2002年前半の日記より

020620 G. Lakoff & M. Johnson “Philosophy in the flesh”が遅れて届く。

020619 デジカメを買った。Canon PowerShot G2(中古で5万5千円也)。この中途半端さがたまらない。H.H.Clark “Using language”も届いた。

020616 ぼくらの結婚をお祝いしてくれる会に出席。お久しぶりの顔もちらほらと,楽しいひとときでした。参加してくれたみなさん,企画してくれたみなさん,どうもありがとう。また次の機会に。次?

020613 旅行準備に忙殺。ボルヘス「伝奇集」届く。「バベルの図書館」「記憶の人・フネス」など,話には聞いていた短編が読めて嬉しい。

020610 体中がだるい。出雲の神の御前にて,畏れながらお誓い申し上げたからには,偕老同穴共白髪,幾久しくよろしくお願いいたします。さ,これから旅行の計画を立てよう。

020605 久しぶりに中古書店にふらりと立ち寄る。とり・みき「遠くへいきたい」1を入手。

020602 人生の一大事の打ち合わせのため飯田橋。時間があいたので本屋へ。芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」9,鯨岡峻「<育てられる者>から<育てる者>へ」を衝動買い。あと一週間。「僕の夢や幻想やイメージは,往々にして凡庸だと思う。現実が侵入してきて初めて,おもしろいものに変化していくんだ。」-テリー・ギリアム

020528 先週から火曜日には,つくば市が協賛して開かれる家庭教育学級に保育ボランティアとして参加している。今日は9ヶ月と10ヶ月の赤ん坊をあやしてきた。普段は4歳以上の子どもとかけずり回って遊んでいただけに,だっこになかなか慣れない。加藤典洋「言語表現法講義」,田尾雅夫・若林直樹編「組織調査ガイドブック」,イアン・クリスティ「映画作家が自身を語る:テリー・ギリアム」がアマゾンから届く。

020526 すごい読書量ですねと,ここを読んだ人から声をかけられるのですが,全部を全部読み果せているわけではありません。たいていは棚の中で冬眠しています。しかし,本には絶版という運命があります。特にわたしの読みたいと思っているような類の本は,まず間違いなくベストセラーにはなりません。初版一刷で消えてなくなるものも多いのです。そんなわけで,わたしは惜しみなく本に金を注ぎ込みます。こうした態度や行動を「保護」と言います。また,そういう属性を持つ人をビブリオマニアと言います。今日保護したのは,ジョン・グラット「アイリッシュ・ハートビート:ザ・チーフタンズの軌跡」,川俣正・ニコラス・ペーリー・熊倉敬聡「セルフ・エデュケーション時代」,ダイアナ・ブリアー「アイルランド音楽入門」。Emmeのアルバム「yoy asa」も。これ,いいです。おおたか静流,RIKKIの声に涙する者は,Emmeにも心うちふるえましょう。

020523 加藤秀俊「取材学」。1975年初版の本だ。27年前である。年がすっと出てきたのは,わたし自身が75年生まれだから。いままではなかば我流で保育園の先生や領域の違う大学院生にインタビューをしてきた。そのたびに,自分の話し下手,聞き下手にいらだっていた。これでは話をするあちら側も迷惑である。しかしインタビューの方法というのは,通常の認知系心理学者要請カリキュラムには含まれていない。また,臨床心理は対話技法に重きを置く分野だが,わたしにはちょっと専門的すぎる。というわけで,インタビューの技法を自分で調べて身につけるほかないかと,まず手始めに上記の本を注文して読んだ。指摘されていたのは,前もってインタビュイーについて調べておくこと,質問を用意しておくこと。何より大事なのは,対話する構えだ。それには「間」の取り方にも気をつける必要があろう。目からウロコは,本の索引を「情報をコントロールする集中センター(p.53)」と形容していること。確かに,日本の出版業界では索引がおろそかにされすぎている。書籍の検索はコンピュータが仲立ちしてくれるのでとても便利だが,ある本の中のある語を探すというのは,やはり索引でないと。どんな本にも索引を付けよう。

