060-子どもの学び 教師の学び

宮崎清孝 2009 子どもの学び 教師の学び:斎藤喜博とヴィゴツキー派教育学 一莖書房

 早稲田大学の宮崎清孝先生より、ご著書を拝領いたしました。ご恵与くださいまして誠にありがとうございます。

 

 本書『子どもの学び 教師の学び』は、カナダの教育学者キーラン・イーガンと、日本の教師・教育学者である斎藤喜博の、それぞれの教育思想をもとにして、授業における教授学習理論のあるべき方向性を探る一冊です。

 斎藤喜博の著書を何冊か読んだことはありますが、詳しくありません。イーガンについてはなおさらです。おそらく、イーガンの思想の核心を日本語で紹介した初めての本ということになるのではないでしょうか。

 さて、おそらく当人同士はまるで接点がなかっただろうこの2人に共通する教授学習理論とはどのようなものでしょう。共通点にしぼって大雑把に言えば、子どもを学習に誘うためには教師自身による学習がきわめて重要だというものです。

 では、教師は何を学習するのでしょうか。子どもたちのことでしょうか。それももちろん大事でしょう。何を知らないのか知らなければ、そもそも教えることができないのですから。しかし、イーガンと斎藤が言うのはその点ではありません。重要なのは、授業で用いる「教材」についての学習です。

 なぜ教材について教師は学習しなければならないのでしょうか。教えるべき内容をすでに習得した人間が教師となっているはずなのでは?たとえば、円周率が3.141592…という数学的知識は当たり前すぎて教師にとっては退屈なものかもしれません。しかしよくよく考えてみると、そこには数の不思議さ、数学の歴史の蓄積が潜在しているのです。ある種の「文化財」と呼んでもよいでしょう。教師は教材の学習を通して人間が積み重ねてきた文化に「新たに、全人間的に対決する」のです(p.223)。

 それを通じて明らかになるのは答えではありません。むしろ「謎」(p.223)なのです。教師が当たり前と思っていたことが、教材研究を通して不思議なものとなる。それは大人である教師にとって「知的に面白い、追求する価値のある謎」(ibid.)なのです。大人にとって面白ければ子どもにとっても面白いはずですし、なにより子どもは教師の探求する姿を見てそれを模倣しようとするでしょう。

 本書によれば、イーガンは「ファミリア」なものを「ストレンジ」にすることが教育だと唱えているそうです。「謎」を解消するのではなく「謎」を作っていく授業。それでこそ子どもは、教材に対して「面白い」という感情を持つようになるのだというのがイーガンの主張です。このような感情をもっていれば、少なくとも授業を傍観するような姿勢をとることはなくなるでしょう。

 しかし、教材に謎を見いだしたとして、教室に多様な子どもたちがいる限り、見いだす謎も多様であるはずです。このような多様性をどのように扱うかが一斉授業のポイントとなることを斎藤喜博は何十年も前に指摘していました。彼によれば、多数挙げられる謎とそれへの回答のうち、まとめられるものはまとめ、対立軸を明らかにしていく作業が授業者の役割として重要となってきます。

 まとめると同時に、議論の活性化につなげられそうな発言は単独で拾い上げることも必要だと斎藤は言います。とすれば、個々の発言の価値を瞬時に見きわめる「目」を、教師はあらかじめ養っていなければなりません。そうした「目」を育てるためにも、教師は事前に教材と対決している必要があるのです。自前の頭で想像できることは限られるでしょうが、子どもの発言のうち「予想していたもの」が「思ってもいなかったもの」よりも多ければどのような話の流れにも対応できるわけです。

 ヴィゴツキー派に代表される社会的構成主義は、学習という概念を人々の間のやりとりをベースにして再構築してきました。それは卓見であったわけですが、変化するのは生徒の方という前提は根深くあったようにも思います。それは本書にも指摘されている点です。生徒が変化するに先だって、教師の方も変化しているはずなのに、そちらの方はほとんどかえりみられてこなかったというわけです。この点は重要な指摘です。

 また、現場の教師の感覚からすれば、この指摘はおそらく賛同を得られるものだと思います。義務教育をめぐる政治的、社会的環境はコロコロと変わるが、やはりひとつひとつの授業をどうするかが大事だ、というのは先日参加した教師による自主的なセミナーで出た発言です。著名な教師で大学の教授もされている方の書かれた授業づくりについてのご本を読んでも、斎藤喜博のそれを読んでいるかのような錯覚にとらわれます。それだけ、根幹は不易だということでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA