顔から汗が噴き出る

dun (2017年4月17日 22:56)|コメント(0)| トラックバック(0)

他の人の本に誤植が多いなどと文句をつけているヒマがあったら自分の書いた本を見直せとおしかりを受けそうだ。

先日出版された「発達心理学・再入門」の自分の担当章に誤訳があった。それも相当影響が大きな部分。人名である。

私が担当したのは,Peter Eimasらによる,乳児の音声弁別研究に関する章である。

私はEimasの名を「エイマス」と日本語に置き換えた。

これは,なんとなく「エイマス」という表記をどこかで見た記憶があったためで,疑うことなくそのまま文字にした。

出版された後から,ある人から「“アイマス”じゃないの?」とご指摘があり,驚いて調べてみると,「アイマス」と表記する文献を見つけた。

すでにそのような表記が定着している以上,私の訳は混乱をもたらすだけである。なんらかの対応をとらねばなるまい。

外国人名については悩ましく,正直に申し上げれば,自分の担当章にあらわれる人名のうち,表記に自信のないものがいくつかある。これらももう一度確認する必要があるかもしれない。

ギョオテとは俺のことかとなんとやらとは言うものの,人に売るものがそんな調子ではよろしくない。

そういうわけで,ご購入された方には,心よりお詫び申し上げます。言うまでもなく,私が担当する箇所の誤りの責はすべて私にあります。

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「心理測定尺度集まとめ」をまとめなおした

dun (2017年4月 7日 16:24)|コメント(0)| トラックバック(0)

おそらくは当サイトでもっともよく閲覧されているであろう,「心理測定尺度集Ⅰ~Ⅵ」所収尺度まとめについて,3日間かけて手を入れました。

「心理測定尺度集Ⅰ~Ⅵ」所収尺度まとめ【完全版】

「心理測定尺度集Ⅰ~Ⅵ」所収尺度まとめ【ほぼ完全版】

「ほぼ」があるのとないのと何が違うのかというと,ない方(つまり,完全版)は件の6冊で「言及されているすべての尺度」を網羅しているのに対して,ある方は6冊の目次に掲載された尺度に限定しているという点です。要は,完全版の方がリストは長いのです。

当初は私の担当する実習を履修する学生用に作っておいたものですが,試しに公開したところ思いもかけず好評のようで,社会心理学会の広報委員会のページからリンクまで張っていただきました。どうもありがとうございます。

尺度名から大元の論文にまで簡単にたどれるようにCiNiiやJ-Stageなどにリンクをはっておいたところがミソなのですが,リンクの張り方が悪く,相当な量のリンク切れが放置されたままになっていました。

たまたま,こういう出来事もあり,困っている人も多かろう(これから卒論検討シーズンでもあるし)ということで,えいやっと直しました。

それにしても,「心理測定尺度集」には誤植というか,リファレンスの誤りが多くて困りました。編者の先生方におかれましては,重版の折に総チェックをかけていただければ幸いです。

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【新刊】発達心理学・再入門:ブレークスルーを生んだ14の研究

dun (2017年3月24日 21:58)|コメント(0)| トラックバック(0)

監訳と1つの章の翻訳を手がけた本が出ました。

アラン・M・スレーター、ポール・C・クイン(編)加藤弘通・川田学・伊藤崇(監訳) (2017). 発達心理学・再入門:ブレークスルーを生んだ14の研究 新曜社

出版社の紹介ページ

上記サイトより,目次を掲載してみます。古典と呼びうる研究や著名な研究者が並んでいるのが分かると思います。お手に取っていただき,これを機会に原著にチャレンジするのもよいでしょう。

1 アタッチメントと早期の社会的剥奪:ハーロウのサルの研究再訪
2 条件づけられた情動反応:ワトソンとレイナーの「アルバート坊や実験」を越えて
3 崖っぷちの乳児:視覚的断崖を超えて
4 ピアジェ再訪:子どもの問題解決能力の研究からの一展望
5 乳児期における模倣:メルツォフとムーア(1977)の研究再訪
6 乳児期における対象の永続性:ベイラージョンの跳ね橋実験再訪
7 子どもの目撃記憶と被暗示性:セシとブルックのレビュー(1993)再訪
8 IQはどれほど上げることができるのか?:ジェンセン(1969)の問いと答えへの最新の展望
9 読みとつづり:ブラッドリーとブライアントの研究再訪
10 心の理論と自閉症:バロン=コーエンたちのサリーとアン課題を超えて
11 道徳性の発達:コールバーグの段階再訪
12 攻撃性:バンデューラのボボ人形研究を超えて
13 言語発達:エイマスたちによる/ba/と/pa/の弁別研究再訪
14 子どもにおけるレジリエンス:ラターの名著とその後の発展

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【翻訳】「インプロをすべての教室へ」が出版されました

dun (2016年5月30日 22:08)|コメント(0)| トラックバック(0)

私も翻訳の一部を担当した本が出版されました。

キャリー・ロブマン、マシュー・ルンドクゥイスト 著
ジャパン・オールスターズ 訳

インプロをすべての教室へ:学びを革新する即興ゲーム・ガイド 新曜社

演劇の一つのメソッドであるインプロ(即興)を通して,「学習と発達」の関係を見直しましょう,という本です。

お手にとっていただけましたら幸いです。

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どこでも翻訳

dun (2016年5月22日 19:56)|コメント(0)| トラックバック(0)

ただいまJALのラウンジにいるんですが,ここでも翻訳中です。

ラウンジはビールが飲めるのでよいですね。

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p.xii

ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」では遊びの一つの形態なのですが)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。つまり,人間がパフォーマンスperformすること,発達をパフォーマンスすることを,私たちからすれば,心理学者たちは取り入れる必要があります。★4このことは私たちの後の研究や執筆のトピックとなったばかりでなく,同時に,私たちの実践の方向性を定めましたし,仲間たちはそれをセラピー,教育,文化的プロジェクトに取り入れました(Holzman ,1997, 2009; Holzman & Newman, 2012; Newman, 2008; Newman & Holzman, 1997, 2006/1996)。

 簡単な要約であるとともに,その後の拡張や最新情報でもあるこの文章によって,『変革の科学者』においてニューマンと私が作り出した用語法や,ときに濃密な文章へと読者を案内してみたいと思います。英語という言語は非常に静的で,時間と空間を表そうとしており,なにより「モノ化」thinifiedされています。ですから,物事の流れ,動き,一元論,統一体,同時性,弁証法的関係性を取り上げようとする人たちにとっては大きな障害となるのです。私たちには,書き言葉で遊ぶ自由,新しい表現法を作り出す自由があります。必ずしもすべてが理解できるわけではないかもしれません。その場合でもおそらく,言語が見方や考え方をどのように制約しているのか,あるいは拡張しているのか,ということについて少なくとも注意が向くでしょう。

★4 ヴィゴツキー自身は演劇に夢中になっていて,『芸術心理学』(1971★邦訳は○○年)という著作は非常に興味深いものです。しかし,(彼が書いたものから言いうる限り)ヴィゴツキーは遊びplayと舞台上の劇playsあるいはパフォーマンスとを結びつけてはいませんでした。

■席捲するヴィゴツキーVygotsky's expanding influence

 この20年間,急速に,しかも予想不可能な形で世界が変わる中で,心理学は自分自身を作り直そうと苦闘してきました。世界とのつながりを保とうとするために,心理学は競合しがちな二つの道筋を切り開いてきました。一つは自然科学との結びつきを保とうとする道です。このことは,脳科学や認知科学,健康科学と心理学との連携に明らかですし,数量化する方法論や「エビデンスに基づく」evidence-based方法論の希求と促進によっても分かります。もう一つの道は,心理学を文化という方向に向けています。このことは,芸術家と手を組んだり,共同研究をしたりすることや,創造性研究が現れたりしたことに明らかです。また,新しい質的方法論が開発されたことからも明らかで,ここには,客観性について心理学がこだわることに対する直接的な反動としてデザインされたものも含まれます。後者の方向性を採用する心理学者や教育者の中には,劇やパフォーマンス,集団過程もしくはアンサンブル過程,人間の発達や学習,クオリティ・オブ・ライフにこうした人間の活動が果たす役割に熱視線を送る者もいます。ヴィゴツキーに由来し,現代の社会文化的(そして,もしくは,文化歴史的)心理学に端を発する概念や方法は,これら二つの道筋に影響を与えてきました。

 心理学において起きた上述とは別の発展によっても,ヴィゴツキー派の考え方が受け入れられていきました。1990年代までの間に,哲学における「言語的転回」linguistic turnが心理学や他の社会科学にも取り入れられました。このような動きにより,言語が哲学的探求の主要な焦点となりました。現実性realityを反映したり,それに対応したりするものとしてではなく,言語は現実として受け止められるものを構成しconstitute,構築するconstructものとして今や見なされているからです。主流の心理学に対して批判的な多くの心理学者がこの考え方によって奮い立ち,自らの抱える不満について理解し,語れるようになりました。心理学が研究の対象を現実のものとして構築し,「現実のもの」として示すのは,その言語,言説discourse,そしてナラティヴを通してなのです。この言語的転回は,主流の心理学に対する主要な認識論的批判である,社会構築主義social constructionismとして今では知られるようなアプローチを生み出しました。

p.xiii

知識,認知,情動は,いずれも主流の心理学にしたがえば個人の内部に存在するものですが,今やそれらは社会的に構築されるものとして見なされますし,社会的実践としてのみ研究可能なものなのです。客観性という点について言えば,もはや相手にするようなものでもありません。なぜなら,それは不可能ですから。(研究者も含めて)人間は(科学的意味も含めて)意味を作るという主張が「意味する」ところは,人間の主観性が前提として存在するのであり,したがって,客観的科学objective scienceはありえないのです(K. J. Gergen, 1991, 1994)。

 社会構成主義者social constructionistsがただちにヴィゴツキーに気づいたわけではありませんでしたし,ヴィゴツキーを紹介された後で全員が一気にヴィゴツキーを取り入れたわけでもありませんでした。児童心理学者,教育心理学者としてヴィゴツキーが1970年代から90年代にかけて名声を博したにもかかわらず,彼の著作を読む理由はないと考えていたのでしょう。しかし,心理学が言語的転回を認め,それにしたがって探求する上で,ウィトゲンシュタインは重要な人物でしたので,ヴィゴツキーとウィトゲンシュタインとを統合するニューマンと私の試みは注目を集めました。二元論に対する批判や,弁証法的方法論,人間の思考や行為についての社会文化的存在論,(外的な現実,内的な現実を問わず)言語が現実を反映するという見方を排するための完成completionという独自の概念など,『変革の科学者』は社会構成主義者に対してヴィゴツキーのアイディアを紹介しました。★5

 ヴィゴツキーの名が知られ始めた心理学の領域には,他に,青少年young peopleの生活についての研究や,青少年育成youth developmentを促進するようデザインされた学校外での取り組みinterventionについての研究があります。研究と実践のフィールドとしての青少年育成(青少年の健全育成と呼ばれることもありますが)は,学際的でグローバルな現象として急速に広がっています。そこでは,創造性とリーダーシップを発揮する機会を提供するプログラムや組織を通して,青少年を生産的で積極的な活動に従事させています。こうした機会を学校が青少年に対して提供しそこなっていること,および,研究や取り組みの予防モデルprevention modelsに特徴的ですが,十代の妊娠や薬物使用といった問題に一つの視点から焦点を当てることに対する,社会的に組織された対応として見なすことができます。この領域にヴィゴツキーが果たす大きな貢献は,学習と発達の社会性についての理解の仕方,および,効果的なプログラムにおいて支援する大人や仲間との関係性が決定的に重要だという理解の仕方にあります。青少年育成にかかわる実践者は,『変革の科学者』でのヴィゴツキーを知ることによって,青少年が自身を越えたパフォーマンスをできるようにすることが実践者の仕事だと見なし,その方向で組織を作っていくことができます。そこでの青少年は,何者かであると同時にその者ではない存在as who they are and other than who they areであるのです。その仕事ぶりについては後述しますが(pp.xvii-xix),私の仲間たちがオールスターズプロジェクトAll Stars Projectにおいて,このような考え方をもったリーダーとして奮闘しています。サボ・フロレスSabo-Floresは,発達と遊びplayについてのヴィゴツキーの見方を(そしてパフォーマンスについてのニューマンと私の見方を),近年現れつつある新しいフィールドである,青少年の参加的評価youth participatory evaluation(Sabo-Flores, 2007)に導入した人ですが,こうした考え方をもって活動する人たちもいます。

 人間の発達と学習には創造性が結びついているという「新しいアイディア」はビジネスの業界(そこでは市場で成功するためには創造性が重要だと認識されていたわけですが)から現れ,教育と心理学に広がっていきました。ケン・ロビンソンKen Robinsonが簡潔に述べていますが,「学校が創造性をつぶしている」のです(この2006年のTEDトークは,1500万人近くが見ているのですが,2012年現在最も多くの人が視聴したものです★以下,URL)。遊びと幼児期の発達,想像,芸術の心理学に関するヴィゴツキーの著作を知る者にとって,このことはヴィゴツキーの多面性に新たに気づくきっかけとなりました。

p.xiv

およそ10年前から,ヴィゴツキーの影響を受けた,創造性や発達と学習に関する議論が,認知発達についての平凡な議論をよそにして起こってきました。これにより,新しいトピックや新しいパラダイムが教育心理学にもたらされ,パフォーマンスすることや芸術に注目が集まってきたのです。★6

■「私たちのヴィゴツキー解釈」を深めるDeepening 'Our Vygotsky'

★5 社会構成主義についてのガーゲンの浩瀚な著作(最も新しいのはK. J. Gergen, 2009; M. M. Gergen & Gergen, 2012)の他にも,理論的な嚆矢としてショッターShotterが人間の主観性や,人間の関係性一般,あるいはより最近ではサイコセラピーにおける「他者性otherness」を探求し続けています。そこには,ウィトゲンシュタインやヴィゴツキー,ヴォロシノフとバフチンが現れています(Shotter, 1997, 2003, 2008; Shotter & Billig, 1998)。この点で言えば,ロックとストロングLock, A and Strong, T.も多作です。二人の書いたSocial Constructionism: Sources and Stirrings in Theory and Practice(2010)ではヴィゴツキーにまるまる1章が割かれていることにも注目です。マクナミーとガーゲンMcNamee and Gergenが1992年にTherapy as Social Constructionという論文集☆5を出版してからこのかた,関係論的で,意味を形成するmeaning-making,非客観論的non-objectiveなカウンセリングやセラピー実践が行われていますが,それらは協働的collaborative(Anderson, 1997; Anderson & Gehart, 2007),言説的discoursive(Pare' & Larner, 2004; Strong & Lock, 2012; Strong & Pare', 2004),ナラティヴ(McLeod, 1997; Monk. Winslade, Crocket, & Epston ,1997; Rosen & Kuehlwein, 1996; White, 2007; White & Epston, 1990)という名でも知られるようになっています。

☆5 野口裕二と野村直樹による邦訳が『ナラティヴ・セラピー:社会構成主義の実践』(1998年,金剛出版)として出版されている。

★6 ヴィゴツキー派のジョン・シュタイナーJohn-Steinerはこの方向性での先駆者として研究を進めており,2つの本の共編者にもなっています。その2つの本とは,Creativity and Development (2003)とVygotsky and Creativity: A Cultural-Historical Approach to Play, Meaning Making and the Arts (2010)です。かつてはジャズミュージシャンだったソーヤーSawyerは,このところ,創造性と即興についての著作を幅広い読者に向けて書いています(R. K. Saywer, 2003, 2007, 2012)。最近ではニューマンと私の昔の学生たちが,遊びの一つの形式として演劇パフォーマンスと即興のもつ大きな可能性について強調しており,学校内での生活に創造性を持ち込もうとしています。マルチネスMartinezは教授学習のためのテクノロジーについて(2011),ロブマンとルンドクゥイストLobman and Lundquistは学校で行える即興の練習について(2007),ロブマンとオニールLobman and O'Neillおよびその仲間たちは様々な場面での遊びとパフォーマンスについて(2011),それぞれ発言しています。さらには,組織や国を超えて研究者たちが協働し,現在,研究や介入プロジェクトを進めています。これにより,教師や生徒,支援を必要とする人々vulnerable populationが創造性と遊びを知るところとなるでしょう(例えば,アメリカ合衆国や日本,フィンランド,スウェーデンでのプレイワールドプロジェクト★URL,ブラジルやセルビアやボスニアヘルチェゴビアのNGOZdravo da Steが行う,複数の世界Multiple Worldsと他の教育プロジェクトがあります★URL)。

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ひたすら翻訳

dun (2016年5月20日 23:27)|コメント(0)| トラックバック(0)

今日も今日とて翻訳です。だんだん調子が出てきましたが,やはり遅い。

尊敬する柳瀬尚紀先生に負けないような「正確な」訳を目指しているのですが,いかんせん,日本語の知識がなく,移し替える先がないことに愕然とします。

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 こうした世界規模での活動の渦を作り出している一人として,ニューマンと私による本,そこで示されたアイディア,それに影響された実践を再検討し,この2010年代に大きく変化した政治的背景への現在的な関連について推測する機会を得たことを嬉しく思います。

『変革の科学者レフ・ヴィゴツキー』でのヴィゴツキーをめぐる議論には,最初に出版した当時には類例のない特色がありました。一つには,この本の中でヴィゴツキーをマルクス主義的方法を採用する者として示しました。彼をソヴィエト連邦成立当初の時代背景の中に位置づけると同時に,私たちの時代の新しい心理学に対して彼の人生や著作がどのように貢献するのかを描き出しました。このようにして,ニューマンと私は,ヴィゴツキーがマルクス主義者であったかどうかをめぐる論争に加わりませんでした。彼がそうであったという考え方も,彼の革命性をその科学的姿勢から切り離す考え方も,どちらも曲解だと私たちは確信していました。

p.x

弁証法的活動としての方法(ヴィゴツキーは,「方法の探究searchは,同時に,研究の道具であり,結果でもある」(Vygotsky, 1978, p.65★Mind in Society)と述べています)を★イタリック/創造しようと/苦闘する,史的唯物論者としてのマルクスに方法論的に密接なつながりを有する人としてのヴィゴツキーa Vygotskyを紹介したかったのです。応用のための道具的なものとしての方法という慣習的な概念を,私たちは「結果のための道具tool for result」と揶揄しましたが,ヴィゴツキーはそれをなんとかしてやろうとしていたわけで,このような革新的な打開radical breakを強調するために私たちは「道具と結果」方法論('tool-and-result' methodology)という言葉を作り出しました。

 ヴィゴツキーは,その時代の心理学における革新的打開を行う中で,いかにして人間は学習し,発達するのかという実践的な問題に関するマルクスの洞察insightを持ち込みました。★3私たちはヴィゴツキーの心理学の中に,人間における,個人の発達,文化的発達,そして種の発達に固有な特徴とは,(個人中心的でparticularistic反復の結果として起こるcumulative行動behaviorの変化とは違って)質的であり,かつ変化をもたらすような人間の活動だということを見いだしました。人間は,刺激に対して単に反応するだけでなく,社会的に規定された有用なスキルを獲得したり,規定してくる環境に対して適応したりするのです。人間の社会生活の固有性とは,規定してくる環境を我々自身が変えることです。人間の発達は個人的に成し遂げられるものではなく,★イタリック/社会文化的な活動/なのです。『変革の科学者』(★LVRSをこう訳すか?)が提示したヴィゴツキーとは,後に私たちが「生成becomingに注目する新たな心理学」と呼んだものの先駆者です。それは,成長growthのための新しい道具を作る過程で,人間は自身の社会的本質や集合的創造活動collective creative activityの力を経験する,というものです(Holzman, 2009)。

 方法に関するヴィゴツキーの概念を,弁証法的な道具と結果としての方法と理解することにより,私たちは,あまり注目されていなかったヴィゴツキーの3つの洞察に行き着きました。

 一つ目は,どのように発達と学習とが関係し合っているかについての,慣習から外れた見方です。学習が発達に依存するとか,発達に後続するとかいった見方を排して,ヴィゴツキーは,学習と発達とが弁証法的な統一体unityであり,そこでは学習が発達に先行するか,あるいは発達を導くのだと構想conceptionしました。「指導が効果を持つのは,発達に先行するときだけである。そのとき,発達の最近接領域の内部で成熟しつつある一連の機能全体が目覚め,あるいは駆動する」(1987, p.212)。ニューマンと私は,「学習が導く発達」(あるいは「学習と発達」。どちらも,ヴィゴツキーの構想を短く要約したものです)を,マルクスの弁証法的活動に関する構想を心理学に持ち込む上での重要な貢献として理解するに至りました。そのように理解すると,ヴィゴツキーは,学習が文字通り最初に来ると言っているのでも,それが発達に時間的連鎖として先行すると言っているのでもありません。社会文化的,関係的な活動として,学習と発達は不可分であると言っているのです。つまり,一つの統一体として,学習は発達に対して,連鎖的にではなく弁証法的に結びついているということです。学習と発達は互いを同時に作り合っています。これは,私たちにとって,共に作り合うこのような関係を生み出し,支えるような環境とはどのようなもので,そして,いかにしてこうした環境がそうでない環境と異なるのかに注意を払わねばならないことを意味します。そうでない環境としては,ほとんどの学校がそうなのですが,発達から学習が切り離され,何かを獲得するという学習が目指されるようなものがあります(Holzman, 2007)。

 小さな子どもが,ある言語の話者になる過程に関するヴィゴツキーの記述の中に,このような発達的環境を見いだすことができます。そこでは,赤ちゃんとその養育者は,言葉による遊びを通して,環境を創造する道具と結果の活動に,そして,学習と発達に,一度にかかわっています。

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★3 何十年も前に,スクリブナーScribner, S.とコールCole, M.が同様の指摘をしています。その指摘によれば,ヴィゴツキーの社会文化的アプローチsocio-cultural approachは,「人間には固定された本質があるわけではなく,生産的活動を通して自己およびその意識を常に作り出しているという,マルクス理論における心理学的な部分を拡張する試みを示すもの」(Cole & Scribner, 1974, p.31☆4)です。しかしこれは,教育界の人々に知られるようになったヴィゴツキーの姿ではありません。

☆4 若井邦夫による邦訳が,『文化と思考:認知心理学的考察』(1982年,サイエンス社)として出版されている。
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p.xi

在ること(being)と成ること(becoming)の弁証法的な過程がどのようなものか,そこに見て取ることができます。つまり,小さな子どもにおいて,現在の姿(例えば,バブバブ言う赤ちゃん)と,今のところはそうではない姿,あるいはそう成りつつある姿(例えば,話し手)とが,いかにして同時に関係づけられるのかが見えるのです。ニューマンと私は,これは革命的な発見だと確信しました。もしもこの発見が広く理解されたなら,人間の発達過程に対する心理学者の理解の仕方を変えることができるでしょうし,学習する子どもの人生the learning livesだけでなく,学習する大人の人生に対しても,心理学者や教育者の向き合い方が変わってくるでしょう。このようにして,『変革の科学者』ではヴィゴツキーを発達研究者として提示しました。当時におけるヴィゴツキー派の研究や発言がほとんどすべて学習(特に,学校内の学習)を強調していたのと対照的です。

 ヴィゴツキー派の洞察から掘り出した別の領域は,考えることと話すことthinking and speechについてのものでした。ニューマンと私は,言語と意味に対して大きな関心を持っていました(彼は言語哲学を学んでいた頃から,私は言語学を学んでいた頃から)。言語が思考を表現するという受け入れられた知識に対するヴィゴツキーの挑戦は,私たちには聡明で,きわめて現代的なものとして見えました。「発話speechは発達した思考を単に表現するものではない。思考は発話に形を変える間に再構成される。思考は表現されるのではなく,言葉において完成するのである」(Vygotsky, 1987, p.251)。これは私たちにとって,ヴィゴツキーによる人間の活動についての弁証法的な理解の形を変えた例でした。私たちはこうした理解を,ニューマンが広く研究してきた哲学者ウィトゲンシュタインのそれと統合しました。「発話は思考を完成させる」というヴィゴツキーの言葉は,私たちにとって,ウィトゲンシュタイン派の言う「生活形式form of life」(Wittgenstein, 1958, pp.11, para.23)でした。「完成」という概念を他者へと拡張しました。つまり,あなたの言葉を「完成」させるのは他の人でもありうるのです。非常に小さな子どもが他者とともに,あるいは他者を通して,いかにして話し手になるのかという問題に戻るなら,養育者はバブバブ言う赤ちゃんを「完成させ」,完成させる養育者を赤ちゃんは創造的に模倣するものと仮定できます。診察室や会議室といった,ヴィゴツキー派の研究者がヴィゴツキーのアイディアを持ち込んでこなかった場所を含め,人生を通して学習と発達の起こる機会がいかにして創造されるのかという問題について,このようなヴィゴツキー派の洞察から私たちはヒントを得ました。