020518 バフチン「ドストエフスキーの詩学」届く。心理学的バフチン研究会発足へ向け。瀬田貞二「幼い子の文学」読了。心に残るくだり。「人間というものは,たいがい,行って帰るもんだと思うんです。(p.7)」「私は童唄を保存し,普及させるのには三つの段階があると考えています。まず第一に,学問的な集大成がなくちゃならない。次に,大人向きのいい選択の童唄集が出て欲しいと思います。そして三つ目に,そういうものを経て子ども向きの童唄の絵本が作られれば,これはいいものがこしらえられると思うのです。(p.89)」

020512 いくつかの仕事が終わって人生の一大事への心づもりも出来かけた日曜の午後,座布団を干していると,宅配便のおっちゃんから荷物だよと下から声をかけられる。アマゾンからの荷物はいつもこのおっちゃんが届けてくれるのだが,たいてい平日の昼間に来るし,こちとら日中は大学にいるしで,結局何度も足を運んでもらう羽目になる。今日なぞ,さすがに日曜はいるなとイヤミを言われる始末。ははは,すみませんねと受け取りにサインをしてバタンとドアを閉める私。しかし何にせよ,新しい本を手にするときのこの嬉しさ。とっときのギネスを開け,パイントグラスにそそぎ込み,ひとり杯を傾けながら本をぱらぱらとめくる。BGMはAltanの”The Blue Idol”。これも一緒に買った。いきなり一曲目からポール・ブレイディの声がして仰天。8月の来日が楽しみ,チケット買おうかどうしようか。獲物は,長田弘・高畠通敏・鶴見俊輔「日本人の世界地図」,瀬田貞二「幼い子の文学」,窪園晴夫・本間猛「音節とモーラ」,河合隼雄・阪田寛夫・谷川俊太郎・池田直樹「声の力:歌・語り・子ども」の4冊。ジョイス「ダブリン市民」読了。いまになって通読したというのも,お恥ずかしい限り(だいたいフィネガンズ・ウェイクから読み始めているというのだから我ながら呆れる)。そうそう,瀬田貞二さんと言えば,例の指輪物語の翻訳者ということで僕の中では通っている。戸田奈津子さんは件の映画でアラゴルンの異名たる”Strider”を「韋駄天」と訳していた。瀬田訳は「馳夫(はせお)」。どちらがいいかというと,やはり馳夫なんだなあ。

020504 小泉文夫編「わらべうたの研究」楽譜編・研究編が届く。代引きで8000円也。巷に溢れた下らない本が平気で三千円前後の値を付けているのを考えると,これでいいのかと心配になるほど,安い。

020501 指導教官から本を多数貰う。ベイトソン「精神と自然」,寺村秀夫ら「ケーススタディ 日本語の文章・談話」,綿巻徹「ダウン症児の言語発達における共通性と個人差」,池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」,石坂啓「赤ちゃんが来た」,河村明子「この人のこの味が好き」。大島豊監修「Irish Music Disc Guide」これは本屋で買った。池波正太郎の本は文庫なので手軽に読んでいる。そう言えば,中に書かれていた神田の藪蕎麦は,その前を通りがかったことが一度だけあった。そのときは敷居が高そうで入らなかったが,これを読んで酒を飲みに行ってみたくなった。

020426 学振の書類作成中。よく引用する本を今までは図書館で借りていたのだが,書き込みができないので,とうとう書籍部で買う。梅本尭夫「子どもと音楽」。梅本は,「子どもにとって音楽とは何か」という問いに対して,逆に「音楽にとって子どもとは何か」とも問うている(p.4-5)。それと関連して,「音楽はどこにあるのか」とも問うべきだろう。なぜならば,音楽とは当然ながら無為自然な物質ではなく,人の手によって歴史的・文化的に形成されてきた,「音」のひとつの使い方,あるいは受け止め方であるからだ。音楽のある環境を作ってきたのはまぎれもなく人々の歴史であり,そうした環境にあってはじめて子どもは音楽を知るのである。そうすると,たとえば「わらべうた」の理解の仕方もぐっと面白くなってくるはずだ。その意味で小泉文夫「音楽の根源にあるもの」が示唆するところは大きい。小泉は「わらべうたはどのようにして育ってきたか」という書中の論文において,3つの問いを立てている。(1)わらべうたを伴わない遊びが普及する状況にあって,子どもたちの間でわらべうたの存在はどう変化しているか? (2)幼稚園・小学校など組織的教育の場で,大人がわらべうたや唱歌を与えている状況において,子どもたちだけで流通するわらべうたの存在はどう変化しているか? そして(3)わらべうたが変化しつつも生き長らえるうちにあって,長く生き続ける核となるような要素とは何か?本書は1977年が初版だが,問題にはまだ誰も手を着けていない。そしてこれが自分の学振のテーマとなる。

