たまには外で

dun (2012年6月27日 08:18)|コメント(0)| トラックバック(0)

「原書講読」という,外国語文献を読む授業が大学にはありまして,私はそれを担当しています。

今年はW. JamesのPrinciples of Psychologyを読んでいるのですが,現在読み進めている箇所は9章で,思考を川の流れになぞらえている部分です。

その日の札幌は好天に恵まれ,爽やかな陽気。建物の中でエアコンつけてる場合じゃないなと,大学への出勤途中にとあることを思いつきました。

その足で生協へ向かい,地面に敷くピクニックシートを購入。

北大には正門を入ってしばらく歩いたところに「中央ローン」と呼ばれている空き地がありまして,そこには「サクシュコトニ川」という人工的な川が流れています(かつては本当の川が流れていたそうです)。その畔で,原書講読をやったらいいんじゃないか,ちょうど思考の流れについて読んでいるのだから川の流れを見ながらというのは理に適っているのではないか,と思いついたわけです。

受講生に話すと,やたら嬉しそうな人も,困惑している人もいましたが,そこはそれ,北大生といえばジンパ,構内でシートを広げて車座になることはお手の物です。

ということでぼくの方ではシートの他に,いちおう講義中だということを示す看板と虫除けスプレーを準備していざ開始。

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受講生にシートを渡して,「これで教室を作ってくれ」とお願いしたところ,ちょうどいい木の下を選んでくれました。

2012062602.JPG

そばを通る人が怪訝な顔で看板を眺めていくのが面白いですね。

いつもの原書講読では,議論のポイントをぼくの方で誘導することがあるのですが,今回は川の流れに身を任せるように話の流れに委ねてみました。最終的には,他人の脳を移植することはできるか?という面白い話題になったのでよかったと思います。

外に出て講義をすることは一度やりたかったので,ぼくはとても嬉しかったです。受講生の受けもそれなりによかったのではないかと。ただまあ毎回はできませんね。

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無為の意味の多様性

dun (2012年6月21日 20:58)|コメント(0)| トラックバック(0)

大学のFDの一環で,学生からの評価の高い先生の講義を参観させていただけることとなった。

あいにくその先生ではなくてゲストの方が担当の回であったが,とても面白かった。

ゲストがお話しされたのは「デートDV」。高校生カップルを主人公としたデートDVの実例再現ビデオやロールプレイなど盛りだくさんの内容で,初めて知ることも多く有意義だった。

その講義のはじめ,ゲストの先生が学生に対しておこなった発問に対する反応の仕方に関する指示について「よくできてるなあ」と感心したのでここに書き留めておきたい。

発問は「あなたは愛する人に対して暴力をふるってもいいと思いますか」といった内容であった(正確な再現かどうかは自信なし)。

感心したのは,その後。発問に対する反応の仕方について,その先生は,「『いい』と思った人は手のひらを私に見せるようにしてあげてください」「『だめだ』と思った人は手の甲を私に見せるようにしてあげてください」と言った。

学生が手をあげたあと,先生は「わかりました。でも,どちらでもいいんです。思うことは自由です」と。

「ただ,暴力をふるってもいいと表明するという選択をしたのはあなたです。選択をした責任は100%あなたにあります。なぜなら,ふるってはいけないと表明するという選択肢もあったのに,あなたはそれを選ばなかったからです」(正確には,先生が言ったことはこうではなかったが,ここでの文意をつながりやすくするためにちょっと脚色した)

「暴力をふるわれたことについて,被害者も悪い,と考える人たちもいます。しかし,暴力をふるわないという選択肢もあったのに,ふるうという選択をしたのは加害者です。したがってその責任は100%加害者にあります」

なるほどな,と思った。主張の内容もさることながら,その内容を挙手行動という具体的な水準で体験してもらっていることについて感心したのである。

この方法では,学生は必ず手の平か甲のどちらかを前方に提示するという選択を実際にしなければならない。

これが例えば,「暴力をふるってもいいと思った人,手を挙げてください」「だめだと思った人,手を挙げてください」といったように,「手を挙げる-挙げない」で意思表示させるとどうなるか。大学生に教えたことがある人はすぐに想像できるが,けっこうな割合で「どちらにも挙手しない」という反応が出てくる。

このような指示では,「挙手しない」という反応を一意に解釈できないのである。ひとつは「『いい』(あるいは『だめだ』)と思っていない」ことの表明としての挙手しないこと。もうひとつは,そもそも先生の発問を無視するがゆえ,あるいは講義に参加しないがゆえの挙手しないこと,である。つまり,そもそも「選択しなさい」という指示にのらないという可能性があるのである。これでは,当初のメッセージであるところの,「暴力する・しないの選択」には結びつけられない。