『変革の科学者』では,子どもの発達における遊びの役割についてのヴィゴツキーの理解に注目し,若者や成人の発達における遊びの重要性へと視野を広げました。ヴィゴツキーが遊びについてほとんど書いていないことはニューマンと私にはたいしたことではありませんでした。幼児期の想像遊びやごっこ遊びについてであろうが,あるいはもう少し大きくなってからしょっちゅう行われるようになる,より構造化された規則に従うゲーム遊びについてであろうが,彼が書いたことは私たちにとってものすごく重要だったのです。特に重要だったのは,次の文章です。「遊びの中で子どもはいつもその平均的な年齢や,日常的に行うことを越えた行動をする。遊びの中では,子どもは頭一つ分の背伸びa head taller than himselfをしているかのようだ」(Vygotsky, 1978, p.102)。私たちは彼の言う「頭一つ分の背伸び」が何を意味するのか格闘したのですが,人間の発達が在ることと成ることの弁証法であるということの喩えだ,という理解に落ち着きました。そのように理解したことで,同じような弁証法的な質をもつものとして演劇的パフォーマンスtheatrical performanceを検討することになりました。なぜなら俳優は,現在の姿と今はそうではない姿とを同時にもつからです。

p.xii

ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」での遊びの一つの形態である)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。

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翻訳を始めました

dun (2016年5月19日 17:02)|コメント(0)| トラックバック(0)

Lev Vygotsky (Classic Edition): Revolutionary Scientist (Psychology Press & Routledge Classic Editions)
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研究の方向を見定める

dun (2015年3月 3日 00:01)|コメント(0)| トラックバック(0)

データなんていくらでも取ろうと思えば取れるわけで,大事なことはそれでもってどちらに行くか,だ。

方向を見定める作業に10年以上かかっているのだが,そろそろ1つの方向性がまとまってきた。キーワードは,「子どもによる環境作り」である。

一方で,「大人による大人のための環境作り」もまた同時並行で進めている。

その一つが,現在もっぱら携わっている研究で,コミュニケーションを可視化する装置を学校の先生向けにカスタマイズする作業である。

先日の研究会では政策提言に食い込むのかどうか,という問いかけがなされた。大事なのはキャッチフレーズではなかろうか,と思う。ぼくならばこのツールは「もう1本のペン,もう1冊のノート」とでも呼ぶだろう。

「新しいペン,新しいノート」と呼ばないのは,今もこれからも授業記録の基本はペンとノートだという発想に基づく。先生が自分の目で見たこと,耳で聞いたことを主観をたっぷりとまじえて書き続けることが大事だ。いまカスタマイズしている作業は,先生のそうした主観に分析の結果を近づけることが中心となる。だから先生は自信を持って主観を研ぎすましてほしいのである。

そうなってはいけないのは,機械の分析結果に引きずられて先生が主観を曇らせることである。いってみれば,検査の結果に悪いところがないため,痛い痛いと叫ぶ患者を放り出す医者のようなものだ。先生がそうなってはいけない。まず人としての関係性において患者の痛みの尊重があって,それを和らげる手段としての検査でなければならない。

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2014年総括

dun (2014年12月24日 20:06)|コメント(0)| トラックバック(0)

2014年の最後の講義が本日終わり,気持ちとしては御用納めです。

研究関係
・「パフォーマンス」という概念によって学習と発達を捉え直すムーブメントにささやかながら貢献できたかと。
 茂呂先生からのお誘いに身を委ねて多くの人とお会いすることができました。また,11月にはHolzman先生を北海道にお連れして,べてるの家訪問と北大でのWSを実現させました。これは本当によかったと思っています。

・授業中のコミュニケーションを分析するシステムについて。
 昨年から引き続き,とある企業と連携してツール開発に取り組んでいます。学校の先生が自分の授業を振り返るときに有効なツールになればいいなあと思っています。教心,教育工学会,学校の公開研究会,台湾でのシンポで発表してきました。来年は,このツールに関する公開研究会を国内の他の大学から研究者をお呼びして開催する予定。また,授業以外のフィールドでの活用事例について,発心で発表します。

・論文を1本書きまして,来年にはなんかに載るのではないかと思いますが,微妙にレスポンスがにぶいのが気になります。

教育関係
・教育技術論
 中高の先生になるという学生を相手に何を論ぜよと言うのか分からないまま引き受けて,もがきながら始めました。これまでやったことのなかった試みを2つ入れています。
 1つは,学生同士で模擬授業の様子をタブレットPCで録画してもらい,その映像を私が後から見てレポートとともに評価を全員にフィードバックすること。
 もう1つは,自分の授業風景を撮影してその日のうちにyoutubeにアップロードすること。

・教育心理学
 非常勤で教育心理学を担当することになりました。実は教職の教育心理学を担当するのは初めてのこと。何も蓄積がないところから授業を構想して苦労していますが,学生が明るいので助かっています。

・最近,コーチングを勉強し始めています。ひょんなことからつながった絆を頼りに,少しずつネットワークを広げつつあります。

今年は多くの人に引き回していただいたという感があります。それに応えられるだけの中身をつけていかなければなりません。

来年もよい年になりますよう。みなさまにおかれましてもどうかご自愛下さい。

伊藤崇

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「言語的社会化ハンドブック」を読む(1)

dun (2014年5月 4日 08:49)|コメント(0)| トラックバック(0)

大学院の演習で,オックス,シフリン,デュランティの「言語的社会化ハンドブック」を輪読することにしました。その第1回目を先日行い,私が第1章を報告しました。

以下は,その際のレジュメです。なんかの参考になれば。


Ch.1 The theory of language socialization
Ochs, E. & Schieffelin, B. B.

… language socialization research examines the semiotically mediated affordances of novices' engagement with culture-building webs of meaning and repertoires of social practice throughout the life cycle. (p.17)

Researchers view communicative practices involving novices as deeply sociocultural, in that:
- novices are socially defined and positioned as certain kinds of members;
- conversation and other discourse genres and practices are embedded in and constitutive of larger social conditions;
- semiotic forms are complex social tools that are situationally and culturally implicative;
- codes are parts of repertoires and morally weighted;
- learning and development are influenced by local theories of how knowledge, maturity, and wellbeing are attained. (p.17)

・言語的社会化とは?「言語使用を通しての社会化であると同時に言語を使うようになるための社会化」(Ochs & Schieffelin, 1986)
・言語的社会化研究の課題は?社会的なつながりをうちたてる「意味の網の目webs of meaning」(Geertz, 1973)や「無意識的な行動パターン」(Sapir, 1929)を,子どもたちがいかにして創造するか。そのためには,ミクロな相互行為,マクロな社会,子どもの発達過程のすべてに注目しなければならない。
・1980年代から,言語学,心理学,人類学研究の領域では,子どものコミュニケーション実践がなされる社会文化的環境が見過ごされていたことに気付かれはじめた。音韻や統語構造の獲得とともに,子どもが誰に対して何をどのように話すのかということが重要視され始めた。現在ではこの言語的社会化研究は複数の領域にまたがる研究としていくつもの大学で教えられている。
・ここ10年では,子どもだけでなく,大人が新しい環境に入っていく場も検討の対象になっている。

・語用論的発達developmental pragmatics: さまざまな言語形式とそれらが用いられる「状況の文脈」(Malinowski, 1935)との対応関係に焦点を当ててきた。
・言語的社会化研究は,子どもが「文化という文脈」との関係で「状況の文脈」を理解し,それを実現することに注目する。言語形式,実践,イデオロギーの文化的な解釈と社会構造をとらえることが必要なので,談話とエスノグラフィーとを統合する方法を採る。
・言語獲得language acquisition研究: 母子間の会話を主要な観察の場としてきた。
・言語的社会化研究は,社会文化的に設定された場面の中に子どもが大人や他の子どものコミュニケーション相手として繰り返し関与する場面に観察の対象を広げた。
・子どもの人類学研究も見過ごしている点があり,言語的社会化研究はそこを埋めようとしている。それは,子どもが家族やコミュニティのメンバーとして育つ過程を統合する中心として言語が果たす役割である。

・言語的社会化が持続する期間は,そのメンバーが存在を認知され始めた時点から,社会的に死ぬまで。例えば,胎児に話しかける親やそれを促す育児関連企業にとって,胎児は社会のメンバーである一方で,ある社会では話し始める前の子どもに大人は話しかけない。

■言語的社会化と行為主体性(agency)
・パーソンズの「社会化」という概念は,大人というゴールへの単一方向的で決定論的な変化を指すものとして批判されてきた。ボアズの「文化化」(enculturation)は,子どもを大人の文化を受動的に受け取る存在とみなし,受け取った思考様式に基づいて子どもは自動的に行為すると捉える。ブルデューとパスロンもボアズとほぼ同様の図式で描くが,教育を恣意的な権力関係間に発生する象徴的暴力と捉えている点が異なる。

・言語的社会化における「社会化」は上記のいずれとも異なる。むしろ,サピアの「言語は社会化の強力な推進力」という考え方に基づく。彼によれば,個人は文化や社会に従属する存在ではなく,自身の創造性や情動的な衝動をじかに満たそうとするものである。こうして個人の内側から湧き出るものによって形成される文化をサピアは「真正な文化」(genuine culture)と呼んだ。

・言語的社会化の基本的な考え方の1つ目は,あるコミュニティの新参者は,古参者によってそこでの実践への参加をうながされるのであり,決して決定されるわけではないということである。実際に,現代では,古参者の方が新参者から教えられることもある。

・新参者が行為主体性をもつと捉えると,慣習が固定化される方向性とともに,流動化するという方向性についても考えねばならない。電話に出る際の決まり文句も協働的な「達成」であるし,逆に創造的活動はルーチンにもとにして可能になる。即興はパターン化された日常を背景にして初めて創造性を帯びる。反復は単なる反復ではなく,それまでのものを「ずらす」効果があるのだ。

・言語的な慣習の流動性は,ライフサイクルや世代間においても見られる。その際に,変化しない側面が何で,変化するのが何かを研究するのは言語的社会化の射程の範囲内。
・ただ,その場合でもやはり新参者は受け身なのではなく,相互に行為主体性を発揮して,価値のある言語的能力が何なのかということが相互行為の場において構成される。

・相互行為において普遍的な現象は,知識や権力の非対称性である。何かを知っていることそのものが権力関係を含意する場合が大いにある。ということは,子どもの知識が正統的でないものとして扱われる社会的な実践もある。
・学校のような教育場面は,まさに,新参者のコミュニケーション実践において権力が行使される場である。しかし同時に,子どもの行為主体性は支配的な道徳的文脈に対する抵抗と再創造として発揮される。例えばSterponiはテキストを読む場面で,教師の目を盗む「空間」を作ろうとする子どもたちの実践を取り上げる。

■文化の話し手になる
・言語的社会化の基本的な考え方の2つ目は,新参者が円滑にコミュニケーションできるようになることは,同時に,その者がコミュニティにおける熟達したメンバーになっていくことでもある,という点である。それぞれのコミュニティには,状況ごとにいかにして話すかについての変数が用意されており,新参者は状況に関与することを通してそれらの変数を理解するようになる。例えば病院の診察を受ける子どもは医者が保護者に言うことを間接的に聞いて,何が医療に関係する言葉なのかを理解する。
・なんらかの言葉の使い方を理解することとは,同時に,なんらかの社会的な活動を行うこと。例えば,謝るための言葉の使い方を覚えることは,謝るという社会的能力を養成すること。
・したがって,言語的社会化は局所的であり状況に埋め込まれている。新参者はそこで話される言葉の使い手になるだけでなく,そこの文化の話し手にもなる。

■生まれと育ちの二分法を超えて
・言語的社会化論は通常対立的に語られるもの(発達と学習,個人と社会など)の間の媒介項として機能する。
・言語的社会化では生物学的な成熟を前提としている。同時に,子どもが社会に参入してそこで社会的に用いられる行為などに気づくことも前提する。社会的な実践の中には,乳児の生物学的特徴から必然的に普遍性をもつものもあるが,それでも文化的な多様性はある(高田のボツワナのサンの研究,Brownの共同注意研究など参照)。

・育てる方の話しとして,言語的社会化研究では,養育者が子どもの生活環境をどのようにして整えているのかに注目する。それはまた,人々の間のコミュニケーションのやり方を左右する。例えば家のドアが村の中心に向かって開け放たれているならばマルチパーティ会話が起こりやすい。
・したがって,このような子育ての生態学的な環境の差異は,子どもの会話理解をも左右する可能性がある。たとえば,誰がどうすれば「聞き手」になれるのか,の理解。

■社会化のために用いられる記号的リソース
・(1)社会化するための主要な道具であると同時に目標でもあるさまざまな記号に注目すること。(2)それらの記号がリソースとしてさまざまな意味のある社会文化的な実践(道徳,情動,関係,制度など)を維持したり変えたりすることについて民族誌学者なみに敏感になりなさい。
・文法,語彙体系,音韻,言語行動,会話の連鎖,ジャンル,レジスター,チャンネル,コードなど,記号システムを構成する諸要素がいかにして社会化を促しているかが問いとなる。例えば親族を呼ぶ際の語彙の習得は家族関係の組織化と密につながっている。
・言語人類学的観点からは何がトピックとなるのか?
記号がいかにして社会的状況とインデキシカルにつながっているのか(パース,シルヴァステイン)。コミュニティにおける異種混交性とその階層性(ブルデューの文化的資本)にそって子どもがどのように社会化され,それら言語的変異をどのように使い分けるか。

・複雑な状況の多様な理解を広く捉るために,これらの記号システムを分析する際には,①体系的なドキュメンテーション,②関連する人工物の収集,③緻密なエスノグラフィーが必要。縦断研究も,異なる生活環境での調査も必要。

・言語的社会化研究では,上記のリソースが相互行為において用いられることを観察し,人々が歴史的に社会を持続させつつ変化させる過程を探究する。

■言語的社会化実践
・意図的に行われる社会化もあるだろうが,多くの言語的社会化は記号によって媒介された実践に繰り返し参加することを通して実現する。習得内容はそこでは暗黙的implicitであり,ブルデューとパスロンの言うように暗黙的な社会化過程の方がより一般的である。
・それは,実践の場に実際に自身の身を置き,観察をしながら学習する過程。その意味で,実践的知識が言語化された学校とは異なる。ブルデューらは前者をdiffuse education(冗長な教育),後者をpedagogic inculcation(教育的な説明)と呼ぶ。
・ただ,日常的実践の場面で養育者が子どもの注意をガイドするなど積極的に手助けをしていることもある。例えば日本の養育者は,子どもが適切にあいさつできるかどうか,常に目を光らせている。道徳的な違反が起きた場合には,台湾の養育者などは子どもがそのことを恥ずかしいと思うようにしむける。同年齢同士ではうわさ話をすることが自分たちの社会秩序形成につながる。
・要するに,新参者は制度的な場でも日常的実践の場でも,社会化する機能を持つ言語的なはたらきかけ(例えば,はずかしめ,からかい,賞賛,誤用訂正,うわさ,など)の受け手となる。

■言語的社会化とスピーチ・コミュニティ
・言語とコミュニティそれ自体が変化のただなかにあること,新参者の言語的社会化も当然その影響下にあること,そして,新参者自身もその変化をもたらしていること。したがって,結果的にあるコミュニティは言語的な異種混交性をもつ。
・ゆえに,コミュニティにはPratt(1991)の言う「接触のゾーン」(zones of contact)がある。それはときには安定的に見られるものの,時には流動的である。それは,文化,言語,社会,自己意識を構成する媒体となる。(伊藤コメント ★ある者が「他者」となると同時に,その「他者」に対する自己として自己が生成される。)

・例えばシフリンが70年代にパプアニューギニアに入ったとき,すでにそこではキリスト教伝道師が入っており,言語と文化に変化が起きていた。また,西インド諸島ではフランス語をもとにしたクレオールに対して英語を高く評価する価値観が養育者の間で育っている。こうした状況を背景とした日常的なコミュニケーションは,言語のシフトが起こる現場と考えられるので,そこでの親子間会話などを微視的に見ることが大局的な言語シフトを説明する。

・若者が移民として新しい言語コミュニティに入ることも接触のゾーンを形成する。そこにおいて,自身の連続性,アイデンティティ形成,断絶,脱アイデンティティが経験される。例えばスペインに移民してきたモロッコの子どもは,学校ではスペインの子どもによる身体的・言語的実践によって直接的・間接的に低く見られる。その一方で,その子どもの家族にとってはスペインの様々な制度にアクセスするための媒介者として子どもが機能する。
・ある言語の獲得は,その社会における立ち位置と結びついている(その言語を話すからには,これこれこのような人だろうという評価を得る)。第二言語獲得による社会化,あるいはかつて話されていた言葉の習得による社会化はこのことがはっきりする過程だ。

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観察者を傍観者から当事者に変える実践

dun (2013年5月23日 20:33)|コメント(0)| トラックバック(0)

障害者イズム ~このままじゃ終われない~ Part1 [DVD]

先週に引き続き,「障害者イズム」から別の1シーンを使って,詳細な行為の分析をいかにすべきか,実習を行いました。以下は,人々のやりとりを細かく見るといろいろなことが浮かび上がってきますよ,ということを伝えるために,実習の最後に配布したお試しの分析レジュメの内容です。

私は会話分析・相互行為分析について誰かから系統立てて学んだことはありませんので,見る人が見たら多分におしかりを受ける内容ではあるでしょう。にもかかわらず掲載するのは,その見る人がもしもこれをご覧になったらいろいろと教えていただければなあと思ったからです。あつかましいですね。

見えない参加者—撮影者

N氏が県営住宅を借りる相談をしに,N氏とH氏は連れだって某県庁住宅課の職員(職員AとB)の元に訪れた。参加者による一連のやりとりが終わった直後の場面を見ると,2人の職員は立ち上がって,相談者N氏とH氏のいる場所とは逆の方向に顔を向けて背中をかがめていた。これは一連の相談が終わった後のあいさつと解釈されるが,果たして誰にあいさつをしているのだろうか。

それは,「撮影者」である。撮影者はカメラの後ろ側にいる限り決して画面に映り込まないが,参加者としてその場に共在する。

中立的立場の撮影者?

この場面での職員たちの行動は,かれらが撮影者をどのような存在として理解していたのかを推測する手がかりになるように思われる。仮に職員たちが撮影者を「壁の虫」のように無視していたのだとしたら,あいさつと目されるような行動は取らなかったであろう。では,撮影者は職員たちにとって相談者の1人であったのであろうか。実は,そうでもなさそうである。まず,相談の一部分を書き起こししたものを見てみよう。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(B:職員B H:H氏)

01 B あのー車イスで使えるような設備も整ってるんですよね
02 H はい
03 B ここが空いてるんですよ
04 B だけどなかなかねこんだ逆にこちらのほうが募集していても
05 B なかなか需要者がいないっちゅうね
06 B こうちょっとこうふうね
07 H 場所て場所的にはどこらへんになるんですか
08 B ほ

抜粋したシークエンスでは,主に職員Bが相談に対して返答していた。その内容は,住宅への居住が可能な条件に適した応募者がなかなかいない,というものであった。職員Bの発話に対して相づちを打ったり問いかけをしたりしているのはH氏であった。その他の職員AやN氏はこのシークエンスでは発話していなかった。

相談の当事者はN氏であった。N氏が希望していた県営住宅の部屋は自分の職場からも近く理想的であったのだが,そこは世帯用であり,家族がいなければ(N氏は独身であり,さらに親元から独立しようとしていた)借りることはできない。一方で,職員Bが勧めていたのは単身用の部屋であった。しかしN氏にとって問題だったのはそこが職場から遠く離れていたことであり,車でもないと通勤できない(N氏は脳性マヒ患者であったために自動車の運転は困難であった)。

職員Bがこのシークエンスで行いたかったことは,おそらく,「相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること」であったと推測される(このことは直前のナレーションによって明らかとなる)。職員Bのねらいがこれであったという前提で議論を進めると,職員Bが相互行為を通して行いたかったことの1つは「味方を手に入れること」であったと推測される。

説得する相手である相談者以外で味方になる可能性をもつ参加者として,まず職員Aが想定できる。ただし,職員Aは職員Bと同じ制度的な役割をもつ。相談者と相談を受ける者との間で思惑が対立していた場合,議論は平行線をたどることとなろう。そこで,相談者(車イス利用者)と相談を受ける者(職員)という対立する2つの役割以外の参加者が職員Bにとっては必要であったのではないか。つまり,中立的な立場の存在である。中立的な立場の参加者を味方とすることに成功した場合,人数において相談者を上回ることとなり,説得に成功する可能性は高くなるであろう。このような判断を職員Bが実際に頭の中で行っていたかどうかはまったく不明である。しかし,非合理的な推論ではないだろう。

このシークエンスにおいて中立的な立場に立ちうる唯一の参加者は撮影者であった。撮影者を味方につけることができれば,職員Bのねらい(=相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること)が達成される可能性は高まる。このような前提であらためてシークエンスを見てみよう。

視線の分析を通して何が分かるか?