020423 今年度から筑波大学では交通安全会なるものが発足した。何をするかと言えば,要は,自由駐車場を一律有料化しようというのだ(件の安全会は資金の受け皿)。学内を走る自動車が急増する中,雨の日などは駐車場があふれかえり,せっかく仕事で車で来た人が停められないといった事態が起こっていた。それをなんとかしようと,一昨年あたりから学内委員会が発足してこのような結論になったわけだ。希望者は抽選で(!)駐車場の年間パスを買うという形になる。ゲート付き駐車場が10500円,ゲート無しが4400円。僕はゲート付きの方が当たった。というわけでついさっき郵便局へ振り込みに行って来た。10500円。静かに語っているが,内心は煮えくり返っている。万言労してもこの憤りはつきないだろう。この憤りとは,点字ブロックの上に自転車や自動車を停めた場合に視覚障害者が出会う憤りと,おそらく似たものではないか。対策はしてるんですけどねえ,と,困った顔をする事務方。「対策」とは,すべてうまくいく方法を編み出すことであり,一方の言い分を通すということではないのだぞ。この中途半端な福祉。おのれ宅悦,この怨みいずこへ晴らしてくれん。というわけで綾部恒雄(編著)「文化人類学15の理論」,遠藤健治「Excelで学ぶ教育・心理統計法」を買う。よかったね,平和な人間で。

020422 人の心について考えるということは,ただ単にアタマの中だけについて想像すればよいということではない。人が何を食べ,どういうものを身につけ,何を話し,何を聞き,何を見るかといったことについて深く考えることでもあるのだ。そしてまた,どういうところに住むかという問題も心と深く関わる。近年の説では,猿から人間への進化を引き起こしたのは,住環境の変化に適応する必要性だったという。身の回りに何があり,何を便利なものとして選び,そして暮らしやすいようにどう改変していくか。こうした住環境の創造という営みが,現在の私たち人間の心を作ったとも言えるのである。というわけで本屋の棚で手にした,渡辺仁史(編著)「建築デザインのデジタル・エスキス」。エスキスとは仏語(esquisse)で下絵のこと。この本の面白いのは,人間が空間をどう行動するかのシミュレーション結果をQuickTimeなどで映像化したサンプルが同梱のCD-ROMに納められていること。ついつい見入ってしまう。また,添付のCADソフト(体験版)で実際に自分でも建築デザインのまねごとができるようだ。

020421 雨の日曜日,わたしは世帯主となり,妻持つ身となった。紙の上の出来事にすぎないとは言え。結婚とは異文化接触だ,と言って研究をしている若手心理学者と先日の学会で会った。その視点は希有なものだ,とみな感心していた。世界の文化-そこには負の文化も含まれていたのだが-が抗う間もなく上陸し,落下してきた地,長崎は象徴的である。その長崎は今,畳の部屋で寝ころんで新聞を読んでいる。世界を一望させる新聞というインスクリプションを。この視点の逆転を分析しなければならない。ところで,栩木伸明「アイルランド現代詩は語る:オルタナティヴとしての声」を読み終えた。オングは「声の文化」「文字の文化」を対比させたが,声の文化にも一次的なもの,二次的なものがあることも同時に指摘している。重要なことは,これら文化は「道具」の存在を前提として同時代に同一地域で同一人物の中にすら併置されているということだ。エンゲストロムの言う「レンチ・キット」とはそのような状態を指す。