それに対して,とにかく手を挙げさせて,手の平か甲かで選択肢を表明させる場合,手を挙げないことは即座に講義への不参加を表すこととなる(もちろん,腕が痛くて上がらないとか発問が聞こえなかったとかいった他の理由もあろうが,それはここでは考えない)。先生は「何もしない」という学生の反応の意味を解釈しやすいのである。

手の平か甲かを選択させる方法は,その他にもいろいろな面で有効だと思われる。

(1)学生自身の選択を,他の学生に悟られる可能性が減る。

これが,挙手させる-させないという反応の仕方だと,他の学生から自分の選択肢が視認しやすくなる。好きな食べ物とかどうでもいい質問ならともかく,答えづらいナイーブな質問の場合は他の学生に自分の選択を知られたくない場合もあるだろう。このとき,おそらく挙手しない反応が増加してしまうはずだ。

(2)前方に立つ教師にだけ選択肢を伝えられる。

(1)と関連するポイントである。教室の前に立つ先生だけが学生全体の反応の傾向を把握できればよいのであれば,手の平か甲かを前方に見せるやり方は非常に合理的である。

(3)講義時間の短縮につながる。

「いいと思った人,悪いと思った人」といったように2つの選択肢それぞれで挙手させる場合と,手の平か甲かで選択させる場合とでは,単純にかかる時間が2分の1になる。前者では2回別々に挙手させるが,後者では一度で済むからだ。学生に質問をたくさん投げかけるインタラクティブな講義はそれだけ時間がかかってしまう(学生の反応の時間的長さはあらかじめ読めないから)ことが多いが,規定の講義時間内に終わらせるためにはこういうところで時間短縮を図るのも重要である。

「いろいろな面で」と書いたが,3つしか思いつかなかった。たぶんまだ有効性はあるはず。おそらくは多くの先生方に知られた方法なのだろうが,恥ずかしながら初めて知った反応の仕方だったので,ここにメモした次第。

いずれにせよ,反応を求められる場面で「何もしない」という反応を返す学生は多くいる。その意味を把握する際に,「おまえはなぜ~」と後から問い詰めるのではなく,反応を返す時点で,反応の返してもらい方を工夫することにより,意味の解釈の幅をせばめておくのはとても大事なことであろう。何も為さないこと,すなわち無為にも多様な意味があるのだ。

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野火的研究会でホルツマンを読む(3)

dun (2012年6月13日 10:35)|コメント(0)| トラックバック(0)

Vygotsky at Work and Play

ホルツマンがヴィゴツキーから学んだことは,少なくとも2つあります。1つは「方法論における道具についての考え方」,もう1つは「認知と情動という二元論をいかに克服するか」という問題とそれに対する答えです。

まず第1の点について。

道具(tool)とは何でしょうか。一般的には,それは,ある目的のために用意されたものです。心理学における方法も一般的にはそのようなものと解されてきました。すなわち,なんらかの問題を解決に導くという目的のために用意されたものです。つまり道具は結果のためにある(tool for result approach),という考え方です。

この考え方では,道具とそれが対処すべき問題は切り離されていて,独立しています。また,その道具がもたらす結果はそれを適用する前から予測可能です。

それに対してヴィゴツキーは,「道具と結果が同時に生成され,それが連鎖するという活動」(p.9)として心理学的な探求をとらえています。道具と結果は切り離されているのではなく,「弁証法的な単位/統一体/全体の要素」だととらえられます。心理学の「方法とは,適用されるものでなく実践されるもの」(p.9)だというのです。

どういうことでしょうか?こういう事態を考えてみましょう。あることをしてみたら,ある帰結をもたらすことがわかった,とします。例えばごく素朴な事態,「背中がかゆい」を考えてみましょう。なんだか背中がむずむずするので手を後ろに回してかいてみるも,かゆさの本丸がどこだかはっきりせず,あちこち試しにひっかいてみる,ということはないですか。このとき,かゆくもないところをかいている手は「道具」でしょうか?かゆさの低減という課題を解決していないのですから,ただ背中をさまよっているだけのものです。しかし,ちょうどいい場所に手が行き当たったとたん,「ここがかゆかったんだ」というかゆい場所が同定されると同時に,そこをかいている手はかゆさを低減させる道具となるのです。つまり,道具と問題が同時に同定されるわけです。

ここで大事なことは,背中に手をはわせてとりあえずあちこちかいてみるという行動がまず初めにあり,その後で道具と結果が同時的に生起するという時間的な順序です。何が道具となり,何が結果となるのかは,事前には分かっておらず,あることを「する」ことで初めて,その状況を構成する様々なものごとの一部が道具的機能と帰結としての機能に分化したと考えるべきなのです。

まとめますと,道具と結果の関係については2つありうるのです。1つは道具は結果のためにあるという考え方で,ある結果がもたらされることを初めから前提して,あるものを道具とする見方です。もう1つがヴィゴツキーとホルツマンの採用するもので,道具と結果は実践的な行為を通して常に連続的に生起し続けるという考え方です。