このシークエンスの映像を見ていて気がつくことは,職員Bが発話をしながら視線をあちこちに向けていたことである。発話だけを見ると,H氏と職員Bとの対話のように見えるため,職員BはH氏だけに視線を向けていたように考えてしまうが,実際には,視線を向ける対象を頻繁に変えていた。

このシークエンスでは映像の画面に2名の職員しか映っていない。そのため職員Bが相談者の誰に視線を向けているのか,明確ではない。しかし,シークエンス終了間際に,2名の相談者と2名の職員の座っていた位置関係が俯瞰的に映っている。その映像に基づくと,図2のような身体配置によってシークエンスが展開されていたこととなる。

20130523fig2.gif

図2 住宅を借りる相談をするシークエンスにおける参加者の身体配置

図2で想定された身体配置を背景として,発話の書き起こしに職員Bの視線の動きを重ね合わせ,さらに発話をジェファーソン・システムで書き起こしし直したものを次に示す。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(発話の書き起こしの下にある記号は,職員Bの視線の向き先にある人/物を示す)

視線の向き先にある人/物の凡例
H:H氏  N:N氏  O:撮影者 D:書類 ---(ハイフン)は,視線の移動を示す。

01 B あの::くるまいすでつかえるような(.)せつびもととのってるんですよね:
      HH----NNNNNNNN----DDDDDDDDD----HHHHHHHHHHHHHHHH
02 H (はい)
03 B ここが(2.0)あいてるんですよ=
      HHHHHHHHHHH---O-N-----
04 B =だけどなかなかね(.)こんだぎゃくに:(.)こちらのほうがぼしゅうしていても=
      --DDD----H----NNN---OOOOO------N---OOOOOOO------HHHHHHHHH------
05 B =なかなか(1.0)じゅようしゃがいないっちゅうね:
      OOOONN--H-NNNNNNNNNNNNNNNNNN---
06 B こうちょっとこう.h[ふうね::
      HH---NNNNN---D-NO--H---N--
07 H            [ばしょてばしょてきにはどこ[らへんになるんですか
08 B                              [ほ
                 HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

シークエンスにおいて,職員Bが撮影者を頻繁に見ていたのは,4行目と5行目の発話の最中であった。この発話は,「今度は逆にこちらの方が募集していてもなかなか需要者がいない」というものであった。ここにおいて職員Bは「こちら」という言葉を用いていた。これは,行政を担う職員という自分たちの制度的役割を指し示すものであったと言えるであろう。このような発話をしながら撮影者に視線を向けることにはどのような意味があると考えられるだろうか。

直前の発話が「単身用の部屋ならば空いている」ことを主としてH氏に視線を向けながらなされていたことと対比的にとらえるならば,4~5行目で職員Bはあたかも「行政の努力」を誰かに伝えようとしていたようにも見える。そして,視線が撮影者にも向き始めたことは,「行政の努力」を伝える相手としてH氏やN氏以外に撮影者が含められるようになったこととして解釈できるであろう。

参加の形式という観点からもう少し補強してみよう。

二者による会話(dyad interaction)を考えてみる。この場合,1人の参加者が話し手となった場合,他方が自動的に聞き手として扱われる。一方で三者以上の会話(multiparty interaction)の場合は,参加の形式に多様性が生まれる。1人の参加者が話し手となったとき,他の参加者の中で誰が聞き手なのかは自動的に決まらない。むしろ,誰が適切な聞き手となるのかはその相互行為を通して・その相互行為の中で即興的に決められていく。

会話中の参加者の視線の動きはこうした聞き手の決定過程と密接に関係していると考えられる。すなわち,話し手が視線を向けた対象は,優先的に聞き手として判断される傾向にあるのである。

撮影者に視線を向けることで,職員Bはその人を「聞き手」とすることができる。すなわち,相談という会話に臨場する単なる傍観者としてではなく,撮影者を相談に強制的に巻き込むことができるのである。撮影者は不可避的にカメラを通して職員を見ていたということも重要なポイントである。職員Bには撮影者が自分を見ていることが自明であり,だからこそ撮影者に視線を向けることで見つめあいを容易に達成することができた。

まとめると

職員Bは「相談をする者」でもなく「相談を受ける者」でもない参加者である撮影者を会話に巻き込むことに成功し,同時に,それを基盤として,撮影者に行政の努力を伝えていたと解釈できるであろう。

ともすると,ビデオ映像に基づくエスノグラフィーや会話分析・相互行為分析ではカメラの背後にいる撮影者の存在を無視して目の前で起きていることを分析してしまう。しかし,映像に映っている参加者が撮影者を参加者の1人として積極的に扱い,そのことが合理的な目的を持ちうる場合もありうるのである。

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オンラインセミナー

dun (2013年4月 9日 20:27)|コメント(0)| トラックバック(0)

Psychological Investigations: A Clinician's Guide to Social Therapy Schools for Growth: Radical Alternatives To Current Education Models

昨年の夏に来日したEast Side InstituteのLois Holzmanが,日本の研究者や学生向けにオンラインセミナーを開くことになり,それに参加することにしました。

いつも何かを教える立場なので,何かを「受講」するのは久しぶりです。

第1週目の今週は,まずは参加者同士の自己紹介。毎週英語で何かをアウトプットしていく作業は頭がしびれます。英文を校正してくれるサポートが欲しいです。

上に掲載しているのはセミナーで購入を指定された本。新年度の講義の準備と同時並行で読み進めて,果たしてパンクしないだろうかと今から戦々恐々であります。

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フォルマリストのドミナント(3)

dun (2013年1月23日 18:29)|コメント(0)| トラックバック(0)

言語芸術・言語記号・言語の時間 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

「可動性は必然的に体系の存在を前提としています」

これは,クリスチーナ・ポモルスカとの「言語と文学における時間について」と題された対談においてヤーコブソンが語ったことです。あるものが動き,変化するためには,そのものが内部的に関係的構造をもつことが必要だ,と彼は述べたのです。ちょっと考えると,なにものとも関係しておらず自由であった方が運動は起こりやすいのではないかと思いますが,逆に,結合がなければ変化が起こらないというのです。どういうことでしょう。

先述のように,ヤーコブソンは文学作品の内的ダイナミクス,あるいは文学ジャンルにおける価値の相対的配置の歴史的変化を検討する上でのドミナント概念の有効性を指摘しました。その際に,ソシュール派言語学で言うところの言語の共時態と通時態が,説明の方便として用いられました。

ここには注意が必要です。「言語と文学における時間について」でヤーコブソンが明言しているのですが,共時態と通時態とは切り離すことができません。構造主義言語学は静的な体系としての言語を仮定し,そのダイナミクスを捨象したと批判されましたが,ヤーコブソンはそもそも変化のしくみを説明するものとして,体系,すなわち共時態という概念を採用したのです。

ヤーコブソンの言語機能論をもう一度想起しましょう。言語メッセージを構成する6つの要素は同時に存在しますし,それぞれに対応した言語機能も同時に生起します。ただ,ドミナントとなる要素に応じてある言語メッセージが強く関説的機能を果たすようにも,強く詩的機能を果たすようにもなるのです。

ここで,関説的機能を果たしていた言語メッセージが,いつのまにか詩的機能を果たすメッセージへと変化するという事態を考えてみましょう。さほど難しくないと思います。この変化はドミナントの交代として記述できます。すなわち,潜在的にはすでに存在していた詩的機能が前面にあらわれ,代わりにかつてドミナントであった関説的機能が副次的位置に後退するという変化です。同じことが文学ジャンルにおける価値の変化にも言えます。グレチュコ(2012)にしたがえば,これは単なる変化ではなく歴史的な発展です。「こうして文学はその構造的な予備資源,つまり文学システム内には潜在的には存在するが,ある時期まで積極的な役割を演じない諸要素によって発展することになる」(pp.103-104)。

時間的な変化という問題についてヤーコブソンの考えていたことが明らかになってきたのではないでしょうか。彼はこのようにも述べています。「詩的形式の進展という点から見れば,進化はある要素が消滅し他の要素が出現するという問題ではなく,むしろ,組織を構成する多種多様な要素の相互関係に位置の変化が生ずることを意味する」(ヤーコブソン,1988,pp.224-5)。ここで重要なのは,変化するものはいったい何なのか,という点です。共時的な構造を構成する諸要素そのものが形を変えるのではありません。ヤーコブソンによれば,変化とは,諸要素間の配置の相対的な交代として記述されるのです。

ヤーコブソンのこのような考えに接していくつかの疑問もわきます。今指摘しておきたいのは,ドミナント概念の適用範囲となる対象についてです。彼は,作品の中のドミナント,文学領域の中のドミナントといったように,ドミナント概念をいくつかの言語領域に広げることをしています。こうしたことが可能なのは,言語が必然的に時間の2つの相,すなわち同時性(=共時態)と継起性(=通時態)をもつからだということはすでに述べたとおりです。では,そのような時間的二重性のもとで理解するのが適切な現象であれば何にでも適用可能なのでしょうか。

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文献

ヴァレリー・グレチュコ (2012). 回帰する周縁:ロシア・フォルマリズムと「ドミナント」の変容 貝澤哉・野中進・中村唯史(編著) 再考ロシア・フォルマリズム:言語・メディア・知覚 せりか書房 pp.97-109.

ロマン・ヤコブソン 浅川順子(訳) (1995/2012). 言語芸術・言語記号・言語の時間 法政大学出版局

ロマン・ヤーコブソン 岡田俊恵(訳) (1988). ドミナント 桑野隆・大石雅彦(編)  ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム:詩的言語論 国書刊行会 pp.222-227.

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フォルマリストのドミナント(2)

dun (2013年1月23日 10:48)|コメント(0)| トラックバック(0)

再考 ロシア・フォルマリズム―言語・メディア・知覚

言語機能にかんするヤーコブソンの枠組みをさらに形式化してみましょう。「複数の部分から成る運動する構造体があったとき,それを構成する諸部分のうち主導的な役割を果たすものがその特性を決定する」。このように記述できます。

ヤーコブソンのこうした考え方は,彼の完全なオリジナルというわけではありませんでした。ある構造体の特性を方向付ける要素が構造体に内在するというアイディアは,彼を含むフォルマリストに共有されたものだったようです。構造体の特性を方向付ける要素のことをフォルマリストは「ドミナント」と呼びました。

フォルマリストたちは,ドミナントという概念を新カント派に属するドイツの哲学者ブローダー・クリスチアンセンから学びました(グレチュコ,2012)。クリスチアンセンはその著書『芸術の哲学』で,「美的客体の『前面に出て,主導的な役割を演じはじめる』一つの(あるいはいくつかの)要素」(グレチュコ,2012,p.98)のことをドミナントと呼びました。主導的な役割を演じるものがあれば,当然,背後で従属的な役割を果たす要素もあります。それらの諸要素をまとめあげるのが「ドミナント」という要素なのです。したがって,クリスチアンセンにとってドミナントとは「一つの芸術作品を『不可分な一体』と知覚することを可能にする統一的モメント」(グレチュコ,2012,p.102)のことでした。

例えばクリスチアンセンは肖像画の鑑賞について理論化しているようです(ヴィゴツキー,2006)。特定の人の姿を模した絵には「ある人らしさ」が見出されるようなんらかの特徴的な部分があるはずです。それがなければ,「その人」としてその肖像画が認識されないでしょう。このとき,肖像画を「ある人」として知覚させる「統一的モメント」がドミナントであったと思われます(思われます,と回りくどく書いているのは,筆者自身クリスチアンセンの著書を読んでいないからです)。このとき,ある人らしさの演出に貢献しない絵の諸要素は従属的要素となるわけです。

フォルマリストたちが論文中にこの概念を取り入れ始めたのは1921年以降のことでしたが,かれらはクリスチアンセンがおそらく思い描いていたであろうドミナントのニュアンスとは異なった意味合いをそこに見出していきました(グレチュコ,2012)。クリスチアンセンの言うドミナントとフォルマリストの用いたその概念の違いは少なくとも2つあるように思われます。1つはドミナントと他の要素の相対的な役割です。2つ目は作品におけるドミナントと他の要素の関係性の変化についてです。

まず第一の点について。グレチュコ(2012)によりますと,クリスチアンセンはドミナントと従属的要素が「調和して」機能することを念頭に置いていました。しかし,たとえばフォルマリストであるエイヘンバウムは,ドミナントが従属要素を「支配する」ととらえていたようです。イメージとしては,ドミナントが従属要素の上位にあって,従属要素のはたらき自体を左右する,と言えるでしょう。ドミナントについてはヤーコブソン(1988)でも取り上げられています。それによればドミナントとは「芸術作品の中核をなす構成要素」であり「作品の性格を決定する」ものです(ヤーコブソン,1988, p.222)。このように,フォルマリストらによってドミナント概念には作品固有の意味を左右するより強い役割が与えられることになりました。

さらにヤーコブソンはドミナント概念から第二の点を引き出しています。彼によればドミナントとは,「芸術作品の内的ダイナミズムの主導的要素であり,他の諸要素と相互作用をし,『それらに直接的影響を与え』,芸術的作用を及ぼす」もの(グレチュコ,2012,pp.102-103)です。作品に内的なダイナミズムを見出している点に注目しましょう。作品の内部の諸要素のうち何かがドミナントとして機能することでそれらの間の相対的な配置がダイナミックに形成されていく,というイメージだと思われます。ここには,作品を静的な構造体としてではなく,運動するものとしてとらえる視点が見て取れます。クリスチアンセンが絵画について議論したことを思い出しましょう。絵画はキャンバスに固定された諸要素から成り,鑑賞時にはそれらの関係性は変化しない,つまり静的な構造をもっています。それに対して文学作品は音楽と同様,語同士の連鎖という時間構造を前提としており,そこから変化の余地が生まれると考えられます。

言語機能についてのヤーコブソンのアイディアの背景に,言語的な構造体は時間とともに変化するというものがあったことを想起しましょう。彼はこの点を歴史的,あるいはソシュールにならって通時的側面と指摘しています(トゥイニャーノフ・ヤコブソン,1982)。ソシュールにしたがうなら,当然,ある時点での言語構造,すなわち共時的側面についてもヤーコブソンの念頭にありました。さきほどの作品の内的ダイナミクスとは,共時的には諸要素間の相対的配置に注目し,通時的にはその配置の変動するさまに注目する2つの視点を含むものだと言えます。

ヤーコブソンは,ドミナント概念が1個の作品や作品同士の関係だけでなく,芸術のジャンルの構造自体の変化にも適用しています(ヤーコブソン,1988)。例えばチェコにおける詩の変遷をたどりつつヤーコブソンが述べるのは,どの時代にも詩には韻律や音節構成,抑揚の統一性といった諸要素がありながらも,どの要素が「詩らしさ」の相対的な価値をもたらすのかは時代に応じて変化することを指摘しています。他にも,ルネッサンス期には絵画や彫刻など視覚的芸術がドミナントとなり,他の芸術ジャンルはそれとの関係によって価値の相対的配置が定められていたことも指摘されます。以上,クリスチアンセンとフォルマリスト,特にヤーコブソンによる,それぞれのドミナント概念の用い方の違いについて確認しておきました。

ヤーコブソンのドミナントについての議論は,すでに述べました,言語機能論の下敷きになるような議論だったと思われます(グレチュコ,2012)。ヤーコブソン(1988)はこう述べています。「詩的作品は,美的機能をドミナントとする言語伝達として定義されるのである」(p.224),さらに,「美的機能を詩的作品のドミナントであると定義すれば,詩的作品の中に存在するさまざまな言語機能の階層構造を決定することが可能になる」(p.224)。講演録「言語学と詩学」で提案されていることがすでに述べられていたことが分かります(ヤーコブソン(1988)は1935年の講義録,ヤーコブソン(1973)は1960年のSebeokの本に収録された講演録)。言語メッセージにおいて,前面に強く出てそのメッセージのはたらきを左右する機能は,ドミナントとして理解できるでしょう。

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文献

ヴァレリー・グレチュコ (2012). 回帰する周縁:ロシア・フォルマリズムと「ドミナント」の変容 貝澤哉・野中進・中村唯史(編著)  再考ロシア・フォルマリズム:言語・メディア・知覚 せりか書房 pp.97-109.

ロマン・ヤーコブソン 岡田俊恵(訳) (1988). ドミナント 桑野隆・大石雅彦(編) ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム:詩的言語論 国書刊行会 pp.222-227.

ユーリー・トゥイニャーノフ ロマン・ヤコブソン 北岡誠司(訳) (1982). 文学研究・言語研究の諸問題(テー・ヤー・テーゼ) 水野忠夫(編) ロシア・フォルマリズム文学論集2 せりか書房 pp.343-347.

レフ・ヴィゴツキー 柴田義松(訳) (2006). 新訳版 芸術心理学 学文社

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フォルマリストのドミナント(1)

dun (2013年1月22日 20:38)|コメント(0)| トラックバック(0)

一般言語学

フォルマリズムという芸術理論がありました。20世紀初頭,ロシアでのことでした。

この芸術理論は,はじめは主に文芸の分野を対象として出発しました。フォルマリズムを主張した人々はフォルマリストと呼ばれたりしましたが,かれらの始発の問いは,「文学作品を,日常的な言葉の使用から区別して,芸術たらしめるものはいったい何だろう」というものでした。

最初に現れたフォルマリストは作品を構成する言葉それ自体の内に,芸術に固有な「なにか」があるのだろうと考えました。かれらは,聞いたこともないような言葉を使ったり,言葉を独特なやり方で組み合わせたり並べたりすることが,芸術的な文学作品と日常的な言葉との違いだと主張したのです。

初期のフォルマリストの悪いところは,文学作品と日常的な言葉をいったん「別物」とした上で対照的にとらえていたことでした。これですと,日常的な言葉の内にも詩的(=芸術的)な響きがふとした瞬間に現れることを説明できません。

これに対して,フォルマリストのひとりであったローマン・ヤーコブソンは,「言語学と詩学」と題された講演録において,文学作品と日常的な言葉を区別せずに,「言語メッセージを芸術作品たらしめるもの」を説明しています。それによれば,芸術作品とは言語が果たす機能のうち「詩的機能」が前面に出た言語メッセージのことを指すのです。

彼によれば,言語とは時間とともに展開するダイナミックな構造体です。言語は自身のダイナミックな運動を通してさまざまなはたらき(=機能)を示します。ヤーコブソンにしたがえば,芸術作品はいくつもの機能のひとつ,詩的機能が強くはたらく言語的構造体のこととなります。

言語のダイナミックな運動を通して,その前面に出る機能は入れ替わります。例えば詩的機能がはたらいている瞬間から,別の機能が強くはたらく瞬間へと,連続的に変化します。ここで,「強くはたらく」という言い方は重要です。なぜなら,前面に出る機能の他にもたくさんの機能が背後にあって,諸機能は同時にはたらいているのです。すると,詩的言語と日常的な言葉とが連続していて,はっきりとした境界線が引けるわけではありません。ヤーコブソンのこうした考え方とそれまでのフォルマリストの考え方にはこうした違いがありました。

ちなみに,詩的機能以外の機能は5つあります。何かを指し示すための「関説的機能(referential function)」,話し手の言語に込めたニュアンスをあらわす「心情的機能(emotive function)」,命令文など聞き手にはたらきかける「動能的機能(conative function)」,メッセージの伝達と継続をするようはたらきかける「交話的機能(phatic function)」,そして言語の読み取り方自体に焦点を当てるための「メタ言語的機能(metalinguistic function)」です。これに詩的機能を含めた6つの機能をヤーコブソンは「言語学と詩学」で提案しました。

ちなみに,これらの6機能はやみくもに提案されたわけではありません。ヤーコブソンによれば,言語メッセージが発せられ,読み取られるという出来事は6つの構成要素で構成されていますが,上記6機能はその6つの構成要素をそれぞれ指向するはたらきだととらえられています。

言語メッセージが成立するには,まずは「発信者(addresser)」と「受信者(addressee)」がいて,なんらかのかたちで「接触(contact)」していなければなりません。二者の接触において発せられたなんらかの言語的あるいは非言語的な身振りは,その意味を限定する「コンテクスト(context)」と解読のための「コード(code)」を手がかりに「メッセージ(message)」として読み取られます。これらが6つの構成要素です。これらの要素は言語メッセージが成立するならばそこに同時に含まれています。

機能と構成要素の対応関係をヤーコブソンにならって整理すると以下のようになります。(私自身が英語の方が分かりやすいので英語で表記します)

context: referential function
addresser: emotive function
addressee: conative function
contact: phatic function
code: metalinguistic function
message: poetic function

詩的機能とは,メッセージそのものに指向する言語の機能ということになります。メッセージそのものに指向するとは,記号そのものの「触知性」を高めることだとヤーコブソンは述べます。

例えば,身近な例として「しゃれ」を思い出しましょう。ヤーコブソンによれば,しゃれは詩的機能が強く出ている言語メッセージの例です。われわれは文「ネコが寝ころんだ」を作るときに,まず等しい意味の単語のリストから語を選択します。「寝ころんだ」のこの文意においての同意語には「寝た」「横になった」「動かなくなった」などがあるでしょう。発信者がコンテクストに指向し関説的機能を強く出そうとすれば,同意語から目の前のネコのようすを最も適切に示す語を選べばよいはずです。一般的には,意味の「等しい」単語リストの中から相応しい語を文中のスロットにはめていくという作業を行いながら私たちは文を構成していきます。

他方,詩的機能は文を構成するメッセージの形そのものにてらして「等しい」単語を並べるよう要求します。上のしゃれの場合は直前に「ネコ」があり,それと音が「等しい」ので「寝ころんだ」が結合されるのです。ヤーコブソンは「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する」(p.194)と述べています。

「ネコが寝ころんだ」が聞き手になんらかのおもしろみを起こす(=詩的機能を果たす)としたら,やはり関説的機能などの他の機能も同時にはたらいていると考えるべきでしょう。目の前のコンテクストを記述する(=関説的機能)ように見えつつ,同時に,等しい音を持つ単語が連鎖する点に,われわれは言語的な非日常性を感じ取っているものと思われます。

ここで概説したヤーコブソンの言語論の重要な点をまとめますと,以下のようになります。
(1)言語は時間とともにダイナミックに展開する構造体である。
(2)言語の果たす機能には少なくとも6つあり,それらは言語メッセージの6つの構成要素と対応する。
(3)6つの機能と構成要素は,言語メッセージが成立する瞬間において,すべて同時に成立している。
(4)言語の時間的な展開を通して,前面に強く出る機能は交代しうる。

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文献

ローマン・ヤーコブソン 川本茂雄(監修)・田村すゞ子ら(訳) (1973). 一般言語学 みすず書房

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相互行為分析の心得

dun (2012年5月16日 00:00)|コメント(0)| トラックバック(0)

Reading material
 Jordan, B., and Henderson, A. 1994 Interaction analysis: foundations and practice. IRL Report No.IRL94-0027. (http://lrs.ed.uiuc.edu/students/c-merkel/document4.HTMにフルテクストがある。)

0.0 はじめに

ひとびとの相互行為を分析するためには、テープレコーダーやビデオカメラなど、さまざまな機器を利用するのが有効だ。しかし、ただ漫然と使うべきではない。背後にあるパラダイムや機器使用によるメリット・デメリットをきちんとおさえておく必要があるだろう。

方法としての相互行為分析に特化した文献として、Jordan&Henderson(1994)がある。およそ20年前と、新しくはないものの、いまだにこの文献を読む意義は薄れていない。なぜなら、相互行為分析が一般化しつつある黎明期にあった一種の緊張感が感じられるうえ、なによりも、相互行為分析が可能な世界観というものをはっきりと自覚しているからである。以下、冒頭に挙げたJordan&Henderson(1994)の章立てにしたがい、途中筆者自身のコメントや現在の状況などについて交えながら解説をすすめていきたい。したがって、以下の内容はJordan&Henderson(1994)の要約ではない。なお文中特に断りのない限り引用はJordan&Henderson(1994)からのものである。


1.0 背景と前提

1.1 相互行為分析
相互行為を分析の対象とするというだけでは、素朴すぎる。相互行為という現象をどのように切り取るか、切り取ったものへどのようにアプローチするか、これらに特殊なやり方で答える方法論や態度(たとえば、西阪(1997)の言う「相互行為分析という視点」)を背景にもったひとつの手法が、いわば大文字の「相互行為分析」である。

手法としての相互行為分析が開発されたのはひとつの学問領域においてではないし、利用される領域も広い。学説史における大きな流れとしては、人類学、キネシクス、社会学が相互行為分析の源流とでも呼べそうだ(p.1,P1,2)。

手法の開発に潜在的な貢献をしたのはそうした領域の研究者ではなく、画像・映像や音声を記録する機器の開発と普及を果たした産業だろう。相互行為分析の歴史は、産業が先行して開発するさまざまな機器を、研究者が導入してきた歴史なのである。たとえば、グレゴリー・ベイトソンはバリ島調査に写真機を携行している(Bateson,1947;佐藤良明訳「精神の生態学」に所収)。すでにルポルタージュに採用されていた機器を、人類学的研究に応用したのである。これで撮影した連続写真を使い、彼はバリにおける母子間の相互行為を記述することに成功した。動画となると、分析を目的として撮影をおこなった先駆的研究として、たとえばCondon&Sander(1974)を挙げることができる。彼らは大人と新生児の行動(身体動作と発声のような)を16mmフィルムで撮影し、両者が緊密で同期的な相互行為をおこなっていることを明示した。

コンドンらがおこなったように、研究対象をフィルムに収めることは、いくつかの領域でそれまでもなされてきた。それは出来事の記録、および保存という性質を利用したものであった。しかし、相互行為分析において利用されたのは、動画がそもそも連続写真にほかならないという性質だったのである。フィルムで言うコマ、ビデオで言うフレームを分析の単位とすることは、写真の一枚を取り上げることと同じだ。これ以後の動画技術は、原理的にベイトソンが利用したような連続写真を高度に洗練したものだと言えよう。

ベイトソンやコンドンらが利用していた、高価で、専門性を要し、できることも限られていた初期の撮影技術しかなかったら、相互行為分析は研究の手法として定着しなかっただろう。安価でさまざまなニーズに対応した民生品の普及によって、多くの研究者の「やりたいこと」に応えられるようになったとき、はじめて体系的な手法となりえたのである。

こうしてビデオが普及するにいたり、J&Hが念頭に置く映像・音声記録の分析が可能となった。ビデオを用いる利点として、繰り返し再生できること、そして複数人で分析できることが挙げられている(3.0 なんでビデオなの?で詳説)。グループで作業が可能であるとは、すなわち、相互行為分析という手法を共有するサークル(学際的なので、学派とは呼ばないだろう)が形成されたことをも意味する。合衆国での中心のひとつは、パロ・アルトにあるゼロックスの研究所であった。かれらが対象としたフィールドや課題は多岐に渡り、そこでの研究をもとに世界的に著名な業績をあげたメンバーも大勢いる。