020420 静かな土曜の朝。ペリカン便で吾妻ひでお「クラッシュ奥さん」2,Cope and Kalantzis “Multiliteracies”がアマゾンより到着。指導教官から薦められた,シーガル「子どもは誤解されている」読了。子どもの認知発達研究を開拓したピアジェとその後継者たちの実験方法について,語用論的な視点から批判を加えたもの。たとえば子どもに2つのビーカーに入った水を見せる。ビーカーは同じ形,水量も同じ。続いて,底面積が小さいが背は高いビーカーと,底面性が広く背は低いビーカーにそれぞれ移し替える。ここで子どもに,どちらの方が水の量は多いかと尋ねる。すると子どもは,同じ量だった状態を見ていたにも関わらず,「こっち」と一方を指さす。これは通称「保存課題」として知られるもので,この結果から,ピアジェ派心理学者は,子どもは量の保存ができずに主観的な見かけに判断が引きずられてしまう,ひいてはアタマの中での操作が困難だ,と解釈してきた。ところが,われわれが日常的に行なう会話では,こうした質問は何か特別な意図があってなされたものだと判断してしまうようなものだ,というのがシーガルの指摘だ。シーガルはこのような実験場面で子どもが失敗する原因について,5つのあり得る候補を出す。(1)不確かな場合は反応を変更する(大人はなんでも知ってるはずなのに,質問をするということは,きっと自分の考えていること(それが実は正解かもしれないのだが)を越えた何かがあるのかも…,と子どもは思う),(2)不誠実さ(実験がいやなので,適当な答えを言って切り上げようとする),(3)面白すぎる課題(大人がこんなばかげたことを聞くなんて,きっと子どもっぽい答えを期待しているに違いない,と子どもが思う),(4)実験者への信頼(大人は間違ったことや子どもを害するようなことを言ったりしたりしない,と子どもは考える),(5)使われる言葉(「同じ」という言葉の意味が,大人と子どもとで共有されていない)。実際に,これら(1)~(5)の可能性を排除した実験をした場合,子どもは適切な回答をするようになったという。被験者は実験者の思惑の内側で行動しないという,言われてみれば実に当たり前なことだが,それを再認識させられた。

020419 エンゲストロム「拡張による学習」を読んでいる。一度読み切って,レジュメを書かねばならないパートをもう一度,詳しく読み返している。なぜこれを出版当時(日本語版初版1999年)に読んでおかなかったかと悔やむほどに面白い。この考え方を知っていれば修論ももう少し違った書き方をしていただろうに。だがしかしこの面白さは4年前の自分では分からなかっただろう,とも思う。道具を作る。その道具の新しい使い方を考え出し,みなで共有する。道具が増加し,バリエーションが生まれ,交換され,使われる。流通を支えたシステムに乗り切らない異形が道具のバリエーションのなかに生まれる。そこからまた新しい状況が生まれる。エンゲストロムの言う活動形態の歴史的移行とはこのように概略できる(んだと思う)。言語発達の場合,社会的矛盾としてのパロディが移行の原動力となるような気がするのだが,どう例証すればいいのやら。

020417 またまた。プリゴジン・スタンジェール「混沌からの秩序」。最近,発達心理をやってる院生たちの間で「時間」をどう理論に組み込むかが話題となっている。その準備。

020413 来た!ベイトソン「精神の生態学」!どーすべー。700ページ近くあっと。誰か一緒に読まねーかな。

020409 昨日は日帰りで奈良まで行って来たのでまだ疲れがとれないでいる。大阪樟蔭女子大の先生から,森敏昭編「面白思考のラボラトリー」と抜き刷りが送られてきていた。ありがとうございます。最近,就職という二字が背に重くのしかかりつつある。研究ばっかりできるところはないものか。

020405 熊本でやる教心の予稿集原稿を昨日速達で送った。右肩の荷が下りたものの,まだ左肩にでっかいのがある。へらへら笑ってる。くそう,と睨み付けながら,発心でいただいた抜き刷りに目を通す。

020402 新年度の開始にあわせて,マシンも新しくした。とは言え中古なのだが。でも今まで使っていたMebiusよりもいくらか処理が速いはず。そんなわけでDynabookSS DS60Pがこれからのメインマシンとなる。セットアップで一日半つぶれた。

