北教大釧路校集中講義第3日目レジュメ

dun (2013年2月22日 09:05)|コメント(0)| トラックバック(0)

ヴィゴツキーの心理学理論に含まれる概念に基づいて,現在ではさまざまな実証的研究やそれに基づく新たな理論が生まれています。

そうした,ヴィゴツキー心理学理論を源流にもつ研究の流れは「社会文化的アプローチ」とか,「文化歴史的活動理論」(Cultural Historical Activity Theory; CHAT)などと呼ばれています。

これらの研究のうち,今日は2つを紹介することを通じて,ヴィゴツキーのアイディアが現在どのように継承されているのかを明らかにしたいと思います。

1. 対話論との接続

いきなりですがTEDのスピーチを見てください。これからお話しすることと深く関係している内容です。

カービー・ファーガソン リミックスを受け入れよう

いかがでしたでしょうか。リミックスということについてちょっと考え方が改まったのではないでしょうか。

いまから私が言いたいのは,リミックスにかんするこの考え方は,人間の心理についてもあてはまるのではないか,ということです。極端に言うと,私という存在そのものがリミックスなのです。

「私」とは何でしょうか。心理学では,自己selfと呼ばれる,自分自身についての意識はいつから存在するのでしょうか。もしもそれが発達の後の段階で生まれたとすれば,どのようにして生まれたのでしょうか。

心理学や哲学には対話的自己dialogic selfという考え方があります。これは,自己とは人が他者と社会的にやりとりをすることを通して意識のなかに作り上げられるものだ,という発想です。この発想からすると,自己とはそもそも純粋に自分自身だけのものではなく,さまざまな人の考え方が複合的に入り交じったものだと言えます。注意しておきたいのは,誰かの考え方に影響を受けたとか,誰かの考え方を知っているといったレベルの話ではなく,そもそも他者がいなければ自己は成り立ち得ないという発想をこの考え方はとるのです。

対話的自己という考え方のもとのひとつは,ミハイル・バフチンというソヴィエトの文学者・言語哲学者の考え方でした。バフチンのいう「対話」とは,人間という存在のありようについての考え方です。この考え方によれば,自己とは孤立した個人のなかで変化することなく純粋な形で存在するものとみなすことはできません。むしろ,相容れない異質なものが並び立つことを通して現れてくるものとして理解されます。

バフチンは『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)において「在るとは対話的に交通することを意味する。... 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」と書いています。彼は言語哲学者なので言葉をモチーフにして語っていますが,ここに言われているように,対話という概念が強調するのは,複数の言葉が並置されている状態です。これを多声性(ポリフォニー)と呼び、誰にも向けられていないモノローグ的発話と対立させられます。

この対話的な自己がどのようにして生まれたのかを説明してくれるのが,ヴィゴツキーの発達理論なのです。先取りして言えば,ヴィゴツキーによれば自己とは他者から手に入れた媒介手段を通して自覚できるようになった意識のことです。このときにもっとも重要な媒介手段が言葉です。

ヴィゴツキーの発達論によれば,学童期から思春期にかけて子どもに起こる重要な変化は,筋道の通った思考ができるようになることです。たとえばピアジェは形式的操作期になると論理的な思考ができるようになると述べています。たとえば三段論法を使って,前提が満たされれば演繹的にある帰結が導かれることを考えることができます。ピアジェは形式的操作期までの発達的変化を,子ども自身による,課題のなかの論理性の発見という観点から記述しました。あくまでも,子どもが自分自身で発見しなければならないという点がミソです。

一方でヴィゴツキーの場合,筋道の通った思考とは言語と思考が結びついた思考のことです。言語的思考と呼びます。彼によれば,言語と思考は発達の初期においてはつながりをあまりもたずにそれぞれ機能していました。動物を見ればわかると思いますが,たとえばケーラーによるチンパンジーの実験ではかれらは言葉を話さなくても状況を全体的に捉えて問題解決に至る筋道を探して実際に解決しています。ここから,思考そのものは動物にも見られる心理機能だとヴィゴツキーは考えます。言語,つまり口から規則的に音声を発することも,動物に見られます。鳥やイルカの鳴き声は仲間同士のコミュニケーションのために使われていることは知られています。言語も動物に見られるわけです。