相互行為分析とはこのように、歴史的にも、環境的にも、特殊な背景において醸成された手法なのである。

1.2 枠組みと前提
すべての手法の背後には理論的な前提がある。J&Hは相互行為分析について大きく二点を挙げた。

 前提1 知識や行為は本質的に社会的である。
 前提2 相互行為の参与者にとっての世界は観察者からも見える世界である。

まず1について。知識と行為は起源、編成、使用といった面においてそもそも社会的なものであり、特に社会的・物質的生態環境social and material ecologyに状況づけられている。認知を個人の脳内に還元せず、社会や生態環境に分散するものとみなすので、実践コミュニティ(Lave&Wenger, 1991;Jordan,1992)のメンバーのあいだで日常的になされるごく普通の相互行為を理論化の対象とする。相互行為分析の目標は、複雑な社会的・物質的世界にあるさまざまなリソースを、操作し統合するやり方にある秩序regularityを同定することだ(p.2,P2)。

次に2について。「世界」の分析には検証可能な観察が基本中の基本となる。経験的な個別事例から知識と行為の理論を構築して一般化generalizeする。この態度の背後には、参与者が触れられる世界には、観察・分析者も同様に触れることができるという前提がある。ということは、分析するには、自分自身も実践コミュニティの有能なメンバーとして経験を積んでいなければならない、ということになる(p.3,P1)。

さて、以上の前提からどのような態度が帰結として導かれるか。

相互行為分析は、日常的状況の社会的秩序social orderがいかに達成されているかに関心を向ける。参与者はお互い他方の行為に意味づけをする。そうすることで、相互行為は協同的に達成されるものと見なされる。このときの秩序性や予測/計画可能性projectability(オリジナルは会話分析にある。次の反応が緩やかに決まるしかたを言う。訳語は串田(1997))を可能にするリソースは何か、そして参与者はそれらをどのように使っているのかを探求するのだ。学習という現象も同様である。ひとびとが学習なるものをし、そしてまた学習されたと認識される、そういう出来事が社会的に分散された過程として生起しているとみなされる(p.3,P2;p.4,P1)。

上記の態度は、ハロルド・ガーフィンケルの創始したエスノメソドロジーや、ハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンらの打ち立てた会話分析と共通するものだと言える。これらは、ひとびとの行為を研究者独自のカテゴリーで分類・記述・解釈する社会学者に対する批判として生まれた理論である。

1.3 概要
J&Hは以下の構成で筆を進める。次の2節では、典型的な作業手順が概略される。3節では、ビデオ記録をデータとして用いる際の長所と短所が述べられる。4、5節では、ビデオで撮影することにともなう制約が指摘される。もっとも大きく割かれた6節では、相互行為分析でのポイントが簡潔にまとめられている。

それでは、実際の分析作業に移ろう。

2.0 作業手順

2.1 エスノグラフィー
J&Hがビデオを持ち込むのは、エスノグラフィック・フィールドワークと呼ばれる作業においてである。フィールドワークは、参与観察、インタビュー、歴史の再構成、人工物やドキュメント、文脈を構成するネットワークの分析といった下位作業から成る。

フィールドワーク中の留意点について、J&Hは「ホットスポット」、つまりビデオを回すとおもしろそうな活動を探すことを挙げる。エスノグラフィは相互行為の微視的分析に際して、背景情報をもたらす。と同時に、相互行為分析で明らかになったことからエスノグラフィが見直されることもある。

2.2 目次作り
撮影が終わったらできるだけすぐ、観察者の記憶のあせないうちに映像を視聴し、打刻された時刻(あるいはテープカウンター)、見出し、出来事のおおまかな記述という構成で「目次ログcontent log」「目次リストcontent listing」を作る。この段階では細かいことを気にしないようにする。たとえばあらかじめ動作のカテゴリーを作るなどして一貫性をもたせることに気を遣うのではなく、出来事の直感的な記述にとどめるべきだ(p.5,P1)。実のところ、最初に見た印象の記述が、その出来事をもっともよく代表していることもある。その場にいる参与者もある行動を「最初に」見るのであるから、相互行為分析の前提2にしたがうなら、観察者が参与者にもっとも近い立場にある作業かもしれない。

なお、J&Hには付録Dに実例が示されている(p.55)。これは一例であり、いろいろな書き方があると思うので、各人ケースに応じて好きなように作成すればよい。最低限気をつけなければならないのは、後からその場面を映像の中から見つけ出しやすいマーキングをしておくこと、そしてあまりこだわらないことの二点である。

2.3 グループ作業
多くの場合、映像データを保管し、最初に視聴するのは、その現場に足を運んだ観察者本人であろう。当然その場で起きたことに関する情報の量は、そこにいなかった人間よりも多いはずだし、本人もそうだと思っているかもしれない。2.1で述べたように、こうした知識は相互行為を分析する際のリソースのひとつとなる。しかし同時に、バイアスとなることも念頭に置いておかねばならない。それを避けるためのひとつの方法が、グループでの分析作業である。

紙と鉛筆のフィールドノーツに基づいたエスノグラフィは、ある出来事をなにものかとして「書く」時点ですでに、それ以外を「書かない」実践でもある。つまり、フィールドノーツを二次資料とする者にとっては、書かれたものがどのような状況に置かれていたかを知ることはできないのである。書きたいものしか見ないという「確信バイアスconfirmation bias(Hutchins,1991)」の危険性も指摘される(p.7,P1)。ビデオテープの何度でも再生できるという特徴によって、「生起していた」と記述されることの検証が可能となる。そしてそれができるのは記述した本人以外がビデオを視聴するグループ作業の場においてなのだ。

では、グループ作業の実際の手順はどのようであるか。基本的には映像データを視聴し、それについて参加者がコメントすることによって作業は進行する。J&Hが説明するやり方は以下のようである。

データの保管主がひとり、ビデオテープの走行(再生、早送り…)を操作し、他の参加者はコメントしたいことがあればそこで停止してもらう。次に、停止を申し出た人が映っていた相互行為について仮説を提案する(p.6,P1)。その仮説は映っている映像に基づいて妥当性を議論できるようなものでなければならない。ここでも、あくまでも参与者が相互行為するために利用したリソースは、まさにそれが行なわれている場において観察可能な形でディスプレイされているはずだという前提が適用される。なお、グループ作業をしているあいだにたくさんの仮説がでてくるので、それは後の分析のために録音しておくとよい。グループ作業の場で出されるたいていの疑問は、もう一度フィールドに戻ったり、さらなる調査をするなどしなければ答えられないものだから(p.6,P2)、その場では分からないと潔く認めるべきだ。憶測で答えることほど危険で無駄なものはない。

グループ作業の参加者は、あくまでも映像に基づいて、対象となる人たちの「心の状態」「心の出来事」を語る努力をしなければならない。J&Hが挙げる事例(p.7-8)は、最終的にはノートに同じ答えを書いた4人の学生の会話である。知識のあるなしを議論する際、「そもそもその学生が知識を所有していたか」という問いは無意味だ。この問いは、相互行為分析の前提にしたがえば、このように言い換えられなければならない。すなわち、学生は自分たちの「知識」を相互行為の中でいかにして提示し合っているか。事例では、ひとりが正答を言ったあと、なにもコメントせずにノートに書く作業を続ける者と、何と言ったのか聞き返す者とがいた。後者の行為は答えを「知らない」ものと、参与者にとっても観察者にとっても解釈できる。相互行為分析は動機や意図などを語れないというわけではなく、あくまでも映像に基づいて語るのである。

2.4 ひとりでの作業
グループ作業で録音した議論のなかから、自分の分析に有益な部分をつまみ食いする(p.8,P2)。ここまでの手順は一方向的なものではなく、グループ作業で出されたコメントを検証するために、もう一度フィールドに戻ったり、別の事例についてひとりで検討してみるといったように、行きつ戻りつの道筋をたどる。

さて、観察する過程は何を見たいかに左右されるわけだが、分析を進めていくにつれある程度見るべき場所が絞られてくる。この過程において、何が相互行為のパターンを形成し、何がランダムで、何が不明の原因によるものかを評価しなければならない。こうしてできた仮説は、同じデータにある他の事例にあてはめてみて一般化可能性を確認する必要がある。たいていの場合は、複数のデータをあたって頑健性を確認する(p.8,P3)。ゆえに、相互行為分析とは、複数の経験的観測から一般的なパターンについて述べる、帰納的過程だと言える(p.9,P2)。

J&Hが挙げた分娩室の事例では、そこに電子モニターがある場合、助産師は子宮収縮が起こるとモニターに目をやる、というパターンが一事例から導出できた。それは別の病院や、他の国の病院でも見られた、一貫した行動であったことが分かった。そうでない場合には、それなりの理由が見つけられる。次の段階として、電子モニターを使っていない現場を検討することがある。そこでは、子宮収縮が起こると女性に注意が移っていた。最終的に一般化すると、ハイテク機器がある場合には、参与者の注意は患者ではなく機械の方へ向くという仮説が出された。

2.5 書き起こし
仮説を例証する上で決定的なデータがいくつか集まったら、書き起こし作業の段階に入る。書き起こすべき要素は、例証したい仮説とデータの性質に大きく依存するが(音声だけのデータで動作を書き起こそうとしても無理な話だ)、最低限、参与者名とその発話は欠かせない。関心に応じて、非言語行動や道具の操作について注釈を加えてもよいし、コンピュータを介した相互行為を対象としたなら、コンソールとディスプレイも書き起こしておきたい(p.10,P1)。

ここでひとつ問題になるのは、何をどの程度まで書き起こせばよいのか、ということだ。何かを書くことは別の何かを書かないことだと述べたが、これに過剰に気を取られると、結局何も書けない、あるいは余計なことまで書きすぎるという最悪の事態になる。まず、どのような分析をしたいかをはっきりさせておく必要があるだろう。書き起こしは、出来事の再現などではなく(ビデオすら再現ではない)、仮説を例証するためのデータなのだ。どのような分析にも適用できる、標準化された書き起こし方法などはない。むしろ、目的に照らして、今目の前にある「この」書き起こしがどれほど適切であるかを問うべきである(p.10,P2)。

とは言え、多くの研究者が採用する書き起こしフォーマットがあるにはある。会話分析で多く用いられるのが、Jeffersonのシステムである。詳細は、西阪(1997;2001)を参考にしてほしい。だがこれとても十分なものとは言えないので、p.58からの付録を各自参照してほしい。

書き起こしは、やれば分かるが、大変な作業だ。講演やインタビューなどを専門に書き起こしてくれるトランスクライバーという職業があり、現在ではそうしたところへ下請けに出す研究者もいる。だが、書き起こしをしているうちに新たな仮説や洞察が得られると場合も往々にしてある。せめて学生のうちは、すべて自分で書き起こすようにすることを薦める。しかしやはり大変な作業であることには変わりない。J&Hは、必要な部分はとにかく細かく、その他は必要な分だけ書き起こすことにしたという(p.11,P1)。

現在では、コンピュータの高速大容量化にともない、ビデオ編集から書き起こしに至るすべての作業をコンピュータ上で行うことが当たり前になってきた。10分程度の映像なら、速度の遅いノートブック型コンピュータでもそれほど支障なく再生できる。音声のみならば30分程度は記録できるだろう。後の処理を考えると、はじめから電子テクストで起こした方がよい。現在、書き起こしを補助してくれるソフトウェアとして「SndPlay」、「おこしやす」などがある。これらを有効に活用すれば、多少は作業の負担を低減できるだろう。

2.6 ビデオ・レビュー
撮影した映像を、そこに映っている参与者自身に見せるという方法が、ビデオレビューである。ビューイング・セッションなどとも呼ばれ(Erickson&Schultz,1997)、固定した名称はないと思われる。

そのときの視点や意識していることを参与者に発話させる方法が、ヴントらによって内観法として初期の心理学研究に用いられたことは有名である。行動主義から新行動主義(現在の認知心理学もここに含まれてしまう)にかけて、内観法は廃れてしまったわけだが、それは研究の対象を第三者が客観的に観察できるものに制限したからだ。その後、認知心理学にもいわゆるプロトコル分析(被験者に作業をさせながら注意の移り変わりなどをその都度報告してもらい、その発話を分析対象とする分析手法、海保・原田(1993)に詳しい)が導入された。ビデオ・レビューの場合は、かつてその人が行ったことについて説明してもらう点が、内観法やプロトコル分析と異なるところでもある。

グループや個人での作業においては、特に動作の分析には顕著であるが、出来事に対してエティックeticな見方がなされる。たとえば、相互行為の最中に右腕を挙げたとき、観察者の記述は「右腕を上に持ち上げる」というレベルにとどまる。一方、行為の当事者は右腕を挙げた場面を見て、「ああ、このときは右脇がかゆかったから、掻くのに腕を上げたんだ」と説明するかもしれない。この記述には、腕を上げたことになんらかの意味を付与しようという態度があるようだ。こちらは人類学的に言えばイーミックemicな見方である。ちなみに、eticとはphon"etic"、emicとはphon"emic"に由来することばである(p.11,fn.16)。

重要なのは、当事者による説明が事実だとは考えてはいけないということだ。過去の出来事について、そのときの意図を忘れているからとかそういうことではない。そもそも、内観法やプロトコル分析にも言えることだが、その発話はあくまでも研究者に向けた「説明」として、その場その場で構成されているのである。

ビデオを用いない単純なインタビュー形式によって、対象としたい出来事を想起してもらうということもあろう。当事者の発話は、ビデオを用いようが用いまいが、基本的に研究者が仮説を例証するためのひとつのリソースに過ぎないのである。ただ、ビデオを視聴することが、当事者と観察者の両者にとって、「過去の出来事を語る」という活動を進める上で効果的なリソースとなりえており、そういうものとしてビューイング・セッションを理解するべきである。

具体的な作業であるが、研究チームに当事者を呼び視聴セッションに参加してもらうか、あるいはフィールドに赴いてインタビューをしながらビデオを見てもらう。当事者が重要だと思うところでテープ走行を止めさせる方法をとる研究者もいる。この方法だと、当事者が出来事の何に意味を見ているのか追うことができる。さらに、分析する人間には分からない、当事者が何をリソースとしたかを知ることもできる。たとえば、医者と患者とが診察している場面をそれぞれに見せると、テープを止めた箇所は同じだったにもかかわらず「なぜ」止めたのかという理由の説明は異なっていたという例をJ&Hは出している(p.12,P1)。


3.0 なんでビデオなの?

どういうとき、ビデオを用いた相互行為分析を採用すればよいのか?厳格な基準があるわけではないが、J&Hは自分たちの経験から3つを挙げている。

3.1 出来事の再構成
出来事の参与者が行う、自分たちの行為についての説明と、実際の行為とがずれているようなときに、相互行為分析を採用すると効果的だ。ひとびとの語ることはあくまでも行為についての「説明」である(2.6の議論を参照)。実際に起きていたことに関心がある者にとっては、映像がなによりのデータである。

われわれは何かを見るとき、必ずそこになんらかの「物語」を見ている。他者の行為についても、バラバラの動作の連続ではなく、意味(あるいは、意図)を背後に含む行為として解釈しながら見ている。したがって、フィールドノーツとして直接観察した出来事のデータを作ったとしても、そこには「物語」が混入するのである。もちろん、映像を見てそこから解釈するときにもそうした物語の混入はあるはずだ。しかし、より現象に近いものを解釈の対象としたい、そうした研究者にとってビデオを用いた相互行為分析はふさわしい(p.13,P1)。

3.2 一次データの保存
一次データを何度でも見られることも、ビデオの有利な点である。複数の研究者で共有したり、協同作業したりできるほか、早送り・コマ送りも可能である。これによって、分析を修正できるし、より深い分析も可能になる(p.14,P1)。

3.3 相互行為の複雑さ
ビデオの威力がもっとも発揮されるのは、大勢の人間が同時に立ち働く場面を分析するときである。たとえば、職場や教室など、さまざまな社会・制度的場面には、たいていの場合二人以上の参与者がいる。ビデオを使わずに、かれらの行動を追うことはほぼ不可能であろう(p.14,P2)。

また、動作そのものが複雑であること、それを記述する言語を持たないことも、ビデオが必要な理由である(p.15,P1)。


4.0 ビデオと現実

ここまで、ビデオを用いることの利点を述べてきた。しかし、ビデオを採用したことによる制約があることにも自覚的でなければならない。紙と鉛筆によるフィールドノーツに出来事のすべてを書ききる能力がないと言うならば、ビデオカメラも現象のすべてを映し撮る能力はないのだ。あくまでも相対的な違いに過ぎない。むしろ、ビデオカメラというテクノロジーだからこその制約もまたある。

4.0および5.0ではこうしたビデオカメラ使用の欠点あるいは制約について述べる。利点と同時に欠点をおさえておくことが、テクノロジー使用には肝要なことだと思う。

4.1 人的制約
カメラをある方向に向ける、という作業は、別の方向には向けないということを意味する。これは、フィールドノーツによる記述で指摘したことと本質的に同じことだ。見ようとしていることが現象の記録に決定的な影響を及ぼすのである。重要なことは、現象の「すべて」を記録しようなどと、はじめから気負わないことだ。われわれにできることは(ビデオというテクノロジーをもってしても!)、とりあえず得られたデータから何が言えるか、これに焦点を合わせることのみなのである。

とは言え、そうした仮説を例証するための証拠は多い方がよいことは確かだ。カメラを操作する人間のバイアスを抑えるためにJ&Hが提案するのは、たとえば、フィールドノートをつける、固定カメラにする、カメラを2台にする、同時にテレコで録音するなどして、情報を落とさない工夫である(p.15-6)。

カメラをどこに向けるかが操作者のバイアスを示すひとつの証拠だと、ポジティブに考えてもよい、J&Hはそう述べる。彼女らが挙げる分娩室の事例では、出産の際に生まれてくる赤ちゃんをカメラで映していたために、母親と看護婦のやりとりは映せなかったという。しかしこれは、どうしても赤ちゃんを見てしまうという文化的バイアスの存在を示すひとつの証拠となるのではないか。同様なことは発達研究にも応用できそうだ。たとえば、子どもにカメラ(スチール、ムービーいずれも)を渡し、遊び場面を撮らせるといった方法が可能かもしれない。遊び場の風景を子どもがどのように見ているのか、かれらなりの世界の切り取り方が映像に反映されているかもしれないのだ。

4.2 技術的制約
通常のビデオ機器は、あくまでも映像と音声を記録するために作られた道具である。そのため、状況を構成するいくつかの要素、たとえばその場の匂いや温度、物の肌触り、人の気配を記録することはできない。温度を測定したい場合はサーモトレーサーで撮影されたサーモグラフィを見ればよい。だが、何より高価であるし動き回る対象には適用しづらい面があるので現実的ではない。結局、視覚・聴覚以外の情報については、フィールドノーツなど補助的手段で記録しておくのが、現在もっとも妥当な方法だろう。どんなにいい機材を使っても、すべてを満足させることはできない、このことを自覚すべきである。

もう一点の注意として、逆説的だが、ビデオはすべてを映してしまい過ぎる、ということがある。相互行為分析において知りたいことは、あくまでもある参与者の振る舞いを明らかにすることだ。具体的には、参与者がその場の何をリソースとして用いつつ行為したかが分かればよいのだが、ビデオにはそうしたリソース候補がふんだんに映りこむ。たとえば、夢中になって仕事をしている参与者や、パーティションを挟んで座る参与者など、その場で起きていたことのすべてをリソースにはできない場合が考えられる。しかしビデオは、パーティションを挟む二人の参与者を同時に映すことができる。観察者はこのようにしてある状況を特権的に俯瞰することができるが、その視点を参与者の視点と混同することはあってはならない(p.16,P3)。


5.0 カメラ効果

多くのフィールドワーカーが抱える問題が、このカメラ効果である。参与者にしてみれば、見張られている、悪く言えば監視されているという感想をもらしてもおかしくはない。デリケートな制度的状況、たとえば病院や障害者施設にカメラを持ち込むときにはしばしば現場にいる人たちからの拒否の態度がともなうし、法廷や取調室などはじめから撮影が許されていない場もある。

本当に参与者はカメラを意識しているのか?確かに、撮影開始時にはカメラから背を向けて動く、あるいは逆にカメラの方に頻繁に視線を向けるといった行動が観察される場合がある。これはカメラ効果のひとつだろう(p.17,P1)。

しかし、時間が経過するにつれ、カメラの存在に慣れることもある。このことは、カメラを固定させた場合、最低でもファインダーの後ろに撮影者がいない場合にはだいたいあてはまる。カメラが参与者にとってインテリアの一部となってしまえば、それほど特別に意識されることはないのだろう。その意味で、もしも参与者が限られた空間のなかで活動するなら、三脚や壁にカメラを据え付けた撮影は非常に有効である。広角レンズなどを用いてなるべく参与者の動きそうな空間全体がファインダーに収まるようにしておく。活動時はずっと録画状態にしておいて、観察者はその間、フィールドノーツで記録したり、もう一台カメラを用意し、固定カメラではフォローできない細かな作業などを録画したりするのがよい。

カメラが与える影響は、結局、研究者が研究の目的に照らして臨機応変に考慮すべき問題である。無視してもいけないし、慎重になりすぎても意味がない。結局、どのような記録方法でも、その場に研究者が赴いてデータを収集する以上、それはすでに場の相互行為の中に組み入れられているのだから、出来事に与える影響を避けることは不可能である。重要なのは、こうしたことをふまえた上で分析や解釈をすすめることなのだ(p.19,P2)。


6.0 分析の焦点

本節のタイトルに、なぜ「焦点」という単語が用いられているのかを説明しておく。J&Hは、たとえば分析の「カテゴリー」という単語を用いてもよかった。しかしそうしなかったのは、この単語(カテゴリー)には、次のような含意が読み取られるからである。

たとえば、心理学の実験においては、被験者の行動は実験者の観察によって、あらかじめ設定されたいくつかのカテゴリー(正解・エラーなど)に落とされた後、分析がなされる。これにしたがえば、被験者の行動について、その意味を決定するのは、(いかに分析カテゴリーの妥当性が保証されようとも)実験者である。このように、J&Hはカテゴリーということばに、相互行為する当の本人の意味世界を無視した、研究者による(ことばは悪いが、勝手な)意味づけ作業を見て取ったのだろう。

しかし、ウィトゲンシュタインを援用しながら、ハロルド・ガーフィンケル(1964/89)が述べたように、実験の被験者が用いる記号の用法は、かれ自身がしたがう「言語ゲーム」内において合理的なのである。したがって、実験者と被験者の各言語ゲームが共通している保証がない以上、実験者が用意する分析のカテゴリーに被験者がいかにしてしたがっていたのか、は問題として立ち得ない。あくまでも被験者自身の用いるカテゴリーは何か、がエスノメソドロジーの問題である。

J&Hが用いている「焦点」ということばは、まずもって、相互行為する人びとが行為の手がかりとして用いていることがらを指している。つまり、人びとが世界を見る焦点のことだ。そして、この焦点は相互行為に参加する人びとに観察可能である限りにおいて、観察者にも観察可能となる。ゆえに、観察者にとっても分析の焦点となりうるのである。

以下、この意味における「焦点」として、「出来事の構造」「活動の時間的組織化」「ターンテイキング」「参加構造」「トラブルと修復」「活動の空間的組織化」「アーティファクトとドキュメント」の7項目について概観していく。もちろん焦点はここで挙げられたものに限られるわけではない。ぜひとも自分自身の焦点を今後の分析を通して発見してほしい。

6.1 出来事の構造
人間の運動は連続していて切れ目などない。しかしわれわれは動作に対して文脈に応じたなんらかの名付けをすることによって、未分化な連続を秩序立てられた非連続に変えている。それがわれわれの持つ、時間という感覚であろう。

相互行為を枠付ける時間感覚について、Erickson&Shultz(1982)はカイロスとクロノスの二種類を区別している(pp.72-3)。カイロスとは「さっきでも、次でもなく、まさに今」のように指示される時間感覚であり、相互行為の時系列的な順序性を説明するのに適した語である。一方クロノスとは時計で計られるような時間のことを指すが、これは相互行為に潜むリズムや周期性を示すのに用いられる。このようにErickson&Shultz(1982)は、どちらの道具立ても相互行為分析には必要だと述べた。