020330 発心終了。さすがに三夜続けて飲むと体がむくむ。部屋に帰るといろいろと宅急便の荷物が。McHugh “Annotations to Finnegans Wake”,それに,Elman “Selected Letters of James Joyce”。意味というものに取り組むために,ジョイスの言語観をその手紙から読み取ってみたいと思う。そのための買い物。吾妻ひでお「魔法使いチャッピー」,吉田類「東京立ち飲みクローリング」もいっしょに届く。

020328 発心2日目。八王子から八高線で箱根ヶ崎へ,そこからバスで所沢キャンパスそばの農協(!)前へ,というルートをたどる。のどかな風景。思いがけず早く着く。拝島から所沢経由で小手指へというルートを勧められたが,そっちにせずによかった。ポスターを見たあと,ついつい出版社ブースに足が向かう。佐藤郁哉「フィールドワークの技法」とウサギのパペットを買う。大学院に入って結構な数の学会に参加してきたが,最近,身の処し方が分かってきた。ノートPCは突発的にできた暇な時間に仕事するための必需品。

020327 発達心理学会1日目。早稲田の人間科学。所沢。遠い。出版社のブースをまわって,いろいろ漁る。「質的心理学研究第1号」,エンゲストロム「拡張による学習」,無藤隆「協同するからだとことば」,西阪仰「相互行為分析という視点」,茂呂雄二編「実践のエスノグラフィー」。夜はしこたま飲む。そんな学会。

020322 今年はじめて大学会館書籍部に足を運ぶ。このとき,財布に1万円札なぞあるともういけない。安心してしまうのだな。気がつくと手には,喜多壮太郎「ジェスチャー」,多賀厳太郎「脳と身体の動的デザイン」,縄田和満「Excelによる統計入門」「Excel統計解析ボックスによるデータ解析」,ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」があった。来年度,学類生に統計的発想と手法について手ほどきをしなければならない。Excel使えるのなら,それが便利だよ。なにもわざわざSPSSやSASを買わんでも。(負け犬の遠吠え)

020321 ホルクイスト「ダイアローグの思想」をオークションで入手。でも読む暇無し。

020320 本ネタではないが,最近感動したことをひとつ。カシオがモバイル製品用に小型燃料電池を開発したらしい(http://www.casio.co.jp/release/fuelcell.html)。記事を読むと,なんだか分からないけど,なんかいろいろいいらしい。いろいろいいのはいいことだ。カシオバンザイ。おれも心理学界の小型燃料電池を目指すぞ。

020318 明和電機社長・土佐信道「魚コードのできるまで」買う。ゴミ拾いはぼくも好き。

020317 山形→長崎→箱根と,日本中を旅してまわった2週間であった。行き帰りの道中,さぞや本を読めたろうと思うのだが,これがまた情けないことにパラパラめくる程度で終わってしまっている。田中克彦「言語からみた民族と国家」は,レーニンとスターリンの抱く民族の定義を言語学者のカール・カウツキーから洗い直すという論文を含む選集。要は,国境や文化風俗ではなく,同一の言語を話す人々を民族とみなすという態度が,カウツキーからスターリンに引き継がれた態度のようだ。エスニシティと言語を教育の問題とからめて論じるフレデリック・エリクソンやキャズデンなどを読む際に参考になりそう。箱根では,温泉宿をなかば借り切り,物好きが集まってバフチンばっかり読んでいた。伊東一郎訳「小説の言葉」。言葉はすでに二重であり(社会的構築物としての記号,ダイアローグ),したがって転倒する潜在性を抱えている(カーニヴァル)。バフチンのキーワードはこのような一貫したまとまりのなかに点在するようだ。しかし,この転倒とは,絶対的な権威ある声と弱い市井の声とを同じ位置に並べるという態度と結びつきやすく,それゆえにバフチンはポストコロニアルやフェミニズムと連結しやすいのだと思うのだが,どうだろうか。