これら2つの心理機能が結びついて新しい機能を果たすようになったのが言語的思考だとヴィゴツキーは考えています。思考の特徴は同時に全体を把握することです。チンパンジーは課題解決状況を全体的に捉えます。一方,言語の特徴は単語と単語を順番に並べていって作られることです。音楽と同じように,時間とともに展開していくのが言語です。同時的・全体的なものと,時間的なものとが結びつくとどうなるでしょう。そう,思考のなかに「順番に考える」という機能が生まれるわけです。これをヴィゴツキーは言語的思考と呼びました。順番に考えることとは言い換えれば筋道立てて考えるということです。

ではこの言語的思考はどのようにして生まれるのでしょうか。ヴィゴツキーが述べた心理学的な概念のうち,外言(external speech)と内言(inner speech)は著名でしょう。ヴィゴツキーはこれらを,子どもの言語的思考の発達過程を述べる際に導入しています。ヴィゴツキーによる結論を先に言えば,外言から内言へという方向性で発達は起こるわけです。

ヴィゴツキーによれば,言葉はまず,幼児の生活のなかでは,他者とのコミュニケーションのための機能を果たすものとして発生します。これは他者とのコミュニケーションのための機能を果たすのですが,次第に,自分自身に向けても使われるようになります。いわゆる「独り言」private speechです。子どもの遊ぶ姿を見ていますと,独り言をぶつぶつつぶやいていることがよくあります。次の段階として,音声化されることのない,頭なのなかでだけで響く言葉が使われるようになります。これを「内言」と言うわけです。そして,後になると思考と内言とが結びつき言語的思考が可能となります。こうした過程をヴィゴツキーは,「精神間機能から精神内機能へ」というフレーズで表現しています。

実際のところ,思考はさまざまなものと結びつきます。たとえば計算をするとき,小さな子どもは指を折って数えますが,指を折ることと思考とが結びついているわけです。後になると,頭の中の数のイメージと計算とが結びつくようになりますが,この発達過程は,思考がどのような道具を使うのか,その使われる道具の変化過程として考えることができます。

ここまで聞けばわかるように,私たち人間の思考はさまざまな道具と結びついて力を発揮するわけです。この道具のことを社会文化的アプローチやCHATでは媒介とか媒介手段と呼びます。

媒介ははじめ人間の内側ではなく,人間の外側で使われていたものです。それは,発達する子どもが初めて発明したものではなく,ほかの誰かがすでに使っていたり,作り出したり,置いていったりしたものです。子どもは,それを借りて使うなかで他者とのコミュニケーションを図ります。そして,そうして他者から借りた媒介が,最終的には自分自身のことを反省的に振り返るための内的な媒介手段として用いられるようになります。

以上をまとめてみますと次のように言えます。まず,人間は対外的にはたらきかける際に他者から借りた媒介を用いること,そして,その媒介は自分のなかで機能するようになることです。自己を自分自身についての思考だとすると,そこにははじめから他者から借りた媒介が欠かすことができないといえます。

では,この私が他者の寄せ集めのようなものだからと悲観すべきなのでしょうか。最初のTEDスピーチを思い出してみてください。クリエイティブであることと,オリジナルであることは同じことではないのです。クリエイティビティは外側からやってくる,と言っていました。ヴィゴツキーの考え方によれば,私は他者から盗んださまざまな媒介を通して行為しています。私が私として何かを行うことには,他者に由来する媒介が不可欠なのです。

ここから話は急展開します。この媒介は無味無臭のものではありません。媒介は他者から借りたものだと言いましたが,媒介にも固有の歴史があります。つまり,その媒介が生まれた具体的な経緯があるのです。つまり,誰が,どのような目的で,その媒介を作り出したのかという具体的な理由があるわけです。言ってみれば,媒介には生み出した過去の人の怨念のようなものが宿っていると言ってもいいでしょう。後の世代の私たちが,すでにこの社会のなかにある媒介を使うということは,そうした怨念も引き受ける,ということになります。