J&Hが本節と次節で述べるのは、Erickson&Shultz(1982)が指摘したような相互行為における時間的な順序性と周期性についてなのだが、これらふたつの時間感覚が検知する非連続なまとまりには、相対的に大きなものと小さなものとがありそうだ。相対的に大きなものうち、この6章1節では「出来事event」と呼ばれる単位に焦点が合わせられる。

相互行為する者が意味ある単位と見なし、またそれが意味ある単位として流通する相互行為のまとまり、それが出来事である。食事ということ、食卓をしつらえるということ、食べ物を口に入れるということ…、いずれも出来事であるが、これらの間には連鎖的な関係や階層的な関係、入れ子の関係などさまざまある。重要なことは、本章冒頭で述べたように、出来事は相互行為の参与者にとって意味ある単位だということだ。J&Hによれば、参与者が容易に同定できる行動の単位は「エスノグラフィック・チャンク」と呼ばれる。これを同定する作業が分析への最初の段階であり、実際われわれはすでに映像データから目次ログを作る際にこの作業を通過しているのだ。

さて、具体的な手順としてJ&HはBamberger&Schon(1991 ※oにはウムラウト有)の議論を引用する。かれらはまず、書き起こしに基づいて「なにか新しいこと」が起きた時点にしるしをつけていったのだが、この段階では区切る基準を考えない。つまり直感にたよる。分節の基準をはっきりとした形で書きつけるのは次の段階での作業となるという。あくまでも参与者にとって意味ある単位を出来事と呼ぶので、エスノグラフィック・チャンクを同定するには、その文化の知識が当然ながら必要となる。そのためには、入念にフィールドワークするか、グループ作業するのがよいだろう。

6.1.1 開始と終了
観察者が単位を同定する上でもっとも有力な基準となるのは開始点と終了点の確定であり、それらに挟まれた間になんらかの名付けをすれば出来事となる。たとえば食事という出来事を開始するには、公式的には「いただきます」といった挨拶が、非公式的には最初の一口を成立させる箸の把持が必要である。同様に、「ごちそうさま」や食器の片づけが終了点をわれわれに示す。

ここで、公式的な開始や終了を宣言することと、相互行為のなかである出来事が始まったり終わったりしたと見なされることとは、一致する必然はない。「いただきます」と言った後で、実際に食べなくてもよいのである。ただし、その場に居合わせた者からすれば、これは奇妙であるだろう。また、「いただきます」ということばには他者からの「はい、どうぞ」という応答や、あるいは他者も同時に宣言するといった、それが開始の宣言であることの認証が伴われることもある。このとき、もしも「はい、どうぞ」という応答がなければ、食べ始めにくくなるかもしれない。

つまり、「いただきます」と宣言したとしても、それによって食事という出来事が自動的に動き出すわけではないのだ。

6.1.2 分節化
連続する時間の流れをあるまとまりに分節化することsegmentationは、相互行為の参与者が実際にしていることだという見方は、くどいけれども相互行為分析の前提から導かれる必然である。もちろんそうした分節化作業も相互交渉されなければならない。この交渉過程で用いられる、分節化を知らせ合うための手続きやリソースを明示化することが、観察者の実際の作業目標となる。

食事場面の例を続けよう。食事という出来事は、(料理を作る)、お膳を揃える、開始宣言、摂食、終了宣言、(片づけ)という下位の出来事に分節化できそうだ。しかし参与者はこの手順にしたがっているのではなく、これをひとつの図式として用いている。これが相互行為分析の採用する見方だ。同様に、身体動作やその空間的配置(たとえば、視線など)や、さまざまなアーティファクト(物を片づけるなど)も、出来事の区切りを交渉する際のリソースとなりうる。また、これらは観察者が分析に用いる焦点でもあるのだ。

もちろん、分節化の交渉がうまく達成されない場合もあるだろう。しかし、それを「トラブル」と見なすためには、同時に、出来事としての全体性を修復するためには、やはりさきほどのようなリソースが用いられるのである。そして、分節化の失敗あるいは成功によって、リソースを共有する実践コミュニティのメンバーシップであることもお互いに可視化される。

6.2 活動の時間的組織化
6.2.1 マクロレベルでの構造
ここで言うマクロレベルでの時間構造には、たとえば1年を単位とする周期(季節、移住など)から、カレンダーに書き込まれたスケジュール、学校や職場の1日の構成するプログラムなどが含まれる。

マクロレベルでの時間構造に研究の焦点を当ててきたのは、従来は社会学者だったという。かれらがあくまでもマクロをマクロとして扱うのに対し、相互行為分析におけるマクロとは、瞬間瞬間において達成されるものとしてのマクロ、あるいは行為を秩序づける際のリソースとしてのマクロである。たとえば学校での時間割を考えてみよう。当然ながら時間割という概念それ自体に、時間を割る能力はない。しかしわれわれは、時間割を目に見える形に表し(紙に書かれた表やチャイムにより)、そこに行為の体系づけに用いるべきリソースとしての正統性を見いだす。もちろんこの正統性も社会的な交渉において確認されるものである。通常の社会学がマクロのマクロ性を前提として議論を進めるとすれば、相互行為分析においてはそれが成立するための要件を微視的な行為のうちに発見しようとするのだ。俗に言うマクロ-ミクロの接合は、相互行為分析においては以上のようにしてなされる。

マクロレベルでの時間の秩序は、ある特定の出来事が特定の時刻に起こるように調整する参与者の振る舞いとして観察される。こうした調整を参与者自身がどう経験し、どう可視化しているのかが具体的な問題となるのだ。

6.2.2 リズムと周期性
人間活動におけるリズムと周期性には多様なレベルが見られるし、また多様なリソースによって構成されている。物理的、生理的なレベルでも、制度的なレベルにおいても、周期性は構成されている。

もちろん、周期性の同定には連続する時間に区切りを入れる、すなわち分節化(6.1.2を参照)というわれわれの実践が前提とされる。周期性を問題とする場合には、実践上の前提がもうひとつ必要となる。二度と同じことは起こらないはずなのに「同じこと」が反復すると見なす、そういう実践である。たとえばJ&Hが挙げる例では、赤ちゃんがスプーンを口に運ぶ動作にたいして、「食べる」ことの反復か、それとも「(スプーンを)もてあそぶ」動作へ切り替わったのか、両親が評価していた。このように、本節で挙げる他の焦点と同様、物理・生理的レベルであったとしても、周期性には意味の社会的な交渉過程が分かちがたく含まれているのだと言える。

周期性の事実とは、確認したように、交渉されなければならない。交渉過程は、反復される「同じこと」の同定と、ある具体的な行為をその「同じこと」のカテゴリーに含めるかどうかの判断から成るだろう。同定と判断から成るこの過程から、次に何が「同じこと」として出現するかの予期が生じる。すなわち、反復される「同じこと」とは、交渉を通じて構成されるはずの何かであると同時に、それを用いて自らの行為を導くリソースでもあるだろう。

周期性として概念化することにより、出来事と出来事の「あいだ」という一種の出来事に焦点をあてることができる。忙しい時間帯に対する暇な時間帯、授業中に対する休み時間などは典型的な「あいだ」である。しかし一方で、この出来事とあいだの関係はそれほど明瞭でもなく、あいだを構成すると一般には考えられる行為が出来事のなかに侵入しつつも、さもその出来事が進行中であるかのように振る舞うといった事態がありうる、このようにJ&Hは指摘している。たとえば、授業中に机の下で漫画を読みふける生徒の事例がそれである。このことも、周期性が社会的に構成されていることから理解することができよう。

活動の周期性は実践への参加過程へも密接に関与している。J&Hが指摘するように、新参者が実践についてかれらなりの意味を形成する際に、周期性は知らねばならない対象でもあるし、自らを実践のメンバーとしてディスプレイするための有効なリソースでもある。また、先述した「あいだ」は、実践への直接的な関与から離れて、熟練者が新参者に指導することを可能にする。

以上見てきたように、活動の時間的な組織化過程は相互行為分析の重要な焦点となりうる。Erickson&Shultz(1977)が指摘したように、時間とはひとつの文脈(When is context)である。つまり、行為の適切さは、今がどのような時間なのか、およびいつそれを行うべきかという、ふたつの意味で時間に依存する。この点で、われわれの行為において構成されつつそれを枠づける時間は相互行為分析の焦点である。

6.3 ターン・テイキング(順番取り)
1978年、雑誌Languageに1本の論文が載った。A simplest systematics for the organization of turn taking for conversationというタイトル、著者はハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンの三人である。この論文を皮切りに、一見無秩序に流れるだけのような日常会話に、科学の対象としての地位が与えられた。ここでターンとは、会話の場において発話する番を指す。Aさんが話し、次にBさんが話す。この意味での「番」である。サックスらが提起した問いは、会話において発話の順番はいかにして決められていくのか、というものであった。通常の日常会話では、こうした発話順があらかじめ決まっていることはない。また、たとえば式次第のような形式であらかじめ「決まっていた」としても、ここまでの議論をふまえれば分かるように、式次第自体は相互行為を導く上でのリソースに過ぎず、いかにして式次第を実行するかという問題はまた別に立てられなくてはならない。

さてサックスらが提起した、発話の順番取りが可能になるためのシステムとは以下のような要件から構成される(以下は、高原・林・林(2002)pp.136-7からの引用)。

1 話し手はターンを交替でとり、その交替は繰り返される。そして少なくともターンの交替は発生する。
2 一方の話し手だけが圧倒的な頻度で話すことがある。
3 2人以上の話し手が同時に話すこともあるが、そのような同時発話は長く続かない。
4 1つのターンから次のターンに移動するときは普通ギャップやオーバーラップが伴わない。たとえ、わずかなギャップやオーバーラップがあっても大抵は問題なくターンが移行する。
5 ターンをとる順番は多様で決まっていない。
6 ターンを持つ長さは多様で決まっていない。
7 ターンにおける発話の長さは前もって決められていない。
8 会話者が話すことは前もって決められていない。
9 ターンの割り当ては前もって決められていない。
10 会話への参加者数は変化する。
11 ターンにおけるトークは切れ目なく続くこともあれば、中断することもある。
12 ターンの割り当てには、決まったテクニックが使われる。
13 「ターン構成ユニット」の長さは1語の場合もあれば、文の場合もあり、その長さは多様である。

このうち、12に登場するターンを割り当てるテクニックとは以下のようなものである。

(1)最初のターン構成ユニットのターン交替には次のシステムが働く。
 a ターンを持っている話し手が次の話者を選ぶ場合は、選ばれたその話者だけがターンを取る義務と権利を持つ。
 b ターンを持っている話し手が次の話者を選ばない場合には、その話し手以外の会話の参加者全員が自分から次の話しのターンを取る権利をもち、最初に話し始めた者がターンを保持する権利がある。
 c ターンを持っている話し手が次の話し手を選ばず、かつ、会話の参加者のなかに次のターンを取る者がいない場合には、現在ターンを持っている話し手がターンを持続することができる。
(2)最初のターン構成ユニットのターン交替においてcが作動する場合には、その次のターン交替に再びa~cが適用され、それ以降もターン交替にはその適用が繰り返される。

注意したいのは、上記前半の12項目は現象の観察から得られた一般的な結論である一方で、後半の2項目は「一度にひとりが話し、話者は交替しうる」という現象が成立するための条件だという違いである。実は後者は現象だけをいくら見ていても、帰納的作業によっては抽出し得ない。現象から得られるのは、前半12項目のように、会話の多様性だけだ。多様を作り出しうる原理的なものを見つけようとしたのが、サックスらのこの論文の主眼なのである。

さてJ&Hの議論に入ろう。相互行為分析の場合、順番取りは発話のみならず、非言語的な行為の交替としても観察される。ジョーダンは、発話、非言語行為、道具使用などすべてを順番取りを構成する要素ととらえた上で、相互行為を活動を媒介するものの別によってふたつのカテゴリーに分けている。ひとつは、言語が主要な媒介物となる相互行為で、「会話型相互行為talk-driven interaction」と呼ばれる。たとえば、インタビューや会議などがそれである。もうひとつは、道具を主要な媒介物として達成されるもので「道具型相互行為instrumental interaction」と呼ばれる。外科手術や宿題などがそれだ。むろん、あらゆる相互行為には発話、動作、道具のすべてが用いられているのだが、何が中心的な媒介物かによって分けているのである。

この区別、特に道具型相互行為というカテゴリーは、多様なテクノロジーを媒介として成立する仕事場などの分析には有効だろう。たとえばJ&Hはこうした場合における順番取りの特徴として次のような現象を指摘する。発話によるターンの次に非言語的行為によるターンが伴われることが多い(Aさん「スイッチを押してください」→Bさん、無言でスイッチを押す、など。行為→発話の順もある)。相互行為のトピックが会話型よりも長く維持される。沈黙の時間帯が長くなる。進行中の相互行為が道具によって中断させられる(電話、故障など)、など。

ある特定の役割を担う参与者が順番を管理する状況もある。会議における司会、授業における教師などがそうした役割に含まれる。特に、生徒の話す順番を決定する、すなわちフロア(発言権)を配分する教師の役割について多くの文献で指摘されている。注意したいのはフロア配分はあくまでも分配者とそれに従う者との相互的な達成だという点である。フロア分配者としての役割を、そもそもある具体的な人物が担っているわけではない。「教師」という役割が「生徒」との関係のなかで相対的に規定され、そうした実践に共同で参与する状況が成立して初めて、「教師」になった人物がフロアを配分することが適切となるのだ。教職員の会議など、授業ではフロアを管理していた同じ人物が、今度は司会者-参加者という新たな役割関係の下に自らを置くことによって、勝手にフロア配分者という役を獲得することはできない、こうした事態を想像すればよい。

6.4 参加構造
本節でJ&Hは参加構造participation structureに触れている。参加構造とは、「相互行為の場で動的に展開する、参与者の関与のしかたの全体的な配置」のことである。たとえば、教室を考えてみればよいだろう。授業という実践においては、ある者に話す権利が与えられる、このことはすでに前節で触れた。同時にこのとき、話者以外にはそれを聞く義務がある。ここで義務とは、実際には聞いていなくても、少なくとも聞く態度をディスプレイしていなければならない、ということを指す。話す権利を有する者と、聞く義務を負う者とは、同時に、しかも相対的に決定される。「全体的な配置」が指すところはここである。

J&Hによれば、参加構造にはある活動に関与するかしないかという問題も含まれる。「全体的な配置」がどこまで広がりを持つのかという問題である。かれらが提示した事例では、分娩室というひとつの部屋に、ふたつの参加構造が観察された。ひとつは出産を控えた女性とその夫、もうひとつは医者や看護婦などのスタッフである。構造間の境界は、会話の相手に誰が選択されるか、少し広く言えば相互行為の相手として誰が志向されるかとして可視化される。この境界は互いに入り込んだ関係にもある。医者たちの参加構造のなかに妊婦が位置づいているのは確かだが、相互行為の相手としてではなく、あくまでも医者たちが相互行為によって解決すべき課題としての位置にあるのだ。

このように、観察した範囲で、同時に複数の参加構造が生起することは往々にしてある。このとき、参与者がいずれにも相互行為の相手として参加できる場合もあれば、そうでない場合もある。また、人間同士が空間的に近接していなくても参加構造が成立する場合もある。たとえば電話を介したコミュニケーションが典型的な事態だろう。

相互行為分析の関心は、以上のような参加構造の形成と維持、あるいはそれらの横断を、参与者がいかにしておこなっているのか、という点である。

6.5 トラブルと修復
実践の円滑な遂行が妨げられる経験がトラブルである。だが行為自体はトラブルのあいだも途切れなく進行している。あくまでもトラブルとは参与者がある現象をそれとして意味づけることで可視化される出来事である。トラブルが相互行為分析の焦点となるのは、それを修復repairする過程から、ひとびとが行為を組織化する際の暗黙のルールや用いられていたリソースが見えるからだ。

現象としてのトラブルはさまざまな形態を取る。参与者がしばらく沈黙してしまったり、似た行為を繰り返したり、物理的にコンピュータが操作不能になったりと、いずれもトラブルと目される出来事である。このように相互行為分析では言語的なトラブルのみならず、非言語的な側面でのそれも対象となる。そこには、すぐに修復されるために多くの場合気づかれないものも、なかなか修復されずに強く自覚されるものもある。

一般にはトラブルとは見なされないが、同様に、行為を組織化するのに日常用いられるルールとリソースを明らかにする出来事として、新参者の参入事態がある。たとえば新入園児が園のさまざまな慣習と出会ったとき、何にとまどい、何にとまどわないかは、園独自の慣習が何かを明らかにするだろう。

6.6 活動の空間的組織化
時間を組織化していたように(6.1~6.2を参照)、われわれは活動のなかで空間も組織化していると言える。ここで組織化されるものには、たとえば身体間の距離や(いわゆるパーソナル・スペース)姿勢といったことがある。

J&Hはいくつかの論点を挙げている。たとえば、航空管制室ではワークステーションという不動のアーティファクトを中心に身体的配置が規定されている(逆に、動かすことのできるアーティファクトなら、そちらを移動させて人間の配置は変えないということがあり得るだろう)。また、空間そのものに相互行為する上でリソースとなりやすい場所とそうでもない場所があるようだ。上座-下座やお誕生日席として指示される空間がそれである。これら空間的リソースが制度的な構造や権力関係と密接に関係することも指摘されている。仕事場において監督的な立場にいる者は、その場全体を見渡せるような空間を占めることが多いのもその現れである。こうした空間的な位置取りが慣習化し、無標化されているとき、通常はその位置に立つことの期待されていない人間がその場所を占めると、有標化された行為としてきわめて目立つこととなる。やや散漫に羅列してきたが、いずれの空間的側面も相互行為を導くリソースであるとともに、相互行為のなかで調整されるべき対象なのだ。

人間同士の身体的配置が相互行為分析においていかに取り上げられてきたかもう少し見てみよう。二人の人間が同じ活動に関与するとき、姿勢の向きが行為を方向付けることがある。横に並行して並んだり、正面から向かいあったり、一方の後ろに回り込んだりするだろう。こうした配置が、食事、カウンセリング、教育的指導といったさまざまな活動に応じて使い分けられ、調整されているのだ。

自由に動くことのできる領域は不動のアーティファクトによっても決まるが(ふたつの物体が同時に同じ場所を占めることはできないという制約による)、その出来事がどのようなものかによっても規定されている。熱心に議論する会議室に堂々と入っていくことができるだろうか?授業中に生徒が各自の机を離れて歩けるだろうか?もちろん、原理としては可能であろうが、出来事を構成しつつ確認する相互行為の過程においては、すぐさま逸脱行為として顕在化するはずである。これを逆に捉えると、何が人間の活動を阻害しているのかという問題が立ちうる。たとえば、教室に置かれた机の配置が、実は活発な議論の生起を抑制しているのかもしれない。

相互行為分析は空間的な物理的配置がどの程度固定的で、どの程度参与者の自由になるのかを検討する。また、このような制約がいかにして参与者の行為に影響し、どのように実際の行為で交渉されているのかを検討する。J&Hはこのように述べた。

6.7 アーティファクトとドキュメント
ここまでの議論でもたびたび指摘されていたが、われわれの環境にはわれわれ自身が作り出したアーティファクトが満ちあふれている。これらモノそれ自体を、活動に関与する一種の行為者としてとらえるのも相互行為分析のひとつの特徴であろう。また、相互行為分析とは関係がないが、同じ発想を共有するフランスの科学社会学者であるラトゥールやカロンが提起するアクター・ネット理論は、顕微鏡や細菌といったモノも人間と同様のアクターとしてとらえ、意味の社会的ネットワークにそれらが入り込む過程を明らかにしようとしている。

アーティファクトと活動との関係は相互行為分析の焦点のひとつだが、われわれの環境には実に多様なアーティファクトが同時に存在するため、まず何が活動と関連しているのかを同定する作業が必要となってくる。机とイスがあるからといって、それが授業中のある相互行為に関連したアーティファクトだということにはならない。同定するためにJ&Hが提起するひとつのポイントは、新しいアーティファクトが活動に導入される事態に注目することである。その上で、活動がどのような変遷をたどるか、どのような場面でアーティファクトが用いられるか、誰が使うか、どのように配分されるか、いかにして相互行為が構築されるか、といったことを問いとすればよい。

気をつけたい点は、アーティファクトの機能はひととおりではない、ということである。たとえば会議に持ち込まれた書類の主要な機能は情報を提示することであろうが、それ以外にも多様な機能を果たす。暑ければそれで顔を扇ぐことができるし、紙を揃える動作は会議の終了を合図する。また、アーティファクトの象徴的な機能にも注意しておくべきだろう。J&Hが例示するように、聴診器の機能は第一に心音を聞くことだが、それを首にかけていることが医者という役割の象徴となる場合がある。

相互行為を規定するアーティファクトの機能に関してJ&Hが特に注目を促すのは、所有と配分の問題である。ある道具を所有すると見なされる役割、ある道具を使ってよいと見なされる役割、ある道具の改変をしてよいと見なされる役割など、アーティファクトをめぐる社会的関係性は相互行為を規定する。また、黒板やモニターなど、パブリックな位置にあるアーティファクトは、複数の参与者が同時に参照することをアフォードするが、ここからいかにして参与者間で注意の焦点を交渉し共有するかという相互行為上の問題が生まれる。

アーティファクトはあらゆる相互行為に関与する。それ抜きの分析は不可能であろう。このことを常に念頭に置かねばならない。


7.0 結論

J&Hが論文を出版した1994年から20年が経とうとしている。その間、このアプローチにどのような進展があっただろうか?実はなにも変わっていないようにも思われるのだ。もちろん、ビデオを担いでフィールドに赴く研究者やひとびとの相互行為に関心を持つ研究者の数は着実に増えている。日本でもいくつかの自主的な研究会が開催されるようになった。

最後に、もう一度確認しておきたいが、ビデオを活用した相互行為分析には、精神や行為や世界に向けられた独特の観点がまとわりついている。これを無視した研究をしても無駄である。認識論と方法論は密接に結びついているのだ。


文献

Condon, W. S., and Sander, L 1974 Synchrony Demonstrated between Movements of the Neonate and Adult Speech. Child Development, 45, 456-462.
Erickson, F., and Schultz, J. 1977 When is a context?:Some issues and methods in the analysis of social competence. Quarterly Newsletters of the Institute for Comparative Human Development, 1(2), 5-10.
Erickson, F. and Shultz, J. 1982 The counselor as gatekeeper: social interaction in interviews.New York : Academic Press.
Garfinkel, H. 1964 Studies in the routine grounds of everyday activities. Social Problems, 11, 225-250.(北澤裕・西阪仰訳 1989 日常活動の基盤:当たり前を見る 日常性の解剖学:知と会話 マルジュ社 pp.31-92.)
海保博之・原田悦子(編) 1993 プロトコル分析入門:発話データから何を読むか 新曜社
串田秀也 1997 ユニゾンにおける伝達と交感:会話における「著作権」の記述をめざして 谷 泰(編) コミュニケーションの自然誌 新曜社 Pp.249-294.
西阪仰 1997 相互行為分析という視点:文化と心の社会学的記述 金子書房
西阪仰 2001 心と行為:エスノメソドロジーの視点 岩波書店
Psathas, G. 1990 Appendix: transcription symbols. In G. Psathas (Ed.), Interaction competence. Washington D. C. : University Press of America. pp.297-307.
Sacks, H., Schegloff, E. A., and Jefferson, G. 1974 A simplest systematics for the organization of turn-taking for conversation. Language, 50, 696-735.
高原脩・林宅男・林礼子 2002 プラグマティックスの展開 勁草書房

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調査ひとくぎり

dun (2012年3月23日 18:52)|コメント(0)| トラックバック(0)

今日は全道的に学校の修了式・離任式だった。

それが終わった頃を見計らって,調査でご協力をいただいていた小学校へ。3年計画の最終年度が終わるので,これまでのお礼と今後のことを校長先生にお伝えする。調査については,とても好意的に受け止めていただいていて,過分なお言葉を頂戴し,かえって恐縮する。