020306 東京駅でなくしたと思ってた切符が新潟駅で出てきた。拾ってくれた方に感謝。おかげで新しく買った切符代を払い戻すことができる。そんなわけでヴィゴツキー(柴田・根津訳)「芸術心理学」なんとなく読了。ヴィゴツキー若かりし時の論文集だが,その後の「思考と言語」に続く核心的なアイディアがすでに見ることができる。特に,近年はとみに相互補完的に読まれるバフチンとの近さが,この論文集においてはよく見える。

020303 またもや庄内,三川へ。行きの新幹線に乗る途中,どこかで帰りの切符をなくしてしまう。ひさびさのミスに落ち込む。落ち込みながらも,水村美苗「私小説from left to right」読了。むかし,ちょっとそこまで,というわけにはいかない,アメリカがあった。人は見かけで判断すべきではないと言うが,そんなのは単なる詭弁にすぎない。問題は,見かけで判断されるなかをどのように生き抜くか,ということだ。肌の色は,手っ取り早く判断できる「見かけ」である。女三界に家なしと言うが,やはり女でなければ書けない(無論それは社会的にそのようにし向けられているためなのだが)小説はあるものだ。

020225 一年間続いた学類生のインストラクター業務が今日で終わり。へとへとになって家に帰ると,机の上に小さな包みがおいてある。開けるとそれは,キャロル・吉田健一訳「不思議の国のアリス」だった。吉田健一の筆による訳ということで取り寄せた文庫本。なかをパラパラとめくると,キャロルのことば遊びは懇切丁寧にカッコ書きで説明されているだけで,英語のことば遊びを日本語のことば遊びへ移し替えるといったような作業はまったくなされていない。自分としては,柳瀬尚紀の「海亀フー」とまではいかなくとも,日本語でクスリと笑える一工夫があると面白いのだが。そういえば前日,別に二冊の本が送られてきていた。鎌田修「日本語の引用」,高橋英夫「花から花へ:引用の神話 引用の現在」。引用研究を本格化させる,そのための布石だ。

020214 新宿へ。新宿の駅まわりを歩くのは実に久しぶり。平日の昼だというのになんだこの人の波は。自分にとっての「歩く」とは半径100m以内にだれも人のいない空間を自分のペースで思う方向へ移動することなのであり,それが阻害されると途端に腹立たしくなる。というわけで新宿は嫌いだ。だが用事があるので来た。用事と用事の間に少し時間が空いたので紀伊国屋へ。サピア「言語」,それにバフチン合宿にそなえ「ミハイル・バフチンの時空」を買う。何もこの本を今手に入れなくてもよいのだが。

020212 アマゾンからCox&Lightfoot(Eds.) Sociogenetic perspective on Internalizationが届く。Nicolopoulouが書いた一章を読みたいがために6000円も出して買った。きっかけはそうだが,パラパラめくると面白そうな論文がいくつかありそう。本を買うというのは予期せぬ出会いでもある。コピーはイカンよ,コピーは。

020210 注文済みの本数冊届く。近藤信子・柳生弦一郎「にほんのわらべうた」,DeMusik Inter.編「音の力 沖縄」。最近,民謡関係の本をまとめているのは,上手くすれば来年度某企業から研究費がつくかもしれない研究のため。全国の幼保施設や家庭に行き,子どもたち同士で伝えあう歌や唱えことばの実態を探るというもの。どんどん正統心理学から離れていくような気がするが,このテーマを心理学でやるところに意味があるのだ。

020209 十日ばかり間を空けたのは,ここんとこ忙しくて,本を読んだり買ったりしていなかったせい。こういうとき,本にまつわることだけ書こうと決めたのは我ながら英断だったと思う。ならば,今こうして書いているのは,本を買ったから。成城学園で月一度開かれている読書会へ行くも,開始までは十五分ほど早く正門前に着く。成城の門の前には古びた本屋が一軒ある。構えは小さいながら,揃えはさすが,文庫や文系の本を中心に壁の棚一面に並んでいる。そこから手に取る三冊。滝田ゆう「泥鰌庵閑話」上下,大藤ゆき「児やらい」。滝田ゆうの聴覚はいったいどうなってるんだ。児やらいは,教育のT先生が主催している研究会で知ったことば。たとえばRogoffがユカタン半島での子育てを研究しているのと,日本の子育ての伝統とを,比較するきっかけはないかと買った本。

