タンスの3段目

dun (2014年5月29日 04:59)|コメント(0)| トラックバック(0)

早いもので娘ももう1歳を過ぎました。歩くのもだいぶ上手になり,家の中をポテポテとうろつき回っています。

動くのがうまくなるということは,こちらの目が離せないということでもあります。視界から消えてしばらく静かにしているなと油断していると,たいていはろくでもないことを夢中になってやっています。

部屋に置かれたタンスから服を引っ張り出すのも日常茶飯事。せっかくたたまれてしまわれていたのに,全部外に出してしまいます。それで,出した服の山に埋もれてみたり,ズボンを首に巻き付けてみたり,「洗濯物をたたむマネ」をしてみたり。集中して遊んでいるので怒ることもできず,こちらとしてはため息をつきながらもニコニコと眺めています。

しかしながらその様子をよく見ていますとあることに気づきます。部屋のタンスは5段あるのですが,なかでもよく狙われるのは「3段目」のようです。もちろん背の届かない,上から1~2段目はそもそも開けられないのですが,もっと楽に中身を見渡せる,下から1~2段目はあまり開けようとしません。

なぜ3段目なのでしょう。

上の映像を見てみますと,なんとなく理由が分かりそうです。

彼女は引き出しの中をあさるのに「つま先立ち」していますね。つま先立ちをして手の届く範囲(3段目)とは,彼女にとって無理せずに手の届く範囲(下から1~2段目)と,無理をしても絶対手の届かない範囲(上から1~2段目)の,ちょうどあいだにあります。これが決め手になっているように思われます。

彼女が3段目を狙う理由,それは,そこがちょうど「今」の彼女にとって「おもしろい」範囲だから,だと考えられないでしょうか。

ちょっと頑張れば手が届く,ちょっと頑張ればのぞくことができる。この「ちょっと頑張れば」が知覚でき,かつ,実行に移すことができるとき,そのときどきの「おもしろさ」が沸いてくるのでしょう。逆に言えば,簡単に手が届く範囲にある下から1~2段目をあさることは,今の彼女にとっては「おもしろくない」のです。

注意したいのは,あらかじめ「おもしろさ」を感じることが分かっていて引き出しを開けようとし始めるわけではないだろう,ということです。要するに,「おもしろさ」の知覚→引き出し開け行動,という順序で発生しているわけではないだろう,ということです。おそらくは,つま先立ちをして手をのばしたところ,見えるか見えないかというギリギリの目の高さに服が詰め込まれているのを発見し,それをポイポイと外に出しはじめたらおもしろかった,という順番だと思われます。要するに,引き出し開け→「おもしろさ」の知覚という順序で発生したと考えられます。

このように,つま先立ちをして手が届く範囲におもしろさを感じるとともに,それがその後に続く学びを主導していくという考え方は,私のオリジナルではありません。フレッド・ニューマンとロイス・ホルツマンという,アメリカの哲学者・心理学者が,学びとは何なのかを考える上で,「頭一個分背伸びをすること」がもつ,学びにとっての本質的な意義について議論しています。その議論の背後には,ロシアの心理学者ヴィゴツキーの発達学習理論が横たわっています。

心理学をちょっと勉強した方ならば,もしかすると「最近接発達領域」の話かなと思われるでしょうが,その通りです。ただし,私がニューマンとホルツマンの議論に同調するのは,2人は学習者が感じる情動的な側面,ここで言うところの「おもしろさ」が,学びの成立に欠かせないと看破しているところです。娘の話に戻れば,彼女はほんとうに夢中になって服を取り出しています。この行動の背後には情動的な衝動があるように見えるのです。

学びというと私たちはつい,何かを意識的に記憶したり,自分自身を自己反省的にふりかえったりといった認知的な側面ばかりを重視してしまいがちです。しかし,その発生時点までさかのぼると,むしろ情動が大きな役割を果たしているでしょうし,そう考えると情動と認知を区別することはできないだろうというのが,ニューマンとホルツマンの考え方です。