個人的報告をすると,いたく喜んでいただいた。まったく身が引き締まる思い。

お世話になった先生の中には,この3月でよその学校に異動される方もいる。調査の初期から関わってくださったお二人の先生には丁重にお礼をお伝えした。

これで調査はひとくぎり。残ったデータの分析に取りかかるとともに,4月から今度は学校の研究にもう少し深くくいこんでいく。がんばろう。

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協働の場において何を作り出すか(2)

dun (2012年3月 5日 09:58)|コメント(0)| トラックバック(0)

研究者は、新しい概念や説明体系を構築する上で、「たとえ」に強く依存しています。例を挙げましょう。私が片足をつっこんでいる研究領域に、「学習」があります。ある研究者は、それまで行われてきた学習についての研究の背後には大きく分けて2つの「たとえ」があったと指摘しています。1つが「学習とは何かを獲得することである」というたとえ、もう1つが「学習とは何者かとしてどこかに参加することである」というたとえです。

第一のたとえ。多くの人は、「学習とは何かを獲得することである」というのはたとえではなく、学習そのものではないかと反論するかもしれません。しかし考えてみてください。学習とは実に複雑な出来事で、そこには、脳神経学的な変化もあれば、身体運動的な変化もあり、かつ、そうした微細な変化を目に見えるようにするいろいろな装置(その代表がテストです)が絡み合って、私たちはそれらをひっくるめて学習と呼んでいるようです。この個人の身の上に起こる「変化」という現象を、この第一のたとえは、「獲得」という用語の体系で説明しようとします。たとえば、「知識を手に入れる」とか「頭に入りきらない」といったようにです。

第二のたとえは、それに対して、「頭がよくなる」とか「スポーツの選手になる」といった言葉の使い方を学習の見方の典型的なものとします。このたとえの背後にあるのは、身の上に起こる変化がある社会集団の中でどのように位置づけられていくのかという、社会的な立場とか役割の変化過程が学習なのだという考え方です。「頭がよくなる」というのは、実際に脳の性能が上がることではなく、「頭がよい」という部類に含まれる人間として評価される、という意味なのです。

ある社会集団の中で何者かになっていく過程が学習だ、とする考え方はなじみのないものかもしれません。それもそのはずで、この考え方をはっきりと示す理論が提案され、広まっていったのは1980年代の後半のことだからです。そうした理論を提唱した研究者に、エティエンヌ・ウェンガーという人がいます。ウェンガーが提唱した概念に「実践共同体」(communities of practice)というものがあります。これは、私たちの社会的な有り様を捉える概念で、ある実践的な課題によって結びついた社会的なネットワークが複数あって、私たちは同時に複数の社会的ネットワークに所属していることを説明するのに役立ちます。たとえば、保育園に通う子がいる親は、夕方近くなると、子どもを迎えに行くタイミングと仕事の切り上げ方を考えながら過ごすかもしれません。この親のありようは非常に社会的で、「家庭」という社会的ネットワークと、「職場」というネットワークに同時に所属していることに由来するのだ、と説明がなされます。

この実践共同体という概念を使うと、学習とは、その共同体により深く参加して、その共同体において中心的な人物となることと説明されます。ある職場で「仕事ができる」ようになっていく過程とは、単にその人の仕事にまつわる行動が変化することではなく、文字通り、ある仕事をまかせてもらえるかどうかという評価や立場、役割が変化する過程なのです。

このように、たとえが異なると、学習という現象の見方も大きく変わってくるわけで、どのようなたとえを採用するかということの重要性が明らかになったかと思います。ここで話を戻して、「新しいたとえを作ること」について考えてみましょう。その際に、ちょっと工夫をして、新しいたとえを作りながら、新しいたとえの持つ意味についてお話ししたいと思います。

先ほどのウェンガーの実践共同体に基づいて学習を説明すると、下の図1のようになります。楕円は実践共同体を、矢印はある人の社会的変化の軌跡を表します。周辺部から次第に中心部に移動していく様子が描かれています。ウェンガーの著書にも同じような図が描かれているのですが、私は、この図は多分に誤解を招くものであったと考えています。あまりにも平面的に過ぎるのです。

中心に近づく、それは実践共同体で展開されている仕事全体を見通せるような立場に身を置くことです。そのような立場に立ったとき、その人の視界には何が見えているのか、その見え方を想像してみてください。さきほど、ある人は同時に複数の実践共同体に所属していると言いました。実践共同体は複数あるのです。ということは、ある実践共同体の中心に近づくということは、その人の所属していない他の実践共同体からはどんどん離れてしまうことを意味するのです。つまり、ある人がある実践共同体の中心に近づくにつれ、他の実践共同体で何が行われているのか、どんどん見えなくなっているとイメージすることができます。ウェンガーは、このような事態に触れて、「何かが見えるようになることは、何かが見えなくなることだ」と述べています。

図1(省略)
 
しかし図1は平面的であるため、その図を見る読者の目にはすべて(円の中も円の外も)一望できます。これですと、中心に近い人からは円の外が見えないことがイメージしにくいのではないかでしょうか。

そこで、この円を、中心に近づくにつれて深くなっていくすり鉢状の穴として捉えてみましょう。アリジゴクの巣のようなものと思ってください。
 
図2(省略)

このアリジゴクを上から見ると、先ほどのウェンガーのオリジナルの図と同じになります。ただし、喚起されるイメージは異なります。矢印は中心にも近づくのですが、穴の底にも近づきます。すると、穴の外のことはよく分からないだろうということは読者にとって容易にイメージできるのではないでしょうか。ウェンガーの実践共同体に「アリジゴク」というたとえを挿入することによって、ウェンガーが当初想定していたであろうひとつのポイントがよりくっきりと見えるようになりました。

このように、新しいたとえを作ることによって、これまで見えていなかったものごとが誰にとっても見えるようになることがよくあるのです。

ところで、図2は世界を理解する上でのたとえの重要性を説明するためのものでしたが、これは、発達支援やソーシャルワークにとっても重要なたとえではないかと考えられます。たとえば、支援を受ける当事者の中には、当然支援を受けるに値する生活状況であるにもかかわらず、まったく支援を要請しないというケースがあります。それはなぜかというと、図2を用いて説明すると、その人はある実践共同体における実践にどっぷりはまっていて、底の方にすでに移動してしまっているわけです。そうすると、他の生活のありようが見えなくなります。外を歩けばいろいろな人がいていろいろな生活をしているのが見えるわけですから、見えていないはずはない。しかし、見えないのです。

こうした場合、ソーシャルワーカーは当事者の所属する共同体の周辺にあえて入り込み、その上で、他の共同体の存在そのものやそこからの情報や物資を伝えたりするという役割を帯びます。このような人のことを、ウェンガーは「ブローカー」と呼んでいるのですが、まさに支援者はブローカー的な立場にあるのです。

とりとめなくお話ししてきましたが、ここでまとめたいと思います。

支援者と研究者はそもそももっている概念や説明体系が異なるので、世界を異なった視点から見ています。そうした人々が協働する場合には、どちらかがどちらかを一方的に理解しようとするのではなく、異なっていることを認めた上での協働を模索する必要があるでしょう。その際に重要なことのひとつとして、新しい「たとえ」を考え出すという協働活動の目標を立てました。新しいたとえを協働で考え出すことによって、少なくともそれについては支援者と研究者の間で共通了解が取られているわけですから、それを手がかりとして協働活動を進めていけるのではないかと思います。
これはプラットフォームの1つの機能となると思いますが、その名称として、「たとえを作る場」、略して「たとえ場」というものを提案したいと思います。これはオリジナルだろうと思ってインターネットを検索したらけっこう出てきました。まねをしたわけではありませんが、少なくとも商標登録はできなさそうです。残念です。

ですが、機能ははっきりすると思います。プラットフォームにおいて創造された見事なたとえは、きっと、支援の場や研究の場においても有効に使われていくことでしょう。

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協働の場において何を作り出すか(1)

dun (2012年3月 2日 18:01)|コメント(0)| トラックバック(0)

これまでに参加させていただいたシンポジウムやワークショップを通して、発達支援という活動に、当事者・支援者・実践者のみなさまとともにどのように参加していけばよいのか、おぼろげながら見えてきたように思います。この場をお借りして、お知恵をお借りできましたことに感謝申し上げます。

私は研究者という立場からこのプラットフォームに参加するのですが、正直に言いまして、何をすればいいのかよく分かりませんでした。支援者の「困りごと」を話し合うワークショップが3回開かれ、3回とも出席しました。参加者のみなさまの口から困っていることがたくさん出てきて、なぜ困りごとが起こるのか、それを解消するにはどうしたらいいかといったアイディアもかなり話し合われたと思います。うかがっていて、私が今まで気づかなかった問題など発見も多々ありました。ですが、やはり研究者としてすべきことがまだぼんやりしています。

ひとつはっきりしているのは、このプラットフォームは支援者と研究者の協働の場となることを目指しているということです。これは、言うほどにはたやすくない道だろうと思います。

その大きな理由のひとつが、「見ているものの違い」です。注意したいのは「見てきたものの違い」ではなく、今現在見ているものの違いです。象牙の塔の中で本とにらめっこしてきた研究者と違い、支援者の方は現実と向かい合ってその矛盾を解決しようとしてきたと思うのですが、そういう意味では両者は「見てきたものが違う」わけです。しかし私がここで指摘したいのはそういうことではありません。

支援者と研究者という2つの職種の間で、そもそもものごとの見え方が異なると思うのです。と言って、何も、こちらの人にとっては赤いリンゴがあちらの人には黄色く見える、ということではありません。世界を理解する枠組みが異なるのです。

固い言葉を使うと、「概念」が異なるのです。ここで概念というのは、世界を分けるためのラベルとでも理解しておいていただければよいかと思います。たとえば「ほ乳類」という概念がありますが、これは、多様な生物を分類するためのラベルのひとつです。ほ乳類という概念を枠組みとして世界を理解する人もいれば、そうでない人もいます。そうでない人の代表は、子どもです。子どもは、日常生活で出会うさまざまな生物の間の類似点や相違点を独自に発見し、独自の分け方で生物界というものをとらえるわけです。それに対して、大人は、より体系化された分類の規則や生物多様性の生じるメカニズムなどを背景とした概念化を行っています。

ある動物をほ乳類と見ようがどうしようが、たいした問題ではないのかもしれません。確かに個々の概念のずれは小さなものでしょう。しかし、たくさんの概念を集め、それらの間の関係をひとまとまりの体系にしたとき、2人の間の世界の見方のずれは決定的になります。例えば、地面と天体を別のものと見るのか、それとも、地面も天体のひとつだと見るのかでは、概念も説明の体系もまったく異なるものとなり、かつ、異なる説明体系を持つ者同士の間では話が通じないことでしょう。言うまでもなく天動説と地動説の違いですが、こうした対立は過去のものではなく、現在でも、例えば進化論と創造説の対立がくすぶる国もあります。

さて、支援者と研究者は、同じように、異なる概念と説明体系のセットに基づいて世界を見ているのでしょうか。もしそうだとしたら、同じ対象、例えば支援を受ける当事者についてすら、見え方、理解の仕方が両者の間で異なるわけですし、そうした二者が同じ対象をめぐって協働することは難しいかもしれません。

両者の概念や説明体系が異なるという可能性は次の事実によって妥当なものになります。

支援者の経験や信念、ライフコースに関する研究は多くあります。こうしたことが研究の対象となるのは、そもそも、支援者の考えていることが研究者には分からないということ、それらは支援者に固有の何かであっていまだ言語化されていないということが前提されているからだと思います。
支援者の概念や説明体系を研究者が知ることは大切なことでしょう。ですが、そもそも、お互いについてよく理解することが大切なのでしょうか。よく理解した上で、概念のセットをどちらか一方のそれに統一することも可能かもしれません。しかし、それは難しいし、なにより、異職種協働ということの良さが失われてしまいます。ミイラ取りがミイラに、ではありませんが、1人の支援者が2人になったところで、困りごとが2倍になるだけです。これでは共倒れです。

大切なことは、協働のための、これまで両者のどちらも持ったことのない新しい概念と説明体系を構築し、両者がそれらを共有し、それを枠組みとして世界を共に見ることが必要だと思います。重要なことは、一方に合わせるのではなく、新しく作ること、そして、作っていく過程そのものが協働の場において行われる中心的な活動だということです。

ただ、概念を作ると一言で言っても難しい。そこで、ここでは「たとえを作ること」を提案したいと思います。 ((2)に続く)

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小学校での研究発表会

dun (2012年2月24日 12:47)|コメント(0)| トラックバック(0)

とある小学校と,授業場面での教師と児童によるコミュニケーションに関する共同研究を3年間行ってきた。今年度が3年目にあたり,先日その成果を先生方の前で発表してきた。今回は,共同でデータを分析している関根和生さんと一緒。関根さんは発表がうまくて,学校の先生から「好きだ」とお褒めをいただいていた。

分析は,ビデオに撮った授業に基づいている。今回は,教師と児童の身体的な動きを徹底的に細かく見るという目的があるので,ビデオで撮影することは必然的だった。クラスにビデオを入れさせていただくというのは難しい。プライバシーの問題など,いろいろとクリアしなければならないことがたくさんあるからである。

そういう起こりうる問題を越えて,研究の目的にご賛同くださったのが,その小学校の校長先生はじめ先生方だった。特に校長先生が非常に面白がってくださり,全面的にサポートしてくださった。先生にはことばにできないくらいの感謝の気持ちがある。学校の授業研究を引き続き行っていくことが,先生のお気持ちに応える誠意だと思う。

発表会には全校の先生が集まっておられた。ものすごい熱意である。

校長先生から趣意説明をいただいた後,司会をバトンタッチし,2人の分析を報告。関根さんは挙手と身振り,私は視線の動きと発話について。最後に,校長先生からコメントをいただく。

その後に他の先生方からご意見をいただいた。率直に言って,本質的な質問や感想をいただくことができたと思う。ありていに言えば「いただいたご意見を参考に今後もがんばっていきたい」ということなのだが,「どうがんばればいいのか」を具体的に指し示していただけた。

例えば教室には,実物投影機(書画カメラみたいなもの)が一昨年導入された。それによって,児童の視線の動かし方が変わったような印象がある,と,ある先生がおっしゃった。これは本当に嬉しいサジェスチョン。授業では,黒板,教科書,他の子ども,教師など,さまざまなリソースがあり,それらを折り合わせて個々の子どもが学習課題に取り組んでいく。そこにさらにもう一つリソースが加わることによって,いかにして集団的な相互行為と個々人の思考のプロセスが再編成されるか。面白いテーマになる。

発表会のあと用意していたいだ宴席で,4月から月1くらいのペースで授業をきちんと見せていただくこと,もう少し小規模なものになるかもしれないが研究会を定期的に実施することを先生方と約束した。

普段はみなさんお忙しそうで声をかけるのもはばかられるほどなので,これを機会にいろんな先生とお話しさせていただく。こんなに楽しい飲み会はそうめったにあるものではない。

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『心理測定尺度集Ⅰ~Ⅵ』所収尺度まとめ【ほぼ完全版】

dun (2012年1月30日 14:12)|コメント(3)| トラックバック(0)

『心理測定尺度集Ⅰ~Ⅵ』(堀洋道先生監修,サイエンス社)に所収されている300以上の尺度を,項目ごとに整理し直して一覧できるリストを作成しました。

出版社の紹介サイト 心理測定尺度集Ⅰ     

どの尺度をどの項目に入れるかは,元の尺度集の整理を尊重しつつ,私の方で独自に立項した部分もあります。

各尺度名の前にある記号(例:Ⅰ-5)は,尺度集の番号と当該の尺度が紹介されている開始ページを示します。Ⅰ-5なら,『心理測定尺度集Ⅰ』の5ページから当該の尺度の紹介が始まることを示します。

当該の尺度が発表された元の論文を参照しやすくするため,各尺度名の後ろの著者および発表年から,書誌情報へリンクを張っておきました。リンク先は,CiNii,CiNii Books,J-STAGEのJournal Archive,国際雑誌のContents Table,大学図書館リポジトリなどです。リンク先がないのは,ネット内の文献情報が今のところ確認できていないものです(もしもあればお知らせいただけるとありがたいです)。

なお,論文の本文がPDF化されていれば,リンク先のページからPDFを読めるようになっています(PDFに直接リンクを張ることはしていません)。役立てていただければ幸いです。

修正履歴
2012.1.29 初公開
2012.1.30 修正(『Ⅵ』所収項目追加,各巻コラム内尺度追加,項目の整理)
2012.1.31 修正(リンク追加)
2013.6.14 修正(リンク切れ修正)・イントロ一部修正
2017.4.5~7 リンク切れ修正完了


目次
1 自己・自我
 自己概念・自己知識 / 自己評価・自尊感情 / 自己への関心 / 自己制御 / 自我同一性の形成
2 一般的性格
3 動機づけ・欲求
4 認知判断傾向
5 価値観・社会的態度
6 ジェンダー・性役割
7 対人態度
 対人認知 / 信頼感・愛着 / 好意・愛情 / 共感性・他者意識
8 自己開示・自己呈示
 自己開示・自己呈示 / 被服行動
9 対人関係
 夫婦関係 / 親子・家族関係 / 友人関係
10 対人行動
 援助 / 攻撃・怒り / コミュニケーション / 社会的スキル / インターネット・携帯電話
11 集団・リーダーシップ
 集団 / リーダーシップ
12 適応とライフイベント
 適応 / 幸福感・健康 / 出産・育児に関する意識 / 災害後の心理 / ライフスタイル
13 学校・教育・学習
 学校・教育 / 学習・学習者 / 学校に対する態度 / 障害のある子どもと特別支援教育
14 産業・進路選択
 産業 / 進路選択
15 感情・気分
 感情 / 気分 / 孤独感・シャイネス
16 抑うつと不安
 抑うつ / 抑うつに関連した意識や観念 / 不安
17 人格障害と問題行動
 人格障害 / 摂食障害
18 ストレスとコーピング
 ストレス / 外傷経験 / コーピング / ソーシャル・サポート
19 看護者・介護者・カウンセリング
 看護と心理 / 看護者・介護者の心理 / カウンセリング

1 自己
1-1 自己概念・自己知識

1-2 自己評価・自尊感情

1-3 自己制御

1-4 自我同一性の形成

  • Ⅰ-72 基本的信頼感尺度(谷,1996)
  • Ⅰ-76 ラスムッセンの自我同一性尺度日本語版(宮下,1987
  • Ⅰ-86 多次元自我同一性尺度(谷,1997a;谷,1997b;谷,1998;谷,2001
  • Ⅰ-91 アイデンティティ尺度(下山,1992
  • Ⅰ-95 同一性地位判定尺度(加藤,1983
  • Ⅰ-101 青年期の自我発達上の危機状態尺度(A水準・B水準)(長尾,1989
  • Ⅴ-42 改訂版世代性関心尺度(丸島・有光,2007
  • Ⅴ-47 ジェネラティヴィティ尺度(串崎,2005a

2 一般的性格

3 動機づけ・欲求

4 認知判断傾向
4-1 認知判断傾向

4-2 完全主義

5 価値観・社会的態度

6 ジェンダー・性役割

7 対人態度
7-1 対人認知

7-2 信頼感・愛着

7-3 好意・愛情

  • Ⅱ-19 恋愛に対する態度尺度(和田,1994
  • Ⅱ-26 日本版Love-Liking尺度(藤原・黒川・秋月,1983)
  • Ⅱ-32 LETS-2(松井・木賊・立澤・大久保・大前・岡村・米田,1990)
  • Ⅱ-41 スタンバーグの愛のトライアングル理論と測定尺度(Sternberg, 1986; Sternberg, 1998
  • Ⅴ-206 異性交際中の感情尺度(立脇,2007
  • Ⅴ-211 恋愛イメージ尺度(金政,2002

7-4 共感性・他者意識

8 自己開示・自己呈示
8-1 自己開示・自己呈示

8-2 被服行動

9 対人関係
9-1 夫婦関係

9-2 親子・家族関係

9-3 友人関係

10 対人行動
10-1 援助

10-2 攻撃・怒り

10-3 コミュニケーション

10-4 社会的スキル

10-5 インターネット・携帯電話

11 集団・リーダーシップ
11-1 集団

11-2 リーダーシップ

12 適応とライフイベント
12-1 適応

12-2 幸福感・健康

12-3 出産・育児に関わる意識

12-4 災害後の心理

12-5 ライフスタイル

13 学校・教育・学習
13-1 学校・教育

13-2 学習・学習者

13-3 学校に対する態度

13-4 障害のある子どもと特別支援教育

14 産業・進路選択
14-1 産業

14-2 進路選択

15 感情・気分
15-1 感情

15-2 気分

15-3 孤独感・シャイネス

16 抑うつと不安
16-1 抑うつ

16-2 抑うつに関連した意識や観念

16-3 不安

17 人格障害と問題行動
17-1 人格障害

17-2 摂食障害

18 ストレスとコーピング
18-1 ストレス

18-2 外傷経験

18-3 コーピング

18-4 ソーシャル・サポート

  • Ⅱ-329 職場用ソーシャル・サポート尺度(小牧・田中,1993
  • Ⅲ-44,Ⅳ-331 学生用ソーシャル・サポート尺度(久田・千田・箕口,1989)
  • Ⅲ-53 地域住民用ソーシャルサポート尺度(堤・堤ら,1994堤・萱場ら,2000
  • Ⅲ-57 高齢者用ソーシャル・サポート尺度(野口,1991
  • Ⅲ-63 在日中国系留学生用ソーシャル・サポート尺度(周,1993
  • Ⅲ-65 ソーシャル・サポート内容およびサポート源の分類(福岡,2000)
  • Ⅳ-331,Ⅲ-41 小学生用ソーシャル・サポート尺度(嶋田,1993)

19 看護者・介護者・カウンセリング
19-1 看護と心理

19-2 看護者・介護者の心理

19-3 カウンセリング

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『心理測定尺度集Ⅰ~Ⅴ』所収尺度まとめ【暫定版】

dun (2012年1月29日 12:00)|コメント(0)| トラックバック(0)

【ほぼ完全版】を作りましたので,そちらをどうぞ。

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サイエンス社『心理測定尺度集Ⅰ~Ⅴ』所収尺度一覧

dun (2012年1月19日 13:46)|コメント(0)| トラックバック(0)

学部の実習で尺度とはどんなものかを体験してもらうために必要だったので,堀先生監修の『心理測定尺度集』をまとめて購入。

どんな尺度がこれまでに開発されてきたのかをざっと見てもらうために,5冊の目次をもとに,所収の尺度一覧を作成した。それがこれ。数えたら全部で247もあるんですね。執筆や編集は大変な仕事だったろうなあ…。

目次を見てちまちま打ち込んでいたんですが,全部終わった後で,国立国会図書館がこのようなページを作成していたことを知る。むがー。でも,国会図書館のページには,まだ最新5巻が未収録のようで,やる意味はあったかなと。 

こうして見ると,大項目・中項目とも,5巻の中で重複しているものがあるので,その辺のレベルでまとめて,目当ての尺度がどの巻に掲載されているかを示すともっと使いやすくなるのかもしれない。ついでに,もとの論文をCiNiiのデータにリンクするとかね。余力があればの話。

 心理測定尺度集Ⅰ
1 自己
 自己概念・自己知識

  • 自己認知の諸側面測定尺度(山本・松井・山成,1982)
  • 相互独立・相互協調的自己感尺度(木内,1995)
  • 自己肯定意識尺度(平石,1990b)

自己評価・自尊感情

  • 自尊感情尺度(山本・松井・山成,1982)
  • 自己受容測定尺度(沢崎,1993)
  • 特性的自己効力感尺度(成田・下仲・中里・河合・佐藤・長田,1995)

 自己への関心

  • 自意識尺度(菅原,1984)
  • 自己認識欲求尺度(上瀬,1992)
  • 没入尺度(坂本,1997)

2 自我同一性の形成
 自我同一性の形成

  • 基本的信頼感尺度(谷,1996)
  • ラスムッセンの自我同一性尺度日本語版(宮下,1987)
  • 多次元自我同一性尺度(谷,1997a;1997b;1998;2001)
  • アイデンティティ尺度(下山,1992)
  • 同一性地位判定尺度(加藤,1983)
  • 青年期の自我発達上の危機状態尺度(A水準・B水準)(長尾,1989)