たとえば,この社会には「使ってはいけない言葉」がいくつもあります。いわゆる卑俗な言葉とか,差別的な言葉です。そうした言葉は,人間をあるカテゴリーで分類し,正常と異常の枠のなかに囲い込むという文化社会的な実践において使われていたわけです。言葉に厳しい人というのは,何もルールとして使ってはいけないから使わないのではなく,ある言葉が生まれた経緯やその背景を批判するという意味でそこで用いられた言葉も使わないようにしている,ということなのだと思います。

そうしますと,媒介というのは自己を構成するわけですから,自己は媒介に潜在する固有の歴史を通してなんらかの社会的な実践や文化,歴史に位置づけられると言うこともできます。いわゆる思春期のアイデンティティ形成というのはまさにこの過程のひとつでしょう。自己を学生として認識すること,つまり「学生」という言葉を媒介として自己を構成することには,「学生」という言葉にひそむ他者の怨念が含まれます。たとえば「勉学にいそしむ」というイメージや「暇な時間がある」といったイメージがこの学生には含まれるわけです。しかしそうした媒介のイメージと自分自身の実際の行動が矛盾するときには,アイデンティティが揺らいでしまうこともあるでしょう。たとえば他者から「学生は時間があっていいよな」と言われても実際にはバイトで忙しいとか。そういうときには腹が立つわけです。あるいは学生なのにこんなことをしていいのだろうかと言って自分で勝手に悩んだりするわけです。

他者から借りた媒介が自己を形成することから,以上のような問題も同時に起きてくるのです。こうした悩みは人間が人間である限りなくなることはないでしょう。

★講義ではもう1つの話題を出しましたが,その内容はすでに以下に書きましたのでリンクのみ紹介します。

野火的研究会でホルツマンを読む(2)

野火的研究会でホルツマンを読む(3)

ホルツマンについてはこちらのサイトを参考にしてください。

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北教大釧路校集中講義第1日目レジュメ

dun (2013年2月19日 18:42)|コメント(0)| トラックバック(0)

0. いま,なぜ,ヴィゴツキーを読むのか

教育になんらかの「問題」を見出す言説があります(言説とは,人が言ったり書いたりしたことのうち,多くの人が採用する定型的なもの)のことです。たとえば,学校でいじめが起こるのは道徳心や規範意識の低下があるからだ,というようなものです。

では,問題を解決するための最善の教育手法があるのでしょうか?たとえば道徳を教科化すれば解決するのでしょうか。ある程度の効果はあるのかもしれません。しかし,トップダウンによる改善策の提案とその実施によって,問題が一瞬にして解決するとは思えません。

教育とは,人々の毎日の暮らしのほんの些細なことの積み重ねです。いじめをさせないことといった具体的な課題もほんの些細なことの積み重ねでしか解決されないでしょう。

では学校の教師は毎日の授業のなかで何をしているのでしょうか。実は,何もしていないのかもしれない,と考えさせる言葉を読みました。それは,1970年の夏に,国語教育で著名な大村はま先生が富山県の小学校新規採用教員研修会で講演したことにあります(以下引用は,大村はま (1996). 新編教えるということ 筑摩書房 より)。

「私は今日,「教えるということ」を題にしました。なぜかと申しますと,「教える」ということをしない教師がたくさんいて,困るからです。それでは,「教えない」というのはどういうことなのでしょうか。」(p.37)

教師というのは世間一般では「教えること」を職業の内容とする人たちのことです。その人たちが教えないのだと大村はま先生は言っています。どういうことでしょうか。大村先生は中学校の国語の先生だったこともあり,国語を例にして述べている。