この考え方を,例えば学校教育に敷衍するならば,教師は子供の学びをどのように導けばよいのかという問いと結びつくように思います。子供の学びを発生させる初発の情動的な衝動を起こすことがうまくできているでしょうか。「なんだろう?」という好奇心もそうでしょうし,「え?ほんと?」といった驚きもあるでしょう。そうした情動を起こすような問いであるとか素材を子供に提示できるといいんじゃないかな,と思います。

子供の学びを引き起こすもの,それは,1歳児にとっての「タンスの3段目」のような対象の存在だと言えるでしょう。

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「言語的社会化ハンドブック」を読む(1)

dun (2014年5月 4日 08:49)|コメント(0)| トラックバック(0)

大学院の演習で,オックス,シフリン,デュランティの「言語的社会化ハンドブック」を輪読することにしました。その第1回目を先日行い,私が第1章を報告しました。

以下は,その際のレジュメです。なんかの参考になれば。


Ch.1 The theory of language socialization
Ochs, E. & Schieffelin, B. B.

… language socialization research examines the semiotically mediated affordances of novices' engagement with culture-building webs of meaning and repertoires of social practice throughout the life cycle. (p.17)

Researchers view communicative practices involving novices as deeply sociocultural, in that:
- novices are socially defined and positioned as certain kinds of members;
- conversation and other discourse genres and practices are embedded in and constitutive of larger social conditions;
- semiotic forms are complex social tools that are situationally and culturally implicative;
- codes are parts of repertoires and morally weighted;
- learning and development are influenced by local theories of how knowledge, maturity, and wellbeing are attained. (p.17)

・言語的社会化とは?「言語使用を通しての社会化であると同時に言語を使うようになるための社会化」(Ochs & Schieffelin, 1986)
・言語的社会化研究の課題は?社会的なつながりをうちたてる「意味の網の目webs of meaning」(Geertz, 1973)や「無意識的な行動パターン」(Sapir, 1929)を,子どもたちがいかにして創造するか。そのためには,ミクロな相互行為,マクロな社会,子どもの発達過程のすべてに注目しなければならない。
・1980年代から,言語学,心理学,人類学研究の領域では,子どものコミュニケーション実践がなされる社会文化的環境が見過ごされていたことに気付かれはじめた。音韻や統語構造の獲得とともに,子どもが誰に対して何をどのように話すのかということが重要視され始めた。現在ではこの言語的社会化研究は複数の領域にまたがる研究としていくつもの大学で教えられている。
・ここ10年では,子どもだけでなく,大人が新しい環境に入っていく場も検討の対象になっている。

・語用論的発達developmental pragmatics: さまざまな言語形式とそれらが用いられる「状況の文脈」(Malinowski, 1935)との対応関係に焦点を当ててきた。
・言語的社会化研究は,子どもが「文化という文脈」との関係で「状況の文脈」を理解し,それを実現することに注目する。言語形式,実践,イデオロギーの文化的な解釈と社会構造をとらえることが必要なので,談話とエスノグラフィーとを統合する方法を採る。
・言語獲得language acquisition研究: 母子間の会話を主要な観察の場としてきた。
・言語的社会化研究は,社会文化的に設定された場面の中に子どもが大人や他の子どものコミュニケーション相手として繰り返し関与する場面に観察の対象を広げた。
・子どもの人類学研究も見過ごしている点があり,言語的社会化研究はそこを埋めようとしている。それは,子どもが家族やコミュニティのメンバーとして育つ過程を統合する中心として言語が果たす役割である。

・言語的社会化が持続する期間は,そのメンバーが存在を認知され始めた時点から,社会的に死ぬまで。例えば,胎児に話しかける親やそれを促す育児関連企業にとって,胎児は社会のメンバーである一方で,ある社会では話し始める前の子どもに大人は話しかけない。

■言語的社会化と行為主体性(agency)
・パーソンズの「社会化」という概念は,大人というゴールへの単一方向的で決定論的な変化を指すものとして批判されてきた。ボアズの「文化化」(enculturation)は,子どもを大人の文化を受動的に受け取る存在とみなし,受け取った思考様式に基づいて子どもは自動的に行為すると捉える。ブルデューとパスロンもボアズとほぼ同様の図式で描くが,教育を恣意的な権力関係間に発生する象徴的暴力と捉えている点が異なる。

