2001年の日記より

011231 部屋の大掃除をしていると,玄関からチャイムが。ドアの外には,郵便局のバイト配達員が立っていて,おずおずと差し出す冊子小包がひとつ。開梱すると,だいぶ前に発送済みになっていたはずの,Magolda Creating Conwebcat for Learning and Self-Authorshipが。貼ってあったメモから察するに,どうも郵送途中で誤ってシンガポールに行ってしまい,日本に来るのがだいぶ遅れたようだ。こんなこともあるのだなあと妙に感心する。というわけで今年もおしまい。来年もよろしく。

011223 前日は青山でドーナル・ラニーとアンディ・アーバインのライブ。オーガナイズはSFUのヒデ坊。3時間立ちっぱなしだったが堪能した。ダブリンのおっさんたちの指さばきは偉大なり。その疲れが今日出たのか,午前中に近所の風呂屋に行った後,不覚にも昼寝してしまう。布団のなかでぼやぼやしていると,楽天市場から宅急便が。おととい注文したばかりの,ヴィゴツキー「思考と言語」だった。今年出たばかりの,柴田大先生の新訳だ。とりあえず,「ことば」関係の訳し分けがどのように変わっているのかをチェック。旧訳では,речь→言語,язык→言語,слово→コトバまたは単語だった。それが新訳では,речь→ことばまたは言語活動,язык→言語,слово→言葉または単語となっている。なるほど。

011222 午前中に行く予定だった集中授業をキャンセルして家で論文を読んでいると,Amazonから本が二冊。Wells Dialogic InquiryとCazden Classroom Discourse(2nd ed.)。Cazdenは東大のFさんから教えてもらったもの。この本の第一版はすでに研究会で通読してしまっていたが,「内容が変わっている」とのFさんの話を聞いて買ってしまった。開いてみると,まことにその通り。自分がよく引用する第二章のシェアリング・タイムも,最近の動向をおさえたものになっているようだ。教師自身の工夫についても書いてあるのに感心した。CazdenやMichaelsがデータを取ったのは70年代終わりから80年代初めにかけての頃だった。確かにその頃は,子どもの家庭環境に特有のナラティブスタイルが教師との齟齬を生むことがよく理解されていなかったこともあって,タラタラと話すスタイルに難色を示す教師がいたのだろうが,20年近く経過した今,教師もその辺自覚的になっており,さまざまな工夫を導入している。このようなわけで,80年代のデータはもう限定的にしか通用しない,あるいはいつまでも教師のせいにするのは可哀想だと感じていた(この辺の話は紀要にちらりと書いた)。やっぱCazdenおばちゃんは抜け目ないなー。自分もがんばろう。

011221 そろそろかなーと思い,ウェブをさまよっていると,やっぱり出ていたので,筑波のさんせーどーことゆーほーどーへ。しかし,ない。ないないない。くやしーので,代わりに,コサキン本「4548」と水村美苗「私小説from left to right」をこーた。今度は,筑波のきのくにやことぶっくばーんへ。あった。桜玉吉「幽玄漫玉日記5」。ぱ(ぺ)そみちゃん,かーいーなー。この文体もしんどいなー。

011220 安積ら「生の技法」読了。まがりなりにも教育心理学なるアカデミズムに身を置く人間としては,障害者施設と学校とを等置させて考えてしまう。と思っていたら,「おわりに」で,わずかではあるものの,まさにそのアナロジーが取り上げられていた。ある人間を,資質や社会的価値の不足として囲い込み,教育的配慮,福祉的配慮といったある種暴力的な心配りをもってその関係性をなし崩しにしてしまうこと。この配慮は,不足する者と断定される人間が自由に希望することを抑圧する力を持っている。たとえばある施設では,入所者が電動車椅子を希望しても,実際に許可が下りて入手するまでに十年かかったという。これは「配慮」のなせる結果である。施設もそうだし,学校も,そのような関係性が張り巡らされた空間としてあるだろう。この空間に抵抗し,自立生活を営むのが,この本に登場する数少ない障害者である。ならば,この点から,学校に抵抗し,独自の学習活動を営もうとする者を,単に「登校拒否」「中途退学者」として個の病的資質に還元することはできない。むしろ,積極的な生の肯定として推奨されるべきものとして現れてくるのではないか。無論,ひとくくりに登校拒否者がみなそうだとするのは早計だが,このように考えることで,(当の本人にとっても周囲の人間にとっても論じる者にとっても)自由になれる部分は確かにあるだろう。続いて,立岩真也「弱くある自由へ」に取りかかる。

011215 いろんなところから注文しておいた本が届く。すべて,今読めるわけではない。しかし,こと本に関しては,欲しいと思ったときに買わないと手に入れることはできないと考えている。このような信念が本の衝動買いに走らせるのだ。たとえば。水曜日には,研究会で読む福井直樹「自然科学としての言語学」大修館書店を買っておこうと丸善に足を運べば,知らぬ間に高杉・柴崎・戸田(編)「保育内容『言葉』」ミネルヴァ書房,平山満義(編)「質的研究法による授業研究」北大路書房が手元にあった。家に戻ると,Yahooオークションで手に入れた,波多野完治「最近の文章心理学」それに「教育心理学新辞典」が。土曜日には,JamesのThe Principles of PsychologyとChristian Heath 1986 Body movement and speech in medical interactionが。1週間で7冊,うち研究会で使うのが2冊。1日1冊の計算。しかしぜんぜん読めていない。だんだん自分の性分が恐ろしくなってきた。