「…速く読む力は,文字が一度に意味になって,どんどん頭の中へはいっていくことをいうのです。一度音声化されたら,「音読」は絶対に「黙読」より遅いに決まっています。ところが,黙読できない子どもは,「黙って読みなさい」と注意されても音声化してしまっています。
こうした子どもは,小学校一年のうちに絶対に直さないと,時機おくれになります。それで,そういうことを発見したり,直したりするには,「家で読んでくる」のではだめです。ですから,「読んできたか」と聞く教師は,何も教えないで,いちばんたいせつなことを家でやらしてしまっていることになります。ただ検査官として,どの子が読めるようになったかを音声化させて聞いている。ペラペラと上手に暗唱するように読むと,「よく読めました」という。しかし,ほんとうに「よく読めた」のかどうか。それからその子が読んでいる時,他の子どもはどうしていたのか。「黙って読め」といわれても,声帯が動いてしまう子どもに,その時教師はどのように手当てをしたのでしょうか。このように,学校でやるべきことをしないのを,「教えない」と私はいうのです。」(pp.40-41)

少し長く引用しましたが,大村はま先生の言う「教えない」の意味は分かったでしょう。教師が学校を単に確認の場にしているのではないかと言っているわけです。

大村はま先生が1970年において苦言を呈したような教師が現在いるのかどうかは分かりません。しかし,もしもそういう教師ばかりだったとしたら,その帰結がどうなるかははっきりしていると思います。

大村先生の言う意味で,学校で教師が「教えない」としたら,その子どもの学業成績は何に依存するかというと,それは子どもの底力に依存します。もう少し正確に言うと,子どものもって生まれた素質のようなものです。これは筋肉の具合とか見た目といったものと同じ水準で個人差があるものです。勉強ができる子どもとは,そうした多様性を持つ子どもたちのうち,たまたま,ものを覚えたり考えたりするのに適した知的能力を持つ子どものことだと言えます。

さらに言うと,子どもの暮らす生活環境も「底力」を規定します。ある子どもが,どんな文化の,どんな社会の,どんな家庭で暮らすのか。のびのび健やかに育とうと思っても,さまざまな障壁があって,とにかく日々を生き延びるだけでせいいっぱいで,勉強をしようにも非常に難しいという子どもがいることも事実です。

教師が「教えない」のだとしたら,子どもはどこかで学んでこなければならないわけです。学校以外で教える人がいなくても,覚える素質があれば勝手に覚えていくでしょう。覚える素質がなくても,教える人がそばにいれば学ぶこともできるでしょう。しかしどちらも不十分な子は,どうでしょう。

かつて,1990年代から2000年代にかけて,子どもの学力低下論がさかんになされました。これも「言説」のひとつだったのですが,この問題について1989年に実施された学力テストと2001年に実施された学力テストを比較した研究では,その言説が具体的な数値で示されました。

当時東京大学にいた苅谷剛彦と清水宏吉らのグループは,1989年に大阪で実施された学力調査に目をつけ,それとほぼ同レベルの問題を,およそ10年後の2001年に同じ地域の小中学校の児童生徒に対して実施しました。

その結果わかったことがいくつかあるのですが,小中学校に共通することとしては大まかに言うと以下の3点です。
 ①国語と算数・数学のパフォーマンスは全体的に下がっている。
 ②得点上位の層が減少し,かわって得点下位の層が増加。中学校ではふたこぶ化がはっきりとしてきた。
 ③通塾している子としていない子の比較からすると児童生徒の家庭環境による差が拡大。

学校で「教えない」となると,こうした家庭環境の差がそのまま学校でのパフォーマンスの差となってしまうのです。公立小中学校の役割は,極端に言えば,できる層の「確認」ではなく,できない層の「底上げ」をきちんとすることだと,大村はま先生は言っていたのではないかと思います。

そこで,ヴィゴツキーの主張の今日的な重要性がうかびあがってきます。

ヴィゴツキーは,20世紀初頭のソヴィエトにおいて実施されていた教育を改革しようとしてさまざまな提言をしていました。そのひとつが「発達の最近接領域」にもとづいた教育の重要性の指摘です。

 

1. 「発達の最近接領域」とは何か

教育と発達の関係についてヴィゴツキーが述べたことの中で非常に重要な概念を紹介したいと思います。その前に正月に放映していたテレビ番組を見てみたいと思います。

みなさんは「ヨコミネ式」という教育法について聞いたことがありますか?横峯吉文さんという方が鹿児島県の保育園を舞台に長い間かけて作り出してきたという保育の考え方です。この横峯さんはプロゴルファーの横峯さくらさんの叔父さんにあたる方です。

