語とは,さきほどの道具についての議論からも分かるように,おのずから意味を内在させる安定的なものではない。ハリディ,バフチン,そしてヴィゴツキーを理論的な背景としながらウェルズ(1999)が意味と呼ぶのは,一般性と個別性とが一回きりの行為において出会い,その場から創発するなんらかのものである。どういう形式の言語を,どのような場で誰が誰に向かって言うか,すなわち,形式と文脈と行為の結びつきから生まれる何かを,かれは意味と呼んだのだ。

 先ほど述べたように,誰にとっても同じ意味を持つ道具はない。ヴィゴツキー(1930/87)が心理的道具と呼んだところの言語も同様である。ある1つの単語が誰にとっても同じ意味を持つことは,原理的に保証されていない。この不思議なズレは,原理的に解消できない。なぜなら,コミュニケーションする二人は別人だからである。

 しかし,ズレは解消すべき何かではないだろう。すでにわれわれは,互いにどこかずれながらも,実際の行為として,コミュニケーションできているのだから。むしろズレは,形式・文脈・行為の一回きりの結びつきという意味創発の原理によって導かれる,必然的なものであろう。ここで,対話とは何であったかを思い出してみたい。対話とは問うこと,およびそれにより発生した対象を認める,すなわち答えることの対であった。このズレそのものが問いの対象となるとするならば,それはどのような事態を指し示しているのだろうか。おそらく,互いに独自の意味で「理論」ということばを用いながらも,形式の上では一致しているがために議論という行為は可能である,そのことを問いの対象とした5年生の事例(Herenkohl et al., 1999)が該当するのではないか。

 コミュニケーションのズレをなくすこと,すなわち意味を共有しつくしてしまうことが対話の究極の目標なのではない。ズレは永遠になくならない。このズレそのものを問いの対象として参加者が相互に認めるという方法,それが対話なのである。


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