011210 先般,ひとつ仕事が終わった。日本語で出版する予定の本に入れるために英語の論文を訳してほしいというもの。たかだか20頁ほどだったが,それでも,商用の翻訳は初めてだったために気を使った。今は先方のチェックを待っている状態。ふと,これを書いている目の前にある新書を手に取る。柳瀬尚紀「翻訳はいかにすべきか」岩波新書。この人から学んだことは数限りない。そも,心理学の道に迷い込んだのも,この人の翻訳からだった。そんなわけで,信頼する文筆家である。その人が,三島由紀夫や二葉亭四迷を持ち出し,「翻訳とは日本語の問題なり。日本語として通用していなければならぬ」と,のたまう。自分の翻訳を見返すにつけ,ただ身を小さくするばかりである。

011209 昨日の「生の技法」は,ラテン語でARS VIVENDI。生→性で思い出したのが,高橋鐵(1953)「あるす・あまとりあ」。ハードカバー版と,河出文庫の新訂版の両方が,書棚の2列目に収まっている。さすがにいまさら通読する気はしないが,ときおりパラパラと眺める。貴重な資料である。

011208 安積・岡原・尾中・立岩「生の技法」を読んでいる。今月,大学院の集中講義に来る予定の社会学者,立岩真也氏があらかじめ読んでおくよう指定した本である。施設は施設性を持つがゆえに施設なのだということがよく分かる。障害者として入所する者は,この施設性を具体的な身体感覚で受け止め,ある者はそれに服し,ある者は反抗する。反抗した者が「自立生活者」として,自らの日々を自らデザインする。自らの手による生活のデザインこそが,人間らしい生き方なのだ。さて,学校は?と,問い返す。子どもたちに生活デザインの余地はあるのか。

011201 アマゾンより,Moll ed. Vygotsky and Education,McClelland&Siegler eds. Mechanisms of Cognitive Development,シュワーブら「初めての心理学英語論文」の3冊が届く。前日にあった飲み会で,英語で論文を書くことが話題になっていたので,3冊目は関心を持って読んでいる。

011129 年末年始の調査に向けて計画書追い込み。それと,来年9月に出る予定の本に載せる自分の分担章執筆と,同じシリーズに書く先生が英語で書いたものの和訳作業が並行してある。来週までにゼミのレジュメを作らなければならないのに。そんな中,ぺらぺらとめくっているのがロフランド&ロフランドの「社会状況の分析」。研究の方法論作りのために,この手の本をまとめて買ったり読んだりしている中の一冊。文中,調査結果が書けない,あるいは書きたくなくなるのはなぜか,その対処法は?というくだりがあった。それによれば,まず毎日書く癖をつけよ,とのこと。そんなわけで,こんな駄文をしたためている。毎日の読書記録とすれば,本も読まなくちゃならなくなるし,一石二鳥か。(書き方のスタイルは某教授とそのお弟子さんたちのをちょっと意識している)

011127 アマゾンからまた本が。Newman ed. 1996 Pedagogy, Praxis, UlyssesとMachan&Scott eds. English in its social conwebcat。前者は,教室活動にユリシーズを導入して面白い授業をしよう,というふれこみだったので慌てて買ったのだが,なんだか寄稿者を見るとみな英文学の先生。その中でかろうじて知ってたのが,キース・ブッカーくらい。しかも対象は高校や大学レベルの授業だという。少しがっかり。後者は,この中の1章だけ読みたくて買ったもの。コストパフォーマンス悪すぎ。

011126 Ninio&Snow 1996 Pragmatic Developmentが古本屋から届く。これでこの間入手したOchs&Shiefferen 1979 Developmental pragmaticsと合わせて語用論関係の本が2冊。語用論とはいったいなんなのか?

011120 またもやラッシュ。オークションで落札した「究極超人あ~る」9巻揃届く。昔持っていたが,売ってしまったのだった。この度,調べたいことがあって買ってしまった。ロッジ「バフチン以後」,桑野隆「未完のポリフォニー」も来る。現在,バフチンのポリフォニーとカーニバル関連の資料を集めている。

011117 オークションにて落札した吾妻ひでお作品集来る。状態非常に好。続けざまクラーク&ホルクイスト「ミハイール・バフチーンの世界」,トドロフ「ミハイル・バフチン 対話の原理」も届く。クラーク&ホルクイストに誤訳発見。p.142「チャンピオン」は擁護者の意だろう。

011116 来週に迫った博論構想発表会の準備をせねばならないが,ブルーナー「可能世界の心理」を読み直している。以前の読書会で読み飛ばした章があったからだ。ネルソン・グッドマン経由で社会構築主義social constructivismに立っていると書かれてあり驚く。原著は1986年!われわれはブルーナーの後塵を拝しているだけか。彼の10年先を行く研究をしたい。

011112 「身体とシステム」シリーズの一冊,高木光太郎「ヴィゴツキーの方法」を読了。しばらく高木節から離れられない。論文では決してできない体言止め。

011108 日心二日目。出版社回りをして金子書房から出た「身体とシステム」シリーズ既刊本3冊を買う。研究法向けに石黒広昭編「AV機器をもってフィールドへ」も買う。

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