次に第2の点について。ヴィゴツキーの発想法のひとつの特徴として,「二元論の克服」があります。例えば心身二元論は彼が克服しようとしていた最たるものでしょう。

認知(cognition)と情動(emotion)の二元論も彼が克服を目指したものです。ここで言うところの認知と情動とはどういうものでしょうか?実はホルツマンは認知はこれのことで情動はこれのこと,といったようにきちんと明示してはいません。ただ,読む限りにおいては,認知とは知的行為をもたらすような精神(mind)の働きのことで,情動とはいわく言い難い,突き動かされる衝動のようなものと考えておけばよいように思います。

実はホルツマンは1章で,現在のヴィゴツキー派の研究者を暗に批判し,「ヴィゴツキー理論をtheory of mindにしてしまっている」と述べています。ここでのtheory of mindは「心の理論」ではなくて,文字通り,精神に関する理論ですね。つまり,ネオヴィゴツキアンの関心が人間の認知的側面だけにあることが問題だと指摘しているのです。

こうした傾向はなにもヴィゴツキー派の研究者だけでなく,ある文化の全体的な傾向だとホルツマンは診断しています。例えば心理療法は個人の情動にフォーカスする実践領域ですが,それすら,例えば認知行動療法のように,認知によって情動をコントロールするという発想に支えられているわけです。認知と情動は分かたれた上で,認知が上位に,情動はひたすら二次的な位置に置かれるのです。

ホルツマンによればヴィゴツキーはこうした二元論を克服する方法を提起しています。それは「模倣」に注目することです。私たちの知的な行為のほとんどは,誰かから学んだものでしょう。例えば言語は典型的なものです。当然ですが子どもは「どうすれば話せるのか知らない」状態から出発するわけですが,それを抜け出る唯一の方法は,「まず話してみる」ことです。話すという行動は子どもの発明によるのではなく,周囲の大人がやっていることの模倣として生まれるのでしょう。ではなぜ模倣するのでしょう。それは,「目の前の大人がしていることをなんとなくやってみたくなってしまう」からだとホルツマンは言います。

このようにして,「なんとなくやってみる」ことから始まる創造的な模倣,つまり模倣ではあるけれどもかつてない新しい出来事が生まれていく過程において,認知的側面と情動的側面とは連続的です。やってみたらできた,できたから今度もまたやる,また別のことをするとできた…といったように。

これら2つの議論に共通する大事なポイントは,行為が先に立つ,という点です。俗な言葉で言い切ってしまえば,「やってみなければ分からない」ということになるでしょう。そんな簡単なことなのかと拍子抜けしてしまいますが,意外とこれがなかなか出てこないアイディアです。なにしろ一歩間違えれば単なる精神論です。その背後にある理論や思想をはっきりおさえておかねばなりません(ヴィゴツキーとホルツマンにとってそれはマルクスです)。

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野火的研究会でホルツマンを読む(2)

dun (2012年6月11日 09:21)|コメント(0)| トラックバック(0)

Vygotsky at Work and Play

 まずはじめに確認しておいた方がよいのは,ホルツマンが「発達心理学者」である,ということです。研究者として最初にトレーニングを積んだのが,言語発達心理学者のロイス・ブルーム(Lois Bloom)のもとでであったこと,次いで彼女がマイケル・コール(Michael Cole)らのプロジェクトに参加したことは無視できないことです。つまりは,日常的な文脈における子どもの発達や学習を見つめることが,彼女の基礎にあるのです。

 発達を理論化することは想像以上に難しいことです。例えば私たちはすぐに到達点からの眺めでもって,その道中を理解しようとしてしまいます。こうした発達観は,ピアジェのような発達段階論に見られます。子どもが「知的な」大人になる過程はどのようなものか,という問いのもとで,子どもの一挙手一投足が知的・非知的という網の目にかけられる。ある子どもの行ったことは,将来なるべき「知的成人」の種として解釈されるわけです。

 こうした理解の仕方を批判する研究者に浜田寿美男さんがいます。彼は,子どもは大人になるために生きているのではないと端的に批判し,不確定な未来に向かっていまここでもがき続ける子どもという観点から発達を描き直すことをもくろんだのです。

 ホルツマンが本書で展開しているのも実は同様の発想に支えられています。ただし,相当ポジティブな発想です。発達は不確定な未来に向けて一歩ずつ歩いていくようなものですが,その不確定性を不安なものであるとか,排除すべきものであるとかとは考えません(不確定な未来を排除する発想は,早期教育の典型的な前提でしょう)。むしろ,不確定ならば自分たちのいいように作っていけばいいじゃない,と発想を切り替えます。つまりは発達を創造的過程と捉えるのです。