・言語的社会化における「社会化」は上記のいずれとも異なる。むしろ,サピアの「言語は社会化の強力な推進力」という考え方に基づく。彼によれば,個人は文化や社会に従属する存在ではなく,自身の創造性や情動的な衝動をじかに満たそうとするものである。こうして個人の内側から湧き出るものによって形成される文化をサピアは「真正な文化」(genuine culture)と呼んだ。

・言語的社会化の基本的な考え方の1つ目は,あるコミュニティの新参者は,古参者によってそこでの実践への参加をうながされるのであり,決して決定されるわけではないということである。実際に,現代では,古参者の方が新参者から教えられることもある。

・新参者が行為主体性をもつと捉えると,慣習が固定化される方向性とともに,流動化するという方向性についても考えねばならない。電話に出る際の決まり文句も協働的な「達成」であるし,逆に創造的活動はルーチンにもとにして可能になる。即興はパターン化された日常を背景にして初めて創造性を帯びる。反復は単なる反復ではなく,それまでのものを「ずらす」効果があるのだ。

・言語的な慣習の流動性は,ライフサイクルや世代間においても見られる。その際に,変化しない側面が何で,変化するのが何かを研究するのは言語的社会化の射程の範囲内。
・ただ,その場合でもやはり新参者は受け身なのではなく,相互に行為主体性を発揮して,価値のある言語的能力が何なのかということが相互行為の場において構成される。

・相互行為において普遍的な現象は,知識や権力の非対称性である。何かを知っていることそのものが権力関係を含意する場合が大いにある。ということは,子どもの知識が正統的でないものとして扱われる社会的な実践もある。
・学校のような教育場面は,まさに,新参者のコミュニケーション実践において権力が行使される場である。しかし同時に,子どもの行為主体性は支配的な道徳的文脈に対する抵抗と再創造として発揮される。例えばSterponiはテキストを読む場面で,教師の目を盗む「空間」を作ろうとする子どもたちの実践を取り上げる。

■文化の話し手になる
・言語的社会化の基本的な考え方の2つ目は,新参者が円滑にコミュニケーションできるようになることは,同時に,その者がコミュニティにおける熟達したメンバーになっていくことでもある,という点である。それぞれのコミュニティには,状況ごとにいかにして話すかについての変数が用意されており,新参者は状況に関与することを通してそれらの変数を理解するようになる。例えば病院の診察を受ける子どもは医者が保護者に言うことを間接的に聞いて,何が医療に関係する言葉なのかを理解する。
・なんらかの言葉の使い方を理解することとは,同時に,なんらかの社会的な活動を行うこと。例えば,謝るための言葉の使い方を覚えることは,謝るという社会的能力を養成すること。
・したがって,言語的社会化は局所的であり状況に埋め込まれている。新参者はそこで話される言葉の使い手になるだけでなく,そこの文化の話し手にもなる。

■生まれと育ちの二分法を超えて
・言語的社会化論は通常対立的に語られるもの(発達と学習,個人と社会など)の間の媒介項として機能する。
・言語的社会化では生物学的な成熟を前提としている。同時に,子どもが社会に参入してそこで社会的に用いられる行為などに気づくことも前提する。社会的な実践の中には,乳児の生物学的特徴から必然的に普遍性をもつものもあるが,それでも文化的な多様性はある(高田のボツワナのサンの研究,Brownの共同注意研究など参照)。

・育てる方の話しとして,言語的社会化研究では,養育者が子どもの生活環境をどのようにして整えているのかに注目する。それはまた,人々の間のコミュニケーションのやり方を左右する。例えば家のドアが村の中心に向かって開け放たれているならばマルチパーティ会話が起こりやすい。
・したがって,このような子育ての生態学的な環境の差異は,子どもの会話理解をも左右する可能性がある。たとえば,誰がどうすれば「聞き手」になれるのか,の理解。

