065-学習論としての古典(1) アリストテレス「心とは何か」

アリストテレス 桑子敏雄(訳) (1999). 心とは何か 講談社

Peri Psyche,英語ではOn the Soul。永らく「霊魂論」「心理学」と訳されてきたこの書物を,ばっさりと「心とは何か」と訳したのはまず英断だったと思う。なにより,わかりやすいし,とっつきやすい。

心理学を含む近代科学の祖がデカルトだとするなら,それよりさかのぼった時代のあらゆる学問の祖はアリストテレスであった。実際のところ,デカルトはアリストテレスを否定することを通して近代の幕を開けたところがある。心と身体とが別物だと言ったのも,アリストテレスへの反逆だった。

身体はギリシャ語で「ソーマ」と言う。この「ソーマ」は訳しにくい言葉らしい。日本語の「物質」も「身体」も同じ「ソーマ」だというのである。

現代の生命科学であれば,身体は単なる物質として扱われることの方が多いだろうから,むしろ同じ言葉であってもかまわないのかもしれない。しかし,アリストテレスは,「ソーマ」と呼ばれるものの中に2種類を区別した。1つが生きることのないものであり,もう1つは生きることのできるものである。この言い方はすこし回りくどいかもしれない。しかし,アリストテレスの思想を理解する上で必要な概念がここにある。

アリストテレスは,現象がとりうる3つの状態を区別した。デュナミス,エネルゲイア,エンテレケイアである。桑子敏雄の訳では,それぞれ「可能態」「実現態」「終局態」となっている。例えば,大工。雨が降って家で子どもと遊ぶ大工と,晴れて家をせっせと造っている大工は,アリストテレスによれば,状態が異なる。前者は家を造る可能性をもっている(が,実際には造っていない)状態にある大工であり,これをデュナミスとしての大工と呼ぶ。後者はその能力をいかんなく発揮している状態にある大工であり,これはエネルゲイアとしての大工である。エンテレケイアはエネルゲイアとだいたい同じなのだそうだが,能力の潜在的な限界にまでいたるまで力を出し切った状態とでも言おうか。エンテレケイアには「テロス(目的)」が含まれているのである。

さて,ソーマ(=物質・身体)には生きることのないものと生きることのできるものの2種類があるとされた。これを3つの状態を示す言葉で言い換えると,生きるデュナミスのないソーマとそれがあるソーマである。生きるというデュナミスは,エネルゲイアとしては,動くこと,および感覚することして発揮される。そして,アリストテレスにとって,心とはこのように「可能的に生命をもつ自然的物体の第一の終局態」(p.71)のことなのである。

ここで言う「第一の終局態=エンテレケイア」は,学習という問題と深くからむ。第一の,と言うからには,第二のエンテレケイアもある。それは,心に関連した諸能力を行使し,何らかの結果に至った状態のことを指す。簡単な例で言えば「考えて,分かる」ような状態のことである。考える可能性をもつ存在が,実際に考え,そしてなんらかの考察にいたる,という3つの状態が展開していく過程を想像すれば分かりやすい。これは考える能力をもつ存在において起こりうる過程であるが,そもそも考える能力をもつにいたるまでの過程というのもあるだろう,というのがアリストテレスの考えで,そういう能力を持つにいたった状態を第一のエンテレケイアと呼んだのである。

この考え方を学習にあてはめてみると,次のようになろう。我々は学習が可能な存在の一員として生まれてくる(デュナミス)。そのような存在が実際に学習する(エネルゲイア)ことを通して,なんらかの状態にいたる(第一のエンテレケイア)。このようにして学習という変化の過程が完了するわけだが,もちろんそれで終わりではなく,第一のエンテレケイアをもとにした次なる過程が始まっていき,第二の,そして第三のエンテレケイアが生起するという図式として説明できるのである。

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