 ホルツマンの発想が基づくのは,ヴィゴツキーの発達理論です。そこから彼女が何を学び取ったのか,次から検討していきましょう。

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野火的研究会でホルツマンを読む(1)

dun (2012年6月10日 19:57)|コメント(0)| トラックバック(0)

Vygotsky at Work and Play

野火的研究会なる集まりに参加するため,東京へ行っていました。

いわゆる社会文化的アプローチを掲げた研究者たちが集まり,これからの心理学のかたちを議論していこうという趣旨の会と理解しています。実は初めての参加。

ここで,この夏に来日するロイス・ホルツマン(Lois Holzman)の書いた"Vygotsky at Work and Play "を読むことになり,私が報告者を務めました。

ホルツマンについてはこのあたりを参照いただくとして,ここでは本の中身について少し紹介して,私なりの論点を挙げてみたいと思います。

さて本書は6章から成っていますが,全編を通して,ホルツマンが盟友フレッド・ニューマン(Fred Newman)とともにたずさわった組織であるEast Side Instituteで展開されたいくつかのプロジェクトが紹介されます。それが2~5章で,1章はそれらのプロジェクトを推進する背景となった心理学理論の紹介,6章はまとめです。

ただし,プロジェクトの紹介とは言え,すべてを書き尽くすことはできない道理ゆえ,プロジェクトのディテールがどうしても読み手,特にニューヨークの実情をよく知らない読み手には伝わってこないのです。人々の置かれた状況の大変さ,そこから少しでも何か新しいことが生まれるよう仕掛けを作っていくことの難しさ,instituteのスタッフは恐らく大変な苦労をされているものと思われます。そのあたりのディテールにこだわり出すと,隔靴掻痒感がどうしてもぬぐえないのです。ですので,本書はプロジェクトの紹介については「ほう,こういうプロジェクトがあるのだね」と,深くこだわらずに一読するくらいでよいのではないかと思います。

その代わりに,1章と6章はじっくりと読み込んで欲しいところです。ここはホルツマンがヴィゴツキー理論から何を学んだのかが書かれている章なのですが,通常のヴィゴツキアンが言うようなこととは少し違います。もしかすると,ヴィゴツキーのイメージが変わるかもしれません。

というところで続きます。

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英語の文献を翻訳してみよう(6)

dun (2012年6月 6日 21:54)|コメント(0)| トラックバック(0)

JamesのPrinciples of Psychology,Ch.1を訳してみる。これで1章を全文訳したことになる。

以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


Just so we form our decision upon the deepest of all philosophic problems: Is the Kosmos an expression of intelligence rational in its inward nature, or a brute external fact pure and simple?
そうすると,我々はあらゆる哲学的な問題の中でも最も深遠なものについて決断を下せる。すなわち,秩序とは,その内界の本質における合理的知性の表現なのか,それとも,純粋で単純な,知性のない外的な事実なのか,というものである。

If we find ourselves, in contemplating it, unable to banish the impression that it is a realm of final purposes, that it exists for the sake of something, we place intelligence at tile heart of it and have a religion.
このことについてよく考えると,我々自身,それが最終的な目標の領域であり,何かのために存在しているという印象を消すことができない。であるから,その核心に知性を位置づけて,宗教としてしまうのである。

If, on the contrary, in surveying its irremediable flux, we can think of the present only as so much mere mechanical sprouting from the past, occurring with no reference to the future, we are atheists and materialists.
逆に,一度きりしか起こらない時の流れの中で探求をする者として,未来を参照することなく過去から生まれた機械的な帰結にすぎないものとして現在を捉えることができるならば,我々は無神論者,唯物論者である。

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In the lengthy discussions which psychologists have carried on about the amount of intelligence displayed by lower mammals, or the amount of consciousness involved in the functions of the nerve-centres of reptiles, the same test has always been applied: Is the character of the actions such that we must believe them to be performed for the sake of their result?
低次のほ乳類が示す知能の量,あるいは,は虫類の神経中枢の機能に含まれる意識の量について,心理学者は長いこと議論してきた。そこでは,決まっていつも同じテストが使われてきた。すなわち,それらが示す行為は,それによる効果resultを目的として行われたと考えざるを得ないようなものか,というものである。

The result in question, as we shall hereafter abundantly see, is as a rule a useful one,-the animal is, on the whole, safer under the circumstances for bringing it forth.
ここで問題としている効果は,以降しょっちゅう出てくる言葉なのだが,ふつう都合よく使われる言葉で,総じて,それが生じた環境において動物が快適であることを指す。

So far the action has a teleological character;[p.9] but such mere outward teleology as this might still be the blind result of vis a tergo.
これまで,行為には目的論的な性質をもたせていた。しかし,このように素朴な唯物論的outward目的論は,後ろから押されて盲目的に起こることとして映るかもしれない。