■社会化のために用いられる記号的リソース
・(1)社会化するための主要な道具であると同時に目標でもあるさまざまな記号に注目すること。(2)それらの記号がリソースとしてさまざまな意味のある社会文化的な実践(道徳,情動,関係,制度など)を維持したり変えたりすることについて民族誌学者なみに敏感になりなさい。
・文法,語彙体系,音韻,言語行動,会話の連鎖,ジャンル,レジスター,チャンネル,コードなど,記号システムを構成する諸要素がいかにして社会化を促しているかが問いとなる。例えば親族を呼ぶ際の語彙の習得は家族関係の組織化と密につながっている。
・言語人類学的観点からは何がトピックとなるのか?
記号がいかにして社会的状況とインデキシカルにつながっているのか(パース,シルヴァステイン)。コミュニティにおける異種混交性とその階層性(ブルデューの文化的資本)にそって子どもがどのように社会化され,それら言語的変異をどのように使い分けるか。

・複雑な状況の多様な理解を広く捉るために,これらの記号システムを分析する際には,①体系的なドキュメンテーション,②関連する人工物の収集,③緻密なエスノグラフィーが必要。縦断研究も,異なる生活環境での調査も必要。

・言語的社会化研究では,上記のリソースが相互行為において用いられることを観察し,人々が歴史的に社会を持続させつつ変化させる過程を探究する。

■言語的社会化実践
・意図的に行われる社会化もあるだろうが,多くの言語的社会化は記号によって媒介された実践に繰り返し参加することを通して実現する。習得内容はそこでは暗黙的implicitであり,ブルデューとパスロンの言うように暗黙的な社会化過程の方がより一般的である。
・それは,実践の場に実際に自身の身を置き,観察をしながら学習する過程。その意味で,実践的知識が言語化された学校とは異なる。ブルデューらは前者をdiffuse education(冗長な教育),後者をpedagogic inculcation(教育的な説明)と呼ぶ。
・ただ,日常的実践の場面で養育者が子どもの注意をガイドするなど積極的に手助けをしていることもある。例えば日本の養育者は,子どもが適切にあいさつできるかどうか,常に目を光らせている。道徳的な違反が起きた場合には,台湾の養育者などは子どもがそのことを恥ずかしいと思うようにしむける。同年齢同士ではうわさ話をすることが自分たちの社会秩序形成につながる。
・要するに,新参者は制度的な場でも日常的実践の場でも,社会化する機能を持つ言語的なはたらきかけ(例えば,はずかしめ,からかい,賞賛,誤用訂正,うわさ,など)の受け手となる。

■言語的社会化とスピーチ・コミュニティ
・言語とコミュニティそれ自体が変化のただなかにあること,新参者の言語的社会化も当然その影響下にあること,そして,新参者自身もその変化をもたらしていること。したがって,結果的にあるコミュニティは言語的な異種混交性をもつ。
・ゆえに,コミュニティにはPratt(1991)の言う「接触のゾーン」(zones of contact)がある。それはときには安定的に見られるものの,時には流動的である。それは,文化,言語,社会,自己意識を構成する媒体となる。(伊藤コメント ★ある者が「他者」となると同時に,その「他者」に対する自己として自己が生成される。)

・例えばシフリンが70年代にパプアニューギニアに入ったとき,すでにそこではキリスト教伝道師が入っており,言語と文化に変化が起きていた。また,西インド諸島ではフランス語をもとにしたクレオールに対して英語を高く評価する価値観が養育者の間で育っている。こうした状況を背景とした日常的なコミュニケーションは,言語のシフトが起こる現場と考えられるので,そこでの親子間会話などを微視的に見ることが大局的な言語シフトを説明する。

・若者が移民として新しい言語コミュニティに入ることも接触のゾーンを形成する。そこにおいて,自身の連続性,アイデンティティ形成,断絶,脱アイデンティティが経験される。例えばスペインに移民してきたモロッコの子どもは,学校ではスペインの子どもによる身体的・言語的実践によって直接的・間接的に低く見られる。その一方で,その子どもの家族にとってはスペインの様々な制度にアクセスするための媒介者として子どもが機能する。
・ある言語の獲得は,その社会における立ち位置と結びついている(その言語を話すからには,これこれこのような人だろうという評価を得る)。第二言語獲得による社会化,あるいはかつて話されていた言葉の習得による社会化はこのことがはっきりする過程だ。

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