020131 庄内への道すがら,添田唖蝉坊・添田知道「演歌の明治大正史」と田中克彦「チョムスキー」を耽読。壮士演歌は初期こそ明治の新しい国造りの幕開けに欣喜雀躍していたものの,現在に通じる政治の貧困(貧困などはない,そもそも政治は「なかった」のだから,と知道は言うが)からその路線に見切りをつけ,大衆迎合の英雄潭や戦争鼓舞,それにあきらめの嘆息へと流れていった。このような流れである。知道は壮士演歌の子孫を繁華街の流しに見る。思えば北島三郎も流しであった。田中のチョムスキー批判は思想の根本の突き崩しである。文章に癖があるが,基本的には同意できる。

020126 明日からの山形出張へ向けて準備も終わり,ふたりでかきのき亭へ夕食を食べにつくばへ。6時からの予約で時間が余ったので友朋堂へ立ち寄り物色。往復の汽車のなかで読めるよう,田中克彦「チョムスキー」,「別冊国文學 現代日本語必携」,「国文學 音楽:声と音のポリフォニー」,植芝理一「夢使い2」を買う。かきのき亭はどの皿もはずれがない上,いつ行ってもほかに客がほとんどいないので,静かに食べられて良い。

020121 あわただしい一週間が始まる。原稿のために大学近所の中古書店へ。原文を引用するために宮澤賢治「風の又三郎」が欲しかったのだ。ジュニア文庫のような装丁で安売り100円だった。ついでに隣に並んでいたキャロル(中山知子訳)「不思議の国のアリス」と斉藤政喜「シェルパ斉藤の行きあたりばっ旅5」まで買う。しめて300円。やっぱり文庫はいいな。

020119 こともなし。アマゾンからWells The meaning makersが届く。原稿1/3出来。ちまちまと目につく未読本を数頁めくっては元に戻す。青柳悦子の「境界児」,「出生型・移植型」の概念は使えそう。

020117 どうも原稿が進まず,ここ二三日イライラし通しだ。先ほどなど電話口で思わず声を荒げてしまった。むろん電話の向こうの相手に非があったから声を荒げたので,誰彼かまわずどなりちらすまでにはいたっていない。平常心が必要だ。そんなときには本屋に行くに限る。で,東浩紀「存在論的,郵便的」,土田知則・青柳悦子「文学理論のプラクティス」を衝動買い。東浩紀さんはずっと気になっていた人。何年か前にも確かアクアクに来てトークをしたのではなかったか。最近文学理論が面白くてぐいぐい読んでいる。デリダ「ユリシーズ,グラモフォン」を読み終えた(そういえば,ジョイス=デリダにとって,「電話」はキーワードだ)。今書いてる原稿も,心理学と文学のようなテーマだから,心理学者が文学理論にはまっても構わないと言えば構わないのだけれど。

020112 Tobin Making a place for pleasure in early childhood education,筒井康隆編「現代世界への問い」「方法の冒険」がアマゾンから届く。後の2冊は,岩波から出ている21世紀文学の創造というシリーズの配本。最近,文学の手法が非常に気になる。ジョイスとプルーストが,人間の内面,心の動きを文筆の対象として描き始めたのが20世紀のはじめであった。それからもうすぐ100年が経つ。フィクションがリアルを越えることはできないと叫ばれ始めている今,何を書けばよいのか。それを,主に文学界の内部の人々が中心になって探っていくというシリーズ。期待している。

020111 山形県鶴岡市は寒かった。今月末の調査の下見と打ち合わせを兼ねて,指導教官とふたりで役場やら保育園やらをまわり,名刺をたくさんばらまき,同じ数だけ名刺をもらってくる。先生を一足先に帰して,自分はふらふらと特急が来るまでの時間を持て余し,HARD OFFとBOOK OFFをぐるぐるとめぐる。買いまくった。ジョイス(安藤一郎訳)「ダブリン市民」,キャロル(柳瀬尚紀訳)「不思議の国のアリス」,山根一眞「メタルカラーの時代5」,竹田青嗣「ハイデガー入門」。以上各一冊百円也。無藤隆編「ことばが誕生するとき」,唐沢なをき「電脳なをさん2」,川原泉「小人たちが騒ぐので」。だが,いちばんの掘り出し物は,東京バナナボーイズのアルバム「BEST ONE」。