ヨコミネ式の保育については様々なテレビ番組で紹介されてきました。それを見た方からは賛同を得ることもあれば,激しい反発を呼ぶこともあるようです。今回見る番組はその保育の仕方をだいぶ長く丁寧に追いかけたものですから,これを見ると判断の根拠が得られるかもしれません。なんにせよ,実態を見ないうちに賛成も批判もないです。

私自身は,判断保留です。また,ヨコミネ式を広めようという意図はありません。当然横峯さんからお金なんかもらっていません。この番組をお見せする理由は,ここに映っていることを元にして,ヴィゴツキーの発達論を説明するためです。

映像の中で,ピアニカを吹いている場面があったと思います。そこでのやりとりを思い出してみてください。この保育園の5歳の子どもたちにとって,「こいのぼり」という童謡を演奏することは2日でマスターしてしまうものでした。つまり,今の能力水準で容易に達成できてしまう課題だったと言えます。

保育者は,そこで「こいのぼり」を延々演奏させることはしませんでした。そうではなく,「あずさ2号」という懐メロを演奏させることをしました。これには理由があったようです。せっかく絶対音感をもっているのなら,たとえばリストの超絶技巧練習曲のように難しい曲もチャレンジしても良かったのではないでしょうか。それを子どもに弾かせなかったのはなぜでしょう。保育士の言葉によれば,「歌謡曲のメロディーは,5歳のこの子たちが弾くにはちょうどいい」のだそうです。このは非常に重要な点です。保育者は,この5歳の子どもたちがチャレンジしてちょうどいい課題曲として歌謡曲を選んだということができます。

この保育者の考えを整理しましょう。
A ある5歳の子どもにとって 「こいのぼり」(童謡)は2日でマスターしてしまう。これは現在の能力で1人でできる課題内容です。
B ある5歳の子どもにとって リストの超絶技巧練習曲はどう転んでも無理!これは,現在の能力でも,大人の手助けがあってもできない課題内容です。

このA,Bどちらの課題も,子どもにとってはおそらく興味が持続しない課題でしょう。大人や年長者が手助けをしながら,子どもが興味を持続させつつ取り組み続けられる課題内容の範囲というものがあるのです。映像に出ていた保育士は子どもたちに「あずさ2号」を弾かせることを思いついたのには,訳があると思います。訳がなければ,そもそも子どもに「あずさ2号」を,などという発想が出てくることは考えにくいでしょう。おそらくこの保育士は,子どもにちょうどいい課題曲は何かと探して探して見つけ出したのがこの曲だったのでは,と私は勝手に推測します。

保育ではなく,学校場面で考えてみましょう。教師が子どもに何かを教えるには,いま,たろうくんがひとりでできる課題(A)は何かを明らかにする必要があります。次に,たろうくんにはまったくできそうもない課題(B)を想定して,教師は,たろうくんに対してAよりも難易度が高く,Bよりは低い課題Cを与えます。課題Cにつまづきながら取り組む姿に基づいた手助けをしつつ,課題を乗り越えるのを支えてあげることが教師の役割だ,というのがヴィゴツキーの発想です。上記のAとBの間にあるCの領域がヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」です。

さて,現在の学校を考えてみましょう。もしかすると,Aに基づいた教育をしていないでしょうか?つまり,子どもにとってできることを確認することを「教育」と称していることはないでしょうか。たとえば,学校を単に宿題の確認をおこなう場にすること,すでに子どもが知っている知識をクラスメイトに教える場にすること,これは教師が教えることを放棄しているとして,大村はま先生が指摘したのはすでに見た通りです。

ですが,発達の最近接領域にはたらきかけるような教育を行うことは,現在の日本の一般的な学校では難しいのもまた事実だと思います。なぜなら、30人いたら30個の発達の最近接領域があり,それぞれに応じた手だてが必要だからです。これは想像するだけで大変な仕事だ,と思います。そういう意味では,少人数教育の実施や教師を増やすことは妥当な方針なのではないでしょうか。

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