The growth and movements of plants, the processes of development, digestion, secretion, etc., in animals, supply innumerable instances of performances useful to the individual which may nevertheless be, and by most of us are supposed to be, produced by automatic mechanism.
植物の生長や動き,動物の成長や消化,分泌などといった生物的な過程といったように,個体にとって有効な行動には数え切れないくらいの実例があり,にもかかわらずそれらは,自動的なメカニズムによって生み出されているのであろう。そして我々が行う過程の多くもそのようなものだと考えられる。

The physiologist does not confidently assert conscious intelligence in the frog's spinal cord until he has shown that the useful result which the nervous machinery brings forth under a given irritation remains the same when the machinery is altered.
ある興奮刺激を与えた状態でカエルの神経メカニズムが生み出した有用な効果が,神経メカニズムを変化させても恒常的であり続けるのでない限り,その脊髄に意識的知性があることを確信を持って生理学者が主張することはない。

If, to take the stock-instance, the right knee of a headless frog be irritated with acid, the right foot will wipe it off.
よく知られた例を挙げれば,頭部を除去したカエルの右足のかかとの部分を酸によって刺激すると,右足全体がそれをぬぐい取ろうとする。

When, however, this foot is amputated, the animal will often raise the left foot to the spot and wipe the offending material away.
しかし,右足(の神経を)切除すると,この動物は刺激を加える物質を特定しぬぐい去ろうとして,しばしば左足を上げるのである。

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Pfluger and Lewes reason from such facts in the following way: If the first reaction were the result of mere machinery, they say; if that irritated portion of the skin discharged the right leg as a trigger discharges its own barrel of a shotgun; then amputating the right foot would indeed frustrate the wiping, but would not make the left leg move.
プフリューガーとルイスはこうした事実を以下のように説明した。もしも,最初の反応が単なる機械的な結果であるなら,つまり,引き金を引いて銃身から発射するように,皮膚の部位に刺激を与えることによって右足が動くとするなら,(神経を)切除された右足は動こうとしても動けず,左足は動こうともしないだろう。

It would simply result in the right stump moving through the empty air (which is in fact the phenomenon sometimes observed).
右足は何もない空中を動くという結果になるだけだろう(実際,この現象が観察されることもあった)。

The right trigger makes no effort to discharge the left barrel if the right one be unloaded; nor does an electrical machine ever get restless because it can only emit sparks, and not hem pillow-cases like a sewing-machine.
右の銃身がなければ,右側の引き金には左の銃身から発射させる効果がない。発火させるだけなのだから,電気的に動く機械でも休みなく動くこともない。ミシンのように枕カバーの縁を縫うこともないのである。

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If, on the contrary, the right leg originally moved for the purpose of wiping the acid, then nothing is more natural than that, when the easiest means of effecting that purpose prove fruitless, other means should be tried.
反対に,もともと右足は酸をぬぐい去るという目的を持って動くとしたら,その目的を果たすための最短の手段がはかばかしくないと分かったとき,他の手段が試されるはずだというのが一番自然である。

Every failure must keep the animal in a state of disappointment which will lead to all sorts of new trials and devices; and tranquillity will not ensue till one of these, by a happy stroke, achieves the wished-for end.
あらゆる失敗は動物を不快な状態に引きとどめ,そこから様々な種類の新しい試行や工夫が生まれるはずである。こうした試行や工夫が幸運にも望ましい結果を達成するまでは安定性は得られないだろう。

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In a similar way Goltz ascribes intelligence to the frog's optic lobes and cerebellum.
同様に,ゴルツはカエルの知能が視覚野と小脳にあるとしている。

We alluded above to the manner in which a sound frog imprisoned in water will discover an outlet to the atmosphere.
沈めたカエルを水の中に閉じこめると,空気のある場所への出口を発見しようとするやり方について言及した中ですでにほのめかしておいた。

Goltz found that frogs deprived of their cerebral hemispheres would often exhibit [p.10] a like ingenuity.
ゴルツは,大脳半球を切除したカエルはしばしば知的な振る舞いをすることを発見した。

Such a frog, after rising from the bottom and finding his farther upward progress checked by the glass bell which has been inverted over him, will not persist in butting his nose against the obstacle until dead of suffocation, but will often re-descend and emerge from under its rim as if, not a definite mechanical propulsion upwards, but rather a conscious desire to reach the air by hook or crook were the main-spring of his activity.
カエルの上に水中でグラスを逆さにしてかぶせると,水の底から上昇しようとしてグラスの壁に阻まれつつ,さらに上に行こうとする。そうしたカエルは窒息して死ぬまで障害物に鼻をぶつけ続けることはない。しかししばしばカエルは下降しようとし,グラスの縁から浮上しようとする。固定された上昇への機械的な推進力ではなく,曲がってよけて外に到達しようとする意識的な欲望がその活動の主要なバネであるかのように。