020109 SFUのアルバムの厚いブックレットをパラパラめくると,明治から大正にかけて辻々にあらわれた演歌師について書いてあり,その存在が気になり始めた。添田唖蝉坊・添田知道「演歌の明治大正史」を大学の中央図書館から借りてくる。演歌とは,現在大衆に膾炙するところの惚れた腫れたではなく,演説歌,つまりは歌う瓦版である。世相を斬ったおかしみのある歌詞を作り,楽器片手に辻に立ち,吟唱する。歌詞の書かれたビラは1枚一銭。昭和のはじめ,ラジオの登場,リテラシーの普及とともに姿を消したが,その歌はいまだに力を持っている。歌の持つそうした力を信頼し,演奏するのがSFMSだ。この本,日本の古本屋で検索すると,全集6冊組2万円也。むちゃくちゃ欲しい。

020106 昨晩行ったカラオケに,SFUの曲が入ってた!「青天井のクラウン」1曲だけだけど,嬉しくて,ついつい歌ってしまった。案の定,ほとんど誰も知らないようだったけれど,気持ちよく歌う。それで,調子に乗ってサワーをがぶがぶ飲んでたら,今朝から気持ち悪い。それでも風呂入ったり布団干したりメシ作ったりしてると,なんとか持ち直してきた。ふと本棚からソウル・フラワー・ユニオン「国境を動揺させるロックン・ロール」を手に取り,読み始めた。自分は,気に入った音楽にたいして素朴な信頼を寄せているのだが,気に入るかどうかの基準は,作り手がマーケットに媚びていないかどうかだ,ということがこの本を読んで気がついた。たとえば,いわゆるケルト・ミュージックのコンピレが氾濫した時期があったが,あれは,聞く気になれなかった。逆に,KILAは何の気なしに買ったのだが,猛烈に浸ってしまった。やってる人たちも聞く人たちも,コラボラティブに音作りを楽しんでる,って姿がいいなあ。

020102 3月が楽しみだ。一本の映画がこれほど楽しみなのは久しぶり。あの,トールキン「指輪物語」である。テレビで連日CMを打っているので,さわりの映像を目にしたのだが,イメージの美しさは原作のそれを損なっていないように思われた。夢中になって読破したのは中学時代だから,もうすでに細部は忘れてしまっているのだが,原作を覆う重苦しい繊細さ,清廉な暗さの感覚はいまだに取り戻せる。そういえば当時,読みながらどうしても頭に描くことができなかったのが,「丘」の描写だった。木の精エントが列をなしてドットコドットコ丘の向こうから主人公のいるこちらに進軍してくる,というくだりがあったのだが,丘の向こうが見えるものだろうかと不思議に思っていた。それが,アイルランドに行って,納得した。高緯度地域,つまりトールキンがイメージしていたはずのイギリスやアイルランドの丘には木が生えていないのである。だからはるか向こうまで見渡すことができるのだ。例の魔法使い少年の話が大ヒットして,世はジュブナイルファンタジー復活の兆しを見せている。本棚には脇明子「ファンタジーの秘密」,赤井敏夫「トールキン神話の世界」がある。後者は読まずに8年ほったらかしの本だ。映画化を機にチャレンジしようか。

020101 正月のうららかな陽光が畳表を照らす午後,昨年末に上野の古本市で買った,文庫版の山根一眞「メタルカラーの時代」1・3・4巻を読む。2巻だけは入手していたので,バラで売ってないかなーと探していた代物。登場するオッサンたちのことばの端々に出てくる単位がまず違う。「万トン」「万ボルト」「サブミクロン」「ン千メートル」これらをぼくは想像もつかない世界だと思ってしまうが,しかしオッサンたちはこれらを具体的に使いこなす。いわば身体化している。この違いはなんだろうか。

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