3 一般的性格
 一般的性格

  • 新性格検査(柳井・柏木・国生,1987)
  • Big Five尺度(和田,1996)
  • 個人志向性・社会志向性PN尺度(伊藤,1993;1995)

4 ジェンダー・性役割
 ジェンダー・性役割

  • BSRI日本語版(東,1990;1991)
  • M-H-F scale(伊藤,1978)
  • 平等主義的性役割態度スケール短縮版(鈴木,1987;1991;1994)
  • 性差感スケール(伊藤,1997;1998;2000)
  • ジェンダー・アイデンティティ尺度(土肥,1996)

5 認知判断傾向
 認知判断傾向

  • (成人用一般的)Locus of Control尺度(鎌原・樋口・清水,1982)
  • 発話傾向尺度(岩男,1995;岩男・堀,1996;1998)
  • 時間的展望体験尺度(白井,1994;1997)
  • 認知的熟慮性-衝動性尺度(滝聞・坂元,1991)
  • 心理的健康と関連する曖昧さ耐性尺度(増田,1994;1998)
  • 認知欲求尺度(神山・藤原,1991)
  • 楽観主義尺度(中村ら,2000)

6 感情・気分
 孤独感・シャイネス

  • 孤独感の類型判別尺度(落合,1983)
  • 改訂版UCLA孤独感尺度日本語版(諸井,1991ほか)
  • 特性シャイネス尺度(相川,1991)
  • シャイネス尺度日本語版(桜井・桜井,1991)
  • 早稲田シャイネス尺度(鈴木・山口・根建,1997)

 気分

  • 多面的感情状態尺度(寺崎・岸本・古賀,1992など)
  • 気分調査票(坂野ら,1994)

7 自己開示・自己呈示
 自己開示・自己呈示

  • 開示状況質問紙(遠藤,1989)
  • セルフ・ハンディキャッピング尺度(沼崎・小口,1990)
  • ユーモア態度尺度(上野,1993;宮戸・上野,1996)
  • セルフ・モニタリング尺度(岩淵・田中・中里,1982)

 被服行動

  • 被服関心度質問表(神山,1983a)
  • 被服行動尺度(永野,1994)
  • 知覚されたファッション・リスク評定尺度(神山・苗村・高木,1993)
  • 服装によって生起する多面的感情状態尺度(西藤・中川・藤原,1995)

心理測定尺度集Ⅱ
1 他者の認知・他者への好意
 対人認知

  • 特性形容詞尺度(林,1978ほか)

 好意・愛情

  • 恋愛に対する態度尺度(和田,1994)
  • 日本版Love-Liking尺度(藤原・黒川・秋月,1983)
  • LETS-2(松井・木賊・立澤・大久保・大前・岡村・米田,1990)

2 動機づけ・欲求
 動機づけ・欲求

  • 日本語版Sensation-Seeking Scale(寺崎・塩見・岸本・平岡,1987)
  • 達成動機測定尺度(堀野,1987)
  • ユニークさ尺度(宮下,1991)
  • 日本版MLAM承認欲求尺度(上田・吉森,1990)
  • 成功恐怖(FS)測定尺度(堀野,1991)

3 対人態度
 信頼感・愛着

  • 対人信頼感尺度(堀井・槌谷,1995)
  • 信頼感尺度(天貝,1995;1997)
  • 内的作業モデル尺度(戸田,1988)

 共感性・他者意識

  • 情動的共感性尺度(加藤・高木,1980)
  • 共感経験尺度改訂版(角田,1994)
  • 他者意識尺度(辻,1993)

4 対人関係
 家族関係・友人関係

  • 家族機能測定尺度(草田・岡堂,1993)
  • 夫婦関係満足尺度(諸井,1996)
  • 親役割診断尺度(谷井・上地,1993)
  • 孫-祖父母関係評価尺度(田端・星野・佐藤・坪井・橋本・遠藤,1996)
  • 友人関係尺度(岡田,1995)
  • KiSS-18(菊池,1988)

5 対人行動
 援助

  • 向社会的行動尺度(大学生版)(菊池,1988)
  • 援助規範意識尺度(箱井・高木,1987)
  • 心理的負債感尺度(相川・吉森,1995)

 攻撃・怒り

  • 日本版Buss-Perry攻撃性質問紙(安藤・曽我・山崎・島井・嶋田・宇津木・大芦・坂井,1999)
  • STAXI日本語版(鈴木・春木,1994)

6 集団・リーダーシップ
 集団

  • 集団同一視尺度(7項目版および12項目版)(唐沢,1991)
  • 間人度尺度(柿本,1995)
  • 相互独立的-相互協調的自己感尺度(高田,2000)
  • 国民意識(ナショナル・アイデンティティ)尺度(唐沢,1994)
  • 集団主義尺度(改訂版)(ヤマグチ・クールマン・スギモリ,1995)

 リーダーシップ

  • PM指導行動測定尺度(三隅,1984)
  • トップマネジメントリーダーシップのPMスケール(三隅,1984a)
  • LPC尺度(白樫,1992)

7 産業・職業ストレス
 産業

  • ワーク・ファミリー・コンフリクト尺度(金井・若林,1998)
  • 女性管理職に対する態度尺度(日本語版WAMS)(若林・宗方,1985)
  • 役割受容尺度(三川,1990)
  • 職場環境,職務内容,給与に関する満足感測定尺度(安達,1998)

 職業ストレス

  • 職場ストレッサー尺度・ストレス反応尺度(島津・布施・種市・大橋・小杉,1997;小杉,2000)
  • 職場用コーピング尺度(庄司・庄司,1992)
  • コーピング尺度(職場ストレス測定用)(島津・小杉,1997;小杉,2000)
  • 職場用ソーシャル・サポート尺度(小牧・田中,1993)

8 進路選択
 進路選択

  • 成人キャリア成熟尺度(坂柳,1999)
  • 職業未決定尺度(下山,1986)
  • 進路不決断尺度(清水,1990)
  • 進路選択に対する自己効力尺度(浦上,1995)

9 価値観・社会的態度
 価値観・社会的態度

  • 価値志向性尺度(坂井・山口・久野,1998)
  • 正当世界尺度(今野・堀,1998)
  • 死観尺度(金児,1994)
  • 死に対する態度尺度(DAP)(河合・下仲・中里,1996)
  • 性的態度尺度(和田・西田,1992)

10 ライフスタイル
 ライフスタイル

  • ゆとり(感)尺度(古川・山下・八木,1993)
  • 生きがい感スケール(近藤・鎌田,1998)
  • 生き方尺度(板津,1992)
  • プライバシー志向性尺度(吉田・溝上,1996)
  • プライベート空間機能尺度(泊・吉田,1998b)

心理測定尺度集Ⅲ
1 ストレス
 ストレス

  • 対人ストレスイベント尺度(橋本,1997)
  • 対人・達成領域別ライフイベント尺度(高比良,1998)
  • 中学生用学校ストレッサー尺度(岡安・嶋田・丹羽・森・矢冨,1992)

 コーピング

  • コーピング尺度(尾関,1993)
  • 3次元モデルに基づく対処方略尺度(上村・海老原・佐藤・戸ヶ崎・坂野,1995)
  • 中学生用コーピング尺度(三浦・坂野・上里,1997)

 ソーシャル・サポート

  • 学生用ソーシャル・サポート尺度(久田・千田・箕口,1989)
  • 地域住民用ソーシャルサポート尺度(堤・堤ら,1994;堤・萱場ら,2000)
  • 高齢者用ソーシャル・サポート尺度(野口,1991)

2 適応とライフイベント
 適応

  • バーンアウト(燃えつき症候群)尺度(久保・田尾,1992)
  • 日本的タイプA行動評定尺度(瀬戸・長谷川・坂野・上里,1997)

 幸福感・健康

  • 日本版HLC(主観的健康統制感)尺度(堀毛,1991a)

 出産に関わる意識

  • 日本版エジンバラ産後うつ病自己評価票(岡野ら,1996)
  • 母性意識尺度(大日向,1988)
  • 育児ストレス尺度(生後6カ月用)(佐藤・菅原・戸田・島・北村,1994)
  • 対児感情尺度(改訂版)(花沢,1992)

 災害後の心理

  • 改訂出来事インパクト尺度(飛鳥井,1999)
  • 外傷後症状尺度(PTSS-10)(Kato et al., 1996)
  • PTSD尺度(林,1995)

3 抑うつと不安
 抑うつ

  • ベック抑うつ尺度(林,1988a;林・瀧本,1991)
  • 日本語版キャロル抑うつ自己評価尺度(島・鹿野・北村・浅井,1985)

 抑うつに関連した意識や観念

  • ベック絶望感尺度(Tanaka et al., 1998)
  • 拡張版ホープレスネス尺度(高比良,1998a)
  • 不合理な信念測定尺度短縮版(森・長谷川・石隈・嶋田・坂野,1994)

 不安

  • 愛教大コンピュータ不安尺度(平田,1990)
  • STAI日本語版(清水・今栄,1981)
  • 青年版テスト態度検査日本語版(荒木,1988;1989)
  • 対人恐怖心性尺度(堀井・小川,1996;1997)
  • 大学生活不安尺度(藤井,1998)

4 人格障害と問題行動
 人格障害

  • ミロン臨床多軸目録境界性スケール17項目短縮版(井沢・大野・浅井・小此木,1995)
  • 自己愛人格目録短縮版(小塩,1998b)
  • 病理的特徴に基づく自己愛に関する尺度(岡田,1998)
  • 解離性体験尺度-Ⅱ(田辺・小川,1992)
  • 自己志向的完全主義尺度(桜井・大谷,1997)
  • 久里浜式アルコール依存症スクリーニング・テスト(斎藤・池上,1978)
  • 非現実感質問紙(須永,1996)

 摂食障害

  • 日本語版EAT-26(Mukai et al., 1994)

5 看護と心理
 看護と心理

  • 蓄積的疲労兆候インデックス(越河,1975;越河・藤井・平田,1992)
  • 月経随伴症状日本語版(秋山・茅島,1979)
  • 簡略更年期指数(小山・麻生,1992)
  • 改変型日本語マギル痛み質問票(阪本,1992)
  • 改訂長谷川式簡易知能評価スケール(長谷川,1974;加藤ら,1991)
  • 老研式活動能力指標(古谷野・柴田・中里・芳賀・須山,1987)

 看護者・介護者の心理

  • 看護婦の職務満足度尺度(尾崎・忠政,1988)
  • 看護婦の自立性測定尺度(菊池・原田,1997)
  • 介護負担感スケール(中谷・東條,1989)
  • 介護者・患者関係アセスメント票(市川・中川・大井ら,1986)

6 学校・教育・学習
 学校・教育

  • 所属校の教育相談体制に関する質問尺度(伊藤,1997)
  • 教師特有のビリーフ尺度(河村・國分,1996)
  • 教師のシャイネス評価尺度(高柳・田上・藤生,1998)

 学習・学習者

  • 学習目標志向測度(谷島・新井,1994)
  • いじめの影響尺度(香取,1999)
  • 学校ぎらい感情測定尺度(古市,1991)
  • 学校生活満足度尺度(高校生用)(河村,1999)

心理測定尺度集Ⅳ
1 自己
 自己概念

  • 児童・生徒用相互独立的-相互協調的自己感尺度(高田,1999,2000)
  • 児童用自己意識尺度(桜井,1992)

 自尊感情・自己評価

  • 児童用コンピテンス尺度(桜井,1992)
  • 自己受容尺度(伊藤,1991)
  • 子ども用一般主観的統制感尺度(神田,1993)

 自己制御

  • 児童のself-control尺度(庄司,1993)
  • 幼児の自己主張-自己抑制に関する質問紙(首藤,1995)

2 パーソナリティと感情
 パーソナリティ

  • 小学生用5因子性格検査(曽我,1999)
  • 子ども用多次元自己志向的完全主義尺度(桜井,2005)

 共感性・規範・態度

  • 多次元的共感性尺度(登張,2003)
  • 社会的責任目標尺度(中谷,1996)

 感情

  • 青年用罪悪感質問紙(石川・内山,2002)
  • 児童・生徒用妬み傾向尺度(澤田・新井,2002)
  • 敵意的攻撃インベントリー(秦,1990)

3 動機づけと学習
 動機づけ

  • 内発的-外発的動機づけ尺度(桜井・高野,1985)
  • 達成目標傾向尺度(速水・伊藤・吉崎,1989)
  • 学芸大式学習意欲検査(簡易版)(下山・林ら,1983)

 学習

  • 学習法略の使用尺度(佐藤・新井,1998)
  • 学習観尺度(植木,2002)

4 家族と友人
 親子関係

  • 母親に対する愛着尺度(本多,2002)
  • 親子間の信頼感に関する尺度(酒井ら,2002;酒井,2005)
  • 親の養育態度尺度(中道・中澤,2003)

 友人関係

  • 友人との活動,友人に対する感情,友人への欲求の質問紙(榎本,2003)

5 対人関係
 対人感情・動機づけ

  • 友人関係場面における目標志向性尺度(黒田・桜井,2001)
  • 親和動機尺度(杉浦,2000)

 社会的スキル

  • 幼児の社会的スキル尺度(中台・金山,2002)
  • 学校生活スキル尺度(飯田・石隈,2002,2006)

 孤独感・疎外感

  • 孤独感尺度(落合,1983)
  • 対人的疎外感尺度(杉浦,2000)
  • 中学生用疎外感尺度(宮下・小林,1981)

6 無気力と不安
 無気力・不安

  • 無気力感尺度(下坂,2001)
  • 対人不安傾向尺度(松尾・新井,1998)
  • 算数不安尺度・ソーシャルサポート尺度(渡部・佐久間,1998)

7 ストレス
 ストレッサー・ストレス反応

  • 小学生用学校ストレッサー尺度(嶋田,1998)
  • 学業ストレッサー評価尺度(神藤,1998)
  • 小学生用ストレス反応尺度(SRS-C)(嶋田・戸ヶ崎・坂野,1994)
  • 中学生用ストレス反応尺度(岡安・嶋田・坂野,1992)

 コーピングとソーシャル・サポート

  • 小学生用ストレスコーピング尺度(大竹・島井・嶋田,1998)
  • 学業ストレス対処方略尺度(神藤,1998)
  • 小学生用ソーシャル・サポート尺度(嶋田,1993)

8 適応
 学校適応

  • 小学生用学校不適応感尺度(戸ヶ崎・秋山・嶋田・坂野,1997)

 不登校傾向

  • 登校回避感情測定尺度(渡辺・小石,2000)

9 障害のある子どもと特別支援教育
 子どもの行動チェックリスト

  • 乳幼児期行動チェックリスト改訂版(金井・長田・小山・栗田,2004)
  • 東京自閉行動尺度(立森ら,2000)
  • 小児行動質問表改訂版(井筒・長田・立森・長沼・加藤・堤,2001)

 保護者のストレス

  • 母親のストレス尺度(田中,1996)
  • Questionnaire on Resources and Stress(QRS)簡易版(稲浪・小椋・ロジャーズ・西,1994)

心理測定尺度集Ⅴ
1 自己・自我
 自己概念

  • 満たされない自己尺度(藤・湯川,2005)
  • 変化動機尺度(佐久間・無藤,2003)
  • 自己愛的脆弱性尺度(NVS)短縮版(上地・宮下,2009)

 自尊感情・自己評価

  • 被受容感・被拒絶感尺度(杉山・坂本,2006)
  • 劣等感(高坂,2008)
  • 仮想的有能感尺度(速水,2006;Hayamizu et al., 2004)

 自我同一性の形成

  • 改訂版世代性関心尺度(丸島・有光,2007)
  • ジェネラティヴィティ尺度(串崎,2005a)

2 認知・感情・欲求
 認知判断傾向

  • 批判的思考態度尺度(平山・楠見,2004)
  • ネガティブな反すう尺度(伊藤・上里,2001)
  • 多次元完全尺度認知尺度(小堀・丹野,2004)

 感情

  • 一般感情尺度(小川ら,2000)
  • 一過性運動に用いる感情尺度(新井・竹中・岡,2003)

 動機づけ・欲求

  • 賞賛獲得欲求・拒否回避欲求尺度(小島・太田・菅原,2003)
  • 課題価値測定尺度(伊田,2001)
  • 友人関係への動機づけ尺度(岡田,2005;Okada, 2007)

3 対人認知・対人態度
 対人態度・対人感情

  • 改訂版重要他者に対する再確認傾向尺度(勝谷,2004)

 共感性・他者意識(ゆるし)

  • 多次元共感性尺度(MES)(鈴木・木野,2008)
  • ゆるし傾向性尺度(石川・濱田,2007)

 愛着・依存

  • 一般他者版成人愛着スタイル尺度(ECR-GO)(中尾・加藤,2004b)
  • 対人依存欲求尺度(竹澤・小玉,2004)

4 親密な対人関係
 夫婦関係

  • 夫婦間コミュニケーション態度尺度(平山・柏木,2001)
  • 離婚観尺度(小田切,2003)

 親子・家族関係

  • 親からの自律性援助測定尺度(櫻井,2003)
  • 両親の結婚生活コミットメント認知尺度(宇都宮,2005)

 友人関係

  • 改訂版友人関係機能尺度(丹野,2008)
  • 友人関係測定尺度(吉岡,2001)
  • 山アラシ・ジレンマのパターン尺度(藤井,2001)

 恋愛

  • 異性交際中の感情尺度(立脇,2007)
  • 恋愛イメージ尺度(金政,2002)

5 対人行動
 援助

  • 援助成果測定尺度(妹尾・高木,2003)
  • ボランティア活動継続動機測定尺度(妹尾・高木,2003)
  • 相談行動の利益・コスト尺度改訂版(永井・新井,2008)

 攻撃・怒り

  • 怒り喚起・持続尺度(渡辺・小玉,2001)
  • 関係性攻撃傾向尺度(櫻井・小浜・新井,2005)

6 コミュニケーション
 自己開示・自己呈示

  • 日本語版自己隠蔽尺度(河野,2000a)
  • 自己呈示規範内在化尺度(吉田・浦,2003a)

 コミュニケーション

  • 日常性コミュニケーション尺度(多川・吉田,2006)
  • コミュニケーション・スキル尺度ENDCOREs(藤本・大坊,2007)

 インターネット・携帯電話

  • 情報活用の実践力尺度(高比良ら,2001)
  • 携帯メールの効用認知尺度(五十嵐・吉田,2003)
  • インターネット行動尺度(藤・吉田,2009)

7 社会的態度・ジェンダー
 価値観・社会的態度

  • 社会考慮尺度(斎藤,1999)
  • 行動基準尺度(菅原ら,2006)
  • 死に対する態度尺度改訂版(DAP-R)(隈部,2003)
  • 観光動機尺度(林・藤原,2008)
  • 「居場所」の心理機能測定尺度(杉本・庄司,2006)

 性・ジェンダー

  • 性的リスク対処意識尺度(草野,2006)
  • ジェンダー・アイデンティティ尺度(佐々木・尾崎,2007)
  • 共同性・作動性尺度(土肥・廣川,2004)

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2012年に向けて

dun (2011年12月29日 20:37)|コメント(0)| トラックバック(0)

もうすぐ今年も終わり,2012年が来ようとしています。

これを書いている今現在,まったく年の瀬の気分がありません。なんででしょうかね。

おそらくは,3月の震災や原発のせいで,身内に直接的な被害が出ていて,気が休まらないということもひとつあるのでしょう。日本や世界も含めて経済の展望がまったく見えず,経済が目的化してしまった社会そのものがうろうろしているというのもあるかもしれません。

それでも暦の上では新しい年が始まるわけで,年度で動く大学に身を置くものとしては4月からのルーティンワークに向けて粛々と準備することもまた必要です。

ですから,来年から何か新しいことを始めるわけでもないのですが,どんな仕事をするのか漠然と構想するのは,行動の指針という意味でも大事かな,と思ってます。

自分の仕事においては,2011年を「アウトプットの年」と位置づけて望みました。そのおかげか,学会発表は国内・国際あわせて4件,シンポなどへの登壇(指定討論含む)は6件,論文は2本(うち1本はまだ印刷中),エッセイみたいなのが2本,1~2章書いた本が2冊と,ほんとうに必要最低限ではあると思いますが,過去最高の出力量でした。

「ブレイクしたね」と言われましたが,すでにスランプなので,一発屋の雰囲気が濃厚です。

2012年は,「分析と総合の年」としたいと思います。

そんなわけで,みなさまよいお年をお迎えください。

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言語学習研究の理論的課題(3)

dun (2011年12月10日 12:31)|コメント(1)| トラックバック(0)

社会的関係性の複雑化による幼児のコミュニケーション能力の創発過程

人間は,社会歴史的な関係性の網の目の中に生まれ,そこで育つ独自な存在としてある。われわれは本質的に社会的な存在であり,個々人に固有な現象としての心理は,このことを前提として解明されなければならない(G. H. Mead,Wertsch)。

さて,この基本的姿勢から出発して幼児の言語発達に関する理論をどのように整備できるのか。本論を通して目指されるのは,複雑化していく関係性への適応と働きかけから,幼児の言語,特にコミュニケーション能力(communicative competence)の発達がいかにして創発するかを解明することである。本論が説明しようと念頭に置いている具体的現象には,たとえば,保育園の砂場で友達が遊んでいるところにやってきた幼児がその輪に入れてもらおうと「いーれーて」と言うこと,あるいは同じく保育園で,仲間内のルールに違反した幼児に対して周囲が「あーららこらら」と声を揃えてはやすことが含まれる。このとき,関係性の構築と確認にあたって,幼児がある発話スタイルを選択することをどのように説明できるか。この問いに答え,言語発達の地平から統一的に理解するのが本論の目的である。

身体の成長や社会文化的制度によって,幼児を取り巻く関係性は複雑化するはずである。そこには二つのレベルでの複雑化,すなわち空間的広がりと歴史的蓄積があるだろう。たとえば自転車乗りが可能になれば,移動の範囲は拡張し,出会う可能性のある他者の数は増える。また,制度的に学年が上がってクラスのメンバーが一新されれば,担任教師や同級生の数は蓄積される。幼児にとっておそらく最も大きな関係性の再編成は,家庭から保育・教育組織への移行において生起する。伊藤・茂呂(印刷中)は,このような生活の場の移行過程にともない,教師や同級生など新たに出会う他者と関係性を結ぶ中で,幼児が,その関係性に適切な話し方を探索し利用し始める概略を論じた[研究1]。

 たとえばアメリカのある小学1年生のクラスでは,日課として生徒が一人前に立って,あるテーマに沿ってスピーチをする(シェアリング・タイムと呼ばれる)。このときに生徒が話す韻律は,日常会話にはほとんど見られない,語尾を上げながら伸ばすスタイルであり(Michaels,1981),似たような韻律型は日本の教室でも宮崎(1996)が見出している。こうした音声面での分化すなわちバリエーションの増加は,学校教室という場や,集団の前で話すという活動と密接に結びついた発達の局面と言えよう。

 ここから示唆されるのは,発話の複雑さが,関係性の複雑化に応じる形で深まっていく方向での変化である。しかしその一方で,このように複雑化した発話機能を内面化した子どもが,能動的に関係性を変化させていく方向性もあるだろう。先の例で言えば,適切な韻律型を用いることは,自己を社会的に「良いスピーカー」として認識させる道具とも言えるし,また,相対する他者と自己との関係を切り分ける表現の媒体でもあるはずだ。このように行為主体として関係性を改変しようと意図し,その道具として発話を駆使する能力も想定できる[研究2として詳説の予定]。ここから,常に一方が他方の原因だ,というのではなく,両者は変化の単位として相互作用的に運動すると仮定できる。

 ここまでの仮説から問題を具体化すると次のようになる。(1)幼児の関係性とそのコミュニケーション能力は相互に影響しあいながら運動する発達の単位だと仮定すると,その運動の具体的な展開と可能性のある振幅はいかなるものか。(2)関係性の複雑化を固定させて見た場合,それにより現れる新たなコミュニケーション・スタイルのバリエーションには具体的にどのようなものが挙げられるか。また,そのコミュニケーション・スタイルに幼児はどのようにして適応し,学習するのか。(3)一方で,コミュニケーション能力の複雑化を固定させて見た場合,それによって創発する新しい関係の在り方とは何か。新しい関係の取り方を,幼児は発話を道具的に用いることでいかにして発展させ,自らの能力として内化させていくのか。※