Goltz concluded from this that the hemispheres are not the seat of intellectual power in frogs.
ゴルツはこのことから,カエルにおいては大脳半球は知能の座ではないと結論した。

He made the same inference from observing that a brainless frog will turn over from his back to his belly when one of his legs is sewed up, although the movements required are then very different from those excited under normal circumstances by the same annoying position.
ひっくり返されたカエルにとってそれは不快な姿勢であり,元に戻ろうとする。その片足を縫いつけたときに取る動きは,通常の環境で起こることとはまったく異なる。それでもカエルは元の姿勢に戻ろうとするだろうと,ゴルツは脳のないカエルを観察したことから同じような推論を行った。

They seem determined, consequently, not merely by the antecedent irritant, but by the final end,-though the irritant of course is what makes the end desired.
したがって,先行する刺激物は望む目的を生み出させるものではあるが,それだけでなく,最終的な目的によっても動作は規定されているのである。

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Another brilliant German author, Liebmann[2], argues against the brain's mechanism accounting for mental action, by very similar considerations.
聡明なドイツの学者,リープマンは非常に似たような考察を通して,精神的行為を説明する脳のメカニズムについて議論している。

A machine as such, he says, will bring forth right results when it is in good order, and wrong results if out of repair.
彼によれば,そうした機械はうまく動いているときには適切な結果を生むし,故障しているなら間違った結果を生む。

But both kinds of result flow with equally fatal necessity from their conditions.
しかしどちらの結果も等しい必然性を持ってそれぞれの条件から生じるのである。

We cannot suppose the clock-work whose structure fatally determines it to a certain rate of speed, noticing that this speed is too slow or too fast and vainly trying to correct it.
その構造により,針の進む速度が遅すぎたり速すぎたりするのに気づいて修正しようと試み,一定の速度を規定するような時計仕掛けを想定することはできない。

Its conscience, if it have any, should be as good as that of the best chronometer, for both alike obey equally well the same eternal mechanical laws-laws from behind.
もしそれが判断力を持っているとするなら,それは最良の時間計測器と同等と言うべきである。どちらも,その背後にある同等の永遠の機械的法則に従っているように見える。

But if the brain be out of order and the man says "Twice four are two," instead of "Twice four are eight," or else "I must go to the coal to buy the wharf," instead of "I must go to the wharf to buy the coal," instantly there arises a consciousness of error.
しかし脳が故障して,その人が「4の2倍は8だ」と言う代わりに「4の2倍は2だ」と言ったら,あるいは「石炭を買うのに河岸に行かねば」と言う代わりに「河岸を買うのに石炭に行かねば」と言ったら,たちまち意識の錯誤という問題が浮かんでくる。

The wrong performance, though it obey the same mechanical law as the right, is nevertheless condemned,-condemned as contradicting the inner law-the law from in front, the purpose or ideal for which the brain should act, whether it do so or not.
正しい遂行と同じ機械法則に従っているにもかかわらず,脳が実際にそうするかどうかはともかく,あらかじめ存在する内的法則,つまりは脳がそれを目指してふるまうべき目的や理想と矛盾しているとして誤った遂行は非難される。

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[p.11] We need not discuss here whether these writers in drawing their conclusion have done justice to all the premises involved in the cases they treat of.
ここでその結論を引用した人たちが,扱った事例において前提されることを公正に扱ったかどうかについて議論する必要はない。

We quote their arguments only to show how they appeal to the principle that no actions but such as are done for an end, and show a choice of means, can be called indubitable expressions of Mind.
ある目的のためになされ,手段の選択を示すような行為だけが,精神の疑うべくもない表現と呼びうるという原理を主張していることを示すためだけにこれらの議論を引用したのである。

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I shall then adopt this as the criterion by which to circumscribe the subject-matter of this work so far as action enters into it.
そこで私は,この本の主要な課題に行為を含める際の境界線を引くための基準としてこれを採用したい。

Many nervous performances will therefore be unmentioned, as being purely physiological.
したがって,純粋に生理学的なものとしての多くの神経活動については言及しない。

Nor will the anatomy of the nervous system and organs of sense be described anew.
神経システムや感覚器官の解剖学についても新しいことは記述しない。

The reader will find in H.N. Martin's Human Body, in G.T. Ladd's Physiological Psychology, and in all the other standard Anatomies and Physiologies, a mass of information which we must regard as preliminary and take for granted in the present work[3].
本書で前提とされ当然のものとすべき情報の多くは,MartinのHuman Body,LaddのPhysiological psychologyなどといった,他の標準的な解剖学や生理学の本によるものである。

Of the functions of the cerebral hemispheres, however, since they directly subserve consciousness, it will be well to give some little account.
しかし,大脳半球の機能については,直接的に意識に関与するため,ちょっと解説しておくのがよいだろう。

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英語の文献を翻訳してみよう(5)

dun (2012年6月 4日 09:46)|コメント(0)| トラックバック(0)

JamesのPrinciples of Psychology,Ch.1を訳してみる。前回からの続き。

以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


The boundary-line of the mental is certainly vague.
精神なるものの境界線は確かにあいまいである。

It is better not to be pedantic, but to let the science be as vague as its subject, and include such phenomena as these if by so doing we can throw any light on the main business in hand.
杓子定規にせずに,科学はその対象においてあいまいにしておくのがよい。そうすることで目下の関心に光を当てることができるのならば。

It will ere long be seen, I trust, that we can; and that we gain much more by a broad than by a narrow conception of our subject.
すぐ後述するが,私の信ずるところによれば,光を当てることはできる。この学問に関する概念を狭くとるよりも広くとった方が,多くを得られるだろう。

At a certain stage in the development of every science a degree of vagueness is what best consists with fertility.
どのような科学もその発展のある段階において,ある程度のあいまいさは豊かさと同じである。

On the whole, few recent formulas have done more real service of a rough sort in psychology than the Spencerian one that the essence of mental life and of bodily life are one, namely, 'the adjustment of inner to outer relations.'
総じて,近年提案された公式化のうち,スペンサー的なそれ以外は,概略のところ心理学にとっては実質的にほとんど役に立っていない。スペンサー的なそれによれば,生の精神的側面と身体的側面の本質は同一,つまり,「内の世界と外の世界の関係を調整するもの」である。

Such a formula is vagueness incarnate; but because it takes into account the fact that minds inhabit environments which act on them and on which they in turn react; because, in short, it takes mind in the midst of all its concrete relations, it is immensely more fertile than the old-fashioned 'rational psychology,' which treated the soul as a detached existent, sufficient unto itself, and assumed to consider only its nature and properties.
これこそあいまいさが具体化されたものである。しかしこれは,環境が精神にはたらきかけるとともに,それに対して精神が反応するという,環境内における精神のありように関する事実を考慮に入れている。要するに,これは精神をその具体的な関係性の中に置いているので,魂を独立した実体として扱い,それ自体で自足させ,その本質と属性のみを考えようとする古くさい「合理的心理学」とは比べものにならないくらい豊かなものなのである。

I shall therefore feel free to make any sallies into zoology or into pure nerve-physiology which may seem instructive for our purposes, but otherwise shall leave those sciences to the physiologists.
それゆえ私は,気兼ねせずに動物学や純粋な神経生理学の領域にも,生理学者に明け渡すのではなく,手を伸ばしてみよう。それらは我々の目的に示唆を与えてくれるように見える。

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Can we state more distinctly still the manner in which the mental life seems to intervene between impressions made from without upon the body, and reactions of the body upon the outer world again?
身体ぬきで与えられる印象と,身体の反応が再び外の世界に与えることとの間に,生の精神的側面が介在するその仕方について,よりはっきりと言えることはあるだろうか。

Let us look at a few facts.
いくつかの事実を検討していこう。

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If some iron filings be sprinkled on a table and a magnet brought near them, they will fly through the air for a certain distance and stick to its surface.
鉄粉が机の上にまき散らされていて,磁石をそのそばに近づけると,それはある程度の距離なら中空を飛んで磁石の表面にくっつく。

A savage seeing the phenomenon explains it as the result of an attraction or love between the magnet and the filings.
これを見た未開人は,磁石と鉄粉の間にある引きつけ合う力とか愛情とかの結果としてこれを説明する。

But let a card cover the poles of the magnet, and the filings will press forever against its surface without its ever occurring to them to pass around its sides and thus come into [p.7] more direct contact with the object of their love.
しかし,一枚のカードで磁石の極を覆うと,鉄粉はカードの表面に永遠にくっつくことになる。愛する対象にまっすぐ向かうためにカードの表面を迂回することもなく。

Blow bubbles through a tube into the bottom of a pail of water, they will rise to the surface and mingle with the air.
バケツにたまった水の底まで管を入れてその端から息を吹いて泡を出すと,それは水面まで上昇して空気中に融けていく。

Their action may again be poetically interpreted as due to a longing to recombine with the mother-atmosphere above the surface.
その動きも同様に,水面を覆う母なる大気と再び混ざり合おうと熱望するためと詩的に解釈できるかもしれない。

But if you invert a jar full of water over the pail, they will rise and remain lodged beneath its bottom, shut in from the outer air, although a slight deflection from their course at the outset, or a re-descent towards the rim of the jar, when they found their upward course impeded, could easily have set them free.
しかし,ビンを逆さにして水の入ったバケツに入れると,泡は上昇してビンの底にたまり,外の空気から遮断される。上昇する道が妨害されるのに気がついたなら,上昇していく際にわずかにそれていったり,ビンのふちに向かって再び下降したりすれば容易に自由になれるはずであるにもかかわらず。

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If now we pass from such actions as these to those of living things, we notice a striking difference.
これらの動きを生物のそれに変えると,決定的な違いに気がつく。

Romeo wants Juliet as the filings want the magnet; and if no obstacles intervene he moves towards her by as straight a line as they.
鉄粉が磁石を求めたように,ロミオはジュリエットを求める。何も障害がなければ,彼は彼女に向かってまっすぐな線に沿って移動する。

But Romeo and Juliet, if a wall be built between them, do not remain idiotically pressing their faces against its opposite sides like the magnet and the filings with the card.
しかしロミオとジュリエットの間に壁が築かれると,カードを挟んだ磁石と鉄粉のように壁の両側からバカみたいに顔を押しつけ合ったままでいることはない。

Romeo soon finds a circuitous way, by scaling the wall or otherwise, of touching Juliet's lips directly.
壁をよじ登るか何かして,ロミオはすぐに迂回する道を見出し,ジュリエットの唇に直接触れるのである。

With the filings the path is fixed; whether it reaches the end depends on accidents.
鉄粉の道筋は固定されていて,偶発事に依存した目的地点に到達する。

With the lover it is the end which is fixed, the path may be modified indefinitely.
恋人の場合,目的地点が固定されていて,その道筋は固定されておらず調整される場合がある。

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Suppose a living frog in the position in which we placed our bubbles of air, namely, at the bottom of a jar of water.
水の入ったビンの底で空気の泡を発生させる代わりに,生きたカエルを入れたと想像してみよう。

The want of breath will soon make him also long to rejoin the other-atmosphere, and he will take the shortest path to his end by swimming straight upwards.
すぐに呼吸がしたくなってカエルは外にある空気に触れたくなり,その目的に照らして最短の道を選び,まっすぐ上に泳いでいくだろう。

But if a jar full of water be inverted over him, he will not, like the bubbles, perpetually press his nose against its unyielding roof, but will restlessly explore the neighborhood until by re-descending again he has discovered a path around its brim to the goal of his desires.
しかし水で満たされたビンをカエルの上にかぶせると,泡と同様に,彼には外の大気に触れることはできない。堅い屋根に鼻を押しつけ続けるばかりであるが,たえまなく壁の外を探し出そうとして,再び下降して縁を迂回して望むゴールへの道筋をついに発見するのである。

Again the fixed end, the varying means!
またしても,固定された目的,多様な手段だ!

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Such contrasts between living and inanimate performances end by leading men to deny that in the physical world final purposes exist at all.
このような生物と無生物の振る舞いの比較から結論されることは,自然界には最終的な目的はまったく存在しないということである。

Loves and desires are to-day no longer imputed to particles of iron or of air.
愛や欲望は今日ではもはや鉄粉や空気に帰せられることはない。

No one supposes now that the end of any activity which they may display is an ideal purpose presiding over the [p.8] activity from its outset and soliciting or drawing it into being by a sort of vis a fronte.
そうしたものの示す活動の目的が,そもそものはじめから活動全体を統御し,ある種前方からそれを引き出す心的な目標であると想定する者はいまや誰もいない。

The end, on the contrary, is deemed a mere passive result, pushed into being a tergo, having had, so to speak, no voice in its own production.
反対に,目的は単なる受動的な結果であって,言わば,結果から呼ばれることなく後ろから押されて現れるものだとみなされている。

Alter, the pre-existing conditions, and with inorganic materials you bring forth each time a different apparent end.
生きていない物質について,前もって存在する条件を変えると,その結果はその都度さまざまな明白な帰結に導かれる。

But with intelligent agents, altering the conditions changes the activity displayed, but not the end reached; for here the idea of the yet unrealized end co-operates with the conditions to determine what the activities shall be.
しかし知性を持つ行為主体について,条件を変えることによって,それが到達する目的ではなく,それが示す活動が変わる。これにより,まだ実現していない目的についての観念は,条件と結びついて,その活動がいったい何であるかを決定するのである。

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The Pursuance of future ends and the choice of means for their attainment, are thus the mark and criterion of the presence of mentality in a phenomenon.
未来の目的を追求すること,それを達成するための手段を選択すること,これらはしたがって,ある現象において精神性が存在することの標識と基準である。

We all use this test to discriminate between an intelligent and a mechanical performance.
このテストを使えば,知性のある行動と機械的な行動とを区別することができる。

We impute no mentality to sticks and stones, because they never seem to move for the sake of anything, but always when pushed, and then indifferently and with no sign of choice.
棒や石に精神性を見出さないのは,何かのために動いているようにはけっして見えずに,押されたら常に,選んだ様子もなく決まったやりかたで動いているようにしか見えないからである。

So we unhesitatingly call them senseless.
なので我々は躊躇することなくそれらを感覚を持たないものと呼ぶ。

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