本論は,(2)に関して,教育組織に特有な多人数による同時的な発声,ここでは「一斉発話」を代表させる。また(3)に関して,他者の発話の「引用」という,言語を媒介とした関係性の在り方に着目し,それが可能となる条件を具体的に明らかにする。(2)(3)の検討を通して,(1)を解明していく。

※筆者メモ:新しい関係性の候補として,発話の引用によって現前する他者とともに歴史的な他者と関係する在り方があるかもしれない。理論的には,対話性(バフチン)を帯びた発話として準備できるか。心理学的には,内的に他者との関係を媒介する心理的道具として内言,内的発話が考えられる。言語学的・文学的には,パロディ,ジョイスやラブレーがある。これらがすべて,複雑化する発話の機能やコミュニケーション能力が準備するものだとすれば,機能と能力の解明がまずすべき仕事としてあり,その後でそれらが関係性と絡む過程を記述できれば御の字。

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言語学習研究の理論的課題(2)

dun (2011年12月10日 11:32)|コメント(0)| トラックバック(0)

ラングへの接近を言語発達の典型と見なすならば,不完全な言語を話す者同士の相互作用は無視されてしまう。そしてこれが従来の言語発達研究の実際であった。

しかし,現実に,子どもは隣の子どもとやりとりをする。ここから創発するものは重要だ。

親子を典型とする,有能な言語の使い手と未発達の言語の使い手とのやりとりによる言語発達をScollen&Scollenにならって「縦の言語発達」と呼ぶならば,未発達の言語の使い手同士のやりとりから生じる言語発達は「横の言語発達」とでも呼べるだろう。

横の言語発達が促進される機会として,家庭から幼保施設へという,子どもの生活世界の移行に注目すべきだ。なぜなら,隣り合う子どもが大勢いるから。

横の言語発達を見据える道具として「唱えことば」に注目したい。まず,素材の形が変化しないことばを選べば,それがいかにして伝播していくかという点から横の言語発達過程を捉えるよすがとなるからである。さいわいにして唱えことばは幼保施設にいる子どもたちの発話にはよく見られるものだ。

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言語学習研究の理論的課題(1)

dun (2011年12月 9日 20:38)|コメント(0)| トラックバック(0)

成人を含む会話に臨場することを通して、 乳幼児は言語を学習する。

乳幼児の臨場する会話は、まさにその乳幼児を構成要素として組織化される。

つまり、乳幼児が学習すべき言語は、言語を学習する途上の存在を構成要素として成立する会話において出現する言語である。

学習の対象が、それを学習する者の存在を前提とする。これが、言語学習の成立の前提となる構図である。

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海外での学会というだけで浮き足立っている

dun (2011年8月31日 13:38)|コメント(0)| トラックバック(0)

日曜からローマで学会があるのでその準備に忙殺されておりました。

準備といってもたかだかポスター1枚作るだけなのですが、そこに盛り込むデータを新しく分析し直して、文章を作り、それを英語に訳して、校閲に頼み、レイアウトを工夫して、できたポスターを印刷屋に刷ってもらうよう依頼するというところまでなんとかたどり着きました。ぎりぎり金曜か土曜に刷り上がるというこの危ない橋を渡る感覚は嫌なものです。

そんでもってできあがっったのはこちら。

iscar poster_mini.JPG

なんかもう、文字ばっかりね。

ポスターだから展示しておけばいいやというわけもなく、これを英語で説明しなければならないという次なる課題が待っているのですが、もうそんな準備をする暇はありません。やぶれかぶれでなるようになれです。

ただ、4日に日本を発つのですが、台風が来てますねえ。大丈夫なんでしょうか。ちと不安ですがまあなんとかなるでしょう。

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別にいぢわるされたわけではなかったらしい

dun (2011年7月 5日 22:14)|コメント(0)| トラックバック(0)

CiNii八分の件だが,いろいろ調べていたら,拙文をご高覧された方が,当該の文章がNDL採録規準を満たしていなかったのではとご指摘くださっているのを発見した。

http://b.hatena.ne.jp/xiaodong/20110705#bookmark-49402058

国立国会図書館の雑誌記事索引記事採録基準によると,確かに以下のように書いてある。

1 記事のページ数による選定
 採録誌に掲載された記事のうち、記事の分量に関わらず3ページ以上にわたる記事で、2に該当しないものを採録する。ただし、次に該当する場合は2ページ以下の記事でも採録することができる。

(1) 文献目録(新刊紹介は採録しない。)
(2) 総目次(毎号掲載されていると思われる総目次は採録しない。)
(3) 一般週刊誌の特集記事(ワイド記事)内の個々の記事
(4) 調査・研究に有用なため、特に雑誌単位で2ページ以下の記事も採録すると指定している場合(ただし、分量が1ページ未満の記事は採録しない。)

2 選定しない記事
 上記1に該当しても、下記に該当する記事は採録しない。

(1) 次のような単なる事実の報知記事
 (イ)団体及び事業の会計報告
 (ロ)名簿、人事情報、組織変更等の情報
 (ハ)紀要等の業績一覧
 (ニ)会告、会則、定期大会プログラム、イベントカレンダー
 (ホ)投稿規程、読者の投稿欄、編集後記
 (へ)広告及び宣伝・広告を主目的とする記事
(2) 娯楽的要素の強い記事
 (イ)一般週刊誌のグラビア記事
 (ロ)漫画
(3) 詩、短歌、俳句等
(4) 解説などの付されていない次のようなデータ、資料類、原資料
 (イ)数値情報のみの記事
 (ロ)各種試験問題
 (ハ)法令(外国の法令の翻訳は採録する。)
 (ニ)判例
(5) 学位論文要旨及びその審査報告 

まことにお恥ずかしい話だが,このような基準があったことをまったく知らなかった。知ることができて,よかった。感謝します。

当の文章は1の各号に該当せず,かつ3ページ未満なので採録されなかったわけだ。それならしかたない。イラストでも入れておけばよかったかな。

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CiNii八分?

dun (2011年7月 1日 21:00)|コメント(0)| トラックバック(0)

先日,とある雑誌にとある先生のご著書について書評を書かせていただいた。たった2ページの駄文である。

自身のサイト(ここね)に業績一覧を掲載しているので,CiNiiに書誌情報が載っていればそこにリンクでも貼ろうかと,検索してみた。

…ひっかからない。しかし,当の文章が掲載された号の他の論文は書誌情報がある。どういうことなのだろう。いろいろなやり方で検索をかけてみるも,いずれもダメ。

要は,当の文章の情報はデータベースに登録されていない,ということなのだろう。

お目汚しのような文章なので,人様に知られないというのは歓迎すべき状況なのかもしれない。それは別にいいのだが(本当はよくない。ちょっと怒っている),ここで俄然気になるのは,出版された論文はどのような手続きによってCiNiiに登録されるのかという点である。

しかしもっと気になるのは,このような場合,当の文章は「なかったこと」になってしまうのではないか,ということである。例えば,雑誌そのものを閲覧できなければ,記事をCiNiiなどで検索して必要な論文だけ入手するわけだが,そもそも登録されていないので検索に引っかからない場合,ある論文が存在すること自体知ることができない。

かつて,Googleのデータベースから抜け落ちていて,検索で引っかからないものは,ウェブ上では存在しないことになってしまう,という「グーグル八分」が話題になったが,CiNiiのデータベースでも同じことが起こる。「CiNii八分」とでも言おうか。

たぶん,このへんにコンタクトすれば修正なりなんなりしてくれるのだろうが,なんとなく自分でやるのは気恥ずかしい。どうすりゃいいんだろう。

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保育環境のアンビエント・サウンド

dun (2011年6月19日 07:15)|コメント(0)| トラックバック(0)

日本の保育所や幼稚園はうるさい。もう慣れてしまった人間からすればなんてことはないのだが,初めて足を踏み入れた人間からすると相当うるさい環境である。入園したばかりの子どもはまずこの「うるささ」に慣れなければならないのだろう。

ということからすると,保育所や幼稚園を「音」という観点で記述すること,そこにおける子どもの行動を,特有の音環境に「ニッチ」を発見し利用する過程として記述することはおもしろいのではないか。

多数の人間が集まって音を出し合っている環境を,「社会知覚的エコロジー」という視点で見てみよう。英語で言うと"socio-perceptive ecology"。教育社会学者F.Ericksonが学校教室を「社会認知的エコロジー(socio-cognitive ecology)」と呼んだのにならってである。「認知」ではなく「知覚」という語を入れたのは,人と環境との接面において起こる出来事を生態学的アプローチに依拠して記述したいから。要するにギブソン流に行く,という宣言である。

音とは,とどのつまり空気の振動だ。人は空気という媒質の振動に囲まれている。ギブソンにならえば,「包囲音波」(ambient sound)とでも言おうか。たとえれば,音の波が常に全身に打ち寄せている。無生物と異なるのは,打ち寄せ方を人自身が決められる点である。

人にとっての包囲音波には人工的なものも含まれる。最も身近なのが人の出す言語音声だろう。それ以外にも人は多様な音をまき散らしている。まき散らされ方は環境の構造を特定する。たとえば,視覚障害者が地下通路を歩くときなど,音の反射の仕方などで壁との距離が知覚できるという(伊藤精英先生の研究による)。音のまき散らし方を人は伝承してきた。その意味で文化的なものでもある。マリー・シェーファーはそのあたりを汲んで,サウンドスケープと言ったのである。

はじめに戻ろう。保育所や幼稚園は独特なサウンドスケープである。幼児はそうした環境に特定的な包囲音波においてどのように身を置き,自らそこで新たな音波を作り出すのだろうか。

保育所や幼稚園でよく見られる活動に,同じ言葉を複数人で一斉に言うものがある。かつて自分は「一斉発話」とか「同時発話」とか呼んだものである。例えば,朝の集会や食事前のごあいさつとして,あるいは合唱として,子どもたちは声を重ね合う。これによって,家庭などではあまり起こらない,独特な包囲音波が作られる。

どの辺が独特かというと,園で普通に会話しようとすると,うるさいなかで話さなければならないので,背景となる通奏音から自分の声を際だたせる行為が必要なのだが,一斉発話では反対に自分の声を他者の声に重ね合わせ,まぎれこませる必要がある。この点で一斉発話は独特なのである。

他者と声を重ねることを,協調的にタイミングを同期させた身体運動として見れば,それは発達初期から見られる人間の基礎的な能力である。一斉発話を単なるタイミング協調過程として記述してもダメだろう。子どもたちは自身のもつ基礎的な能力を用い,特定の環境で,どのような目標を目ざして,どのような行為を行うのかを記述することが重要である。というのも,能力そのものの発達を記述してもしょうがないから。能力とその環境はカップリングして発達しているはずだから。

これは日本の保育所・幼稚園に共通してみられるような環境であり,そこでの行為はあちこちで反復される可能性がある。だから1カ所の保育所・幼稚園を観察すれば,それで十分である。例えば,ある子どもの一斉発話における発声行為パターンはそうした環境であれば誰もが発見可能なニッチに基づいたものである可能性が高い。

という方向性で一斉発話研究を改めて見直し,書き直す。

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保育と美学

dun (2011年6月17日 23:27)|コメント(0)| トラックバック(0)

無藤・堀越(2008)は,保育実践の質的な分析をおこなう上での視点として,美学の概念を導入した。イギリスの批評家テリー・イーグルトンの『美のイデオロギー』に依拠しながら,美的なもののもつ可能性を次のように整理する。

美的なものは人間に感覚的な方向づけをもたらす。その方向づけには2つの側面がある。一つは,自律的な行為者として内面的な統一感がもたらされる。もう一つは,他者との一体感が感覚的にもたらされる。

後者は重要で,これによって,言語など概念的な媒介をぬきにして他者との合意を形成することができる。これは,特殊な個人がそのまま普遍的な公共的存在に同化することを意味する。したがって,「~しなければならない」という法や「~であるはず」という法則は,強制によってではなく,むしろ喜びを通して内面に形成される。

言語的な媒介ぬきの一体感の感得というと,乳児期の自他関係を思い起こす。無藤・堀越の論は,幼児期におけるそうした出来事の分析を可能にする視座を与えてくれる点で,面白い。

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無藤隆・堀越紀香 (2008). 保育を質的にとらえる 無藤隆・麻生武(編) 質的心理学講座1 育ちと学びの生成 東京大学出版会. pp.45-77.

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複式学級の数は減っている

dun (2011年6月 5日 09:35)|コメント(0)| トラックバック(0)

複式学級数.jpg

複式学級に興味が出てきて,とりあえず文科省の統計をごそごそと調べている。

平成15(2003)年からの学校基本調査がウェブから拾えたので,全国の小学校における学級数と複式学級のそれぞれの総計について,昨年度までの年次変化を視覚化してみた(ただし,公立校に限定)。

上に示したのがそのグラフ。左側の軸が単式,複式,特別支援ぜんぶ含む学級総数を,右側の軸がその中の複式学級数を示す。すでにこういうグラフは誰かが作っているかもしれないが,まあ自分の勉強のために。

パッと見て分かるのは,学級数は08年まで増加し,そこをピークにじわじわ減少してるのに対し,複式学級数は一貫して減少していること。

グラフには出していないが,学級数が増加しているのは特別支援学級の増加によるもの(03年:21,342→10年:30,329)で,単式学級数はほとんど横ばいか近年は微減。その中で複式学級が着実に減っているのはどういう意味があるのか。

こういう話って,自分が知らなかっただけで,教育学者の間では有名なのかな?日本で一番複式学級に詳しい人って誰なんだろう?

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集団となって初めて生まれる動き

dun (2011年4月 6日 08:44)|コメント(0)| トラックバック(0)

言語発達の研究をしているとずっと思っていたが、もう少し視点をずらして「集団となって初めて生まれる動き」の研究をしている、と考えてみてはどうかと考えている(ややこしいね)。

ある小学校の先生から教わったアクティビティに、フラフープを使ったものがある。数人で輪になり、それぞれ片手の人差し指を出す。出した指の側面にフラフープを乗せる。みなで協力して、フープにつけた指が離れないようにしながら、それを地面近くまで降ろしていく、というものである。

2人くらいでやればごく簡単なことである。肩の高さから、地面まですっと降ろすことができる。3人くらいでも大丈夫。だが、それ以上になってくるととたんに難しくなる。地面に降ろすことができないどころか、すすすっと上がってしまうのである。やってみるとすぐに分かる。

個々人の目標は集団内で共有されていて、みなそれに沿った動きをしようとする。そのために、強い結束を結ぶ。しかし、結果的に目標とは反対の方向に行ってしまう。この解決策は、目標の統一が同意された時点で、実際に活動にたずさわるメンバーを少数に減らすことである。逆に言えば、何人かはあえて傍観者にならなければならない。結束が強い分、傍観者は罪悪感を伴うかもしれないが、それが一番よい結果を生む。

これはゲームだから従事者と傍観者を切り離せるが、多くの社会的活動ではそうはいかない。特に教育の場には、子どもを集団的活動の従事者として動くよう圧力が強く働く。傍観者でいることはできない仕組みである。そうしたときに生まれる動きというのは、教育の場にはたくさん見られることだろう。

私が「集団となって初めて生まれる動き」と言うときに念頭に置いているのは、こうした現象である。

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いろいろあった日

dun (2011年3月26日 06:32)|コメント(0)| トラックバック(0)

なるべく歩くようにしている。風邪を引いたときにかかった医者で、血液検査を受けたところ、肝機能の数値が思わしくなかったので、運動しようと思ったのだ。

地下鉄数駅分を歩く。つい先日、大通りと札幌駅を地下でつなぐ空間が完成したので、大通りから北口のエルプラザまですたすた歩いていけるのである。

そのまま大学へ行くかと思いきや、駅地下の喫茶サンローゼに入り、モーニングコーヒーを飲みながら原稿を書く。10時までコーヒーが200円なのでお得。先月末までに出すはずだった、たった2ページの原稿をようやっと書き上げた。サンローゼは仕事がはかどってよろしい。

意気揚々と大学へ。途中、副学長を長く務められた逸見先生とばったりお会いする。その職をめでたく勤め上げられ、今月退かれる。この後は読書にいそしまれるそうだ。関わった一人一人のことを本当によく覚えておられる先生の鑑のような先生。うちの子どものこともきちんと覚えておられるのである。見習いたいが、難しく、恥ずかしい。

昼過ぎから会議。センターの整備をどうするかについて、さくさくと話し合う。まったく紛糾もなく1時間で終わってしまった。

その間もメールの応対やらなにやら。その間に郵便メールボックスをチェックすると発心研の新しいのが来ていた。K田さんには昨日届いていたというのにこの差はなんだ。ともかく、何を書いたのかすでにさっぱり忘れてしまった自分の論文が掲載されているのをチェック。一安心。

夕方から、お世話になっている小学校へ。今日は修了式と離任式があった。授業を観察させていただいた先生の中にもよその小学校へ異動される方が何人か。ご挨拶をしたかったのだが、お会いできなかったので来週またうかがうことに。

一度大学へ戻り、学院学部ウェブサイト担当の引き継ぎに備えて作業を。やろうと思えばいくらでも仕事が生まれる役回りであったが、それも来週でいったん終わり。今年度できることはすべてやっておきたいので、とりあえず年間行事予定表を23年度のものに差し替え。

帰宅し、家族とそのまま外食。とは言っても、肝機能の数値のことがあるので、たっぷりこってりしたものは避けたい。サラダと冷やし野菜うどんを食す。

そうそう、業者さんから電子辞書を受け取っていたのだった。CASIOのEX-word XD-B10000。本来であれば今頃真っ最中のはずだった学会が中止になったので、その旅費に割いていた予算が急遽浮いてしまい、使い切るために前から欲しかった電子辞書を取り寄せたのだった。ちょこちょこ遊んでいるが、とても便利。紙の辞書にもそれなりの良さがあるが、この手軽さにはちょっとかなわないな。

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データ取/撮り完了!

dun (2011年2月22日 13:08)|コメント(0)| トラックバック(0)

今日の調査で、この2年間継続して行ってきた、小学校の授業観察を一段落させることにした。

「継続して観察」と書くとご大層なことをやっているように思われるかもしれないが、たかだか、1年に2度ほど、1時間の授業をビデオにおさめるだけの話である。本当にきちんと「継続的に観察」されている研究者や、それこそ毎日授業をされている教師の方からすれば、ちゃんちゃらおかしいだろう。

それでも、昨年は1、3、5年生を各2学級ずつを観察し、今年はそれぞれ2、4、6年生になったところをフォローした。さらに今年は、新1年生2学級を3度にわたって観察させていただくことができた。

観察の方法として、ぼくはいつもビデオを使っている。原則として自分もその場にいるが、分析はビデオの映像に基づいて行う。そこに写った人々のやりとりをできるだけ細かく見ていくことによって、コミュニケーションの基底にある何らかの仕組みを探りたいと思っている。

中田基昭先生が、ビデオを見たって授業の本質は分からないというような主旨のことを書いておられた。ぼくはそうかもしれないなと思いながらも今のところは反発している。ビデオでなければ分からないことがあるのだし、現にそうしたことを見つけ出せている。

そうした方法上の副作用として、分析にやたら時間がかかる。この2年間、観察の合間合間に映像の分析をしてきており、その一部を切り売りして発表してきたが、まだまだ膨大にデータがある。映像の分析はともかく、同時に録った子どもたち一人一人の発話も書き起こしできていない。よくある、気になるところだけ、という書き起こし方針はとらない。定量的な分析をしたいので、できればすべて書き起こしをしたいのである。

そんなわけで、今年一年は分析とアウトプットにかまける。というようなことを正月の抱負に書いた気がする。

今回の調査には、協力をしていただいた学校の先生方、保護者のみなさん、そして児童の皆さんの助けが不可欠でした。札幌に根のないぼくにとって、学校とのコネを作るところから始めなければならないところ、当たって砕けろと飛び込み営業しにきた若造を受け入れてくださった校長先生、教頭先生には感謝してもしきれません。

ご厚意に報いるにはとにかく分析を完成させることしかない。がんばりますよ。

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文体としての教育

dun (2011年2月20日 13:05)|コメント(0)| トラックバック(0)

「ぼくは田舎教師でいるつもりです」

一日授業公開の振り返りの時間、おっしゃったこと。

「子どもたちは卒業後、このコミュニティで暮らしていきます。コミュニティで暮らす上で、仲間内で話し合う能力は絶対に必要です」

「自分たちの学校の図書館に必要なもの」をテーマにした子どもたちの議論を参観した先生の質問に対して、おっしゃったこと。

「オルタナティブな教育を求めて、自分でそういう場を作ってこられた方もいます。でもぼくは、公立の学校という制度の中でもう少しやっていきたい」

先日、上士幌中学校の石川晋先生が一日授業公開をされたので参加してきた。上の発言は正確ではないものの、記憶に頼って再現した石川先生の言葉。

公立学校は、公教育の理念を実体化する場である。これは多分にぼくの憶測を含むが、恐らく、先生は公教育の理念の「内容」ではなく、「方法」を方法において実体化しようとされているのではないだろうか。

内容はどうでもいい、という話ではない。内容にはそれに応じた方法がある、ということだ。そしてこの現在、目の前にいる子どもたちに応じた方法もあるだろう、ということだ。

文芸になぞらえるならば、言ってみれば文体としての教育である。文体とは、内容、読者、作者の三者による関係性のもとで生まれる何かである。内容と文体の関係はよく知られたものであるが、文体は誰が送り手で、誰が受け手かに応じても変わる。

石川先生は、この文体そのもののシフトに対して臆さない。授業における文体も柔らかい。硬直していない、と言った方がよいか。

自分の中では、まだあの一日のことを消化できていない。ただその印象を語るのに、これを書きながら「文体」という言葉がふと浮かんだ、というくらいである。

石川先生、参加者の皆様、上士幌中の先生方にはお世話になりました。子どもたちもすれ違うたびあいさつしてくれてありがとう。場違いなぼくが「ここにいていいんだ」という気持ちになりました。

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グロテスク・リアリズム

dun (2011年1月 9日 12:47)|コメント(0)| トラックバック(0)

グロテスク・リアリズムとは,民衆の〈笑いの文化〉のイメージ・システムのこと。

物質的・肉体的原理が,肯定的原理,普遍的で全民衆的なものとして把握される。宇宙的,社会的,肉体的要素は分割できない生きた総体,それは陽気な,愛想のいいもの。

ゆえに「孤立して自分の中に閉じこもる一切の動きと対立する」(p.24)し,「抽象化された観念性とも対立し大地と肉から解放された独立した意義なるものを僭称する立場を一切認めない」(ibid)。

システムを共有するのは「ブルジョワ的エゴイスティックな個人」ではなく,「民衆」。

このシステムの主要な特質は,格下げや下落,つまり,「高位のもの,精神的,理想的,抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと移行させる」(p.25)ことにある。

メモは以上。なお上記文中の引用はすべて,以下の文献による。

ミハイール・バフチーン 川端香男里(訳) 1980 フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化 せりか書房

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Youtubeで学ぶ心理学概論(2)―認知発達編

dun (2011年1月 9日 12:46)|コメント(0)| トラックバック(0)

次は認知発達編。ぼくの場合は,教科書をなぞってPiagetの発達論を主軸として,追加的になるべく新しめの知見を紹介するという授業構成にしている。

共鳴動作について。生後10分の新生児の顔の前で,大人が舌を出すと新生児も口をもごもごとさせる。

共鳴動作がおサルさんでも起こるかどうかを確かめた実験。確かに人間が口をぱくぱくさせると,おサルさんも口をさかんにもごもごしているように見える。この実験はFerrari P.F., Visalberghi E., Paukner A., Fogassi L., Ruggiero A., Suomi S.J. (2006). Neonatal imitation in rhesus macaques. PLoS Biology, 4(9): e302.にまとめられているようだ。PDFも公開されてる。

物の永続性について。赤ちゃんの目の前にあったオモチャが隠されると,赤ちゃんはすぐにそっぽを向く。

物の永続性と関連して,A-not-Bエラーについて。物の隠し場所を変えても,赤ちゃんは以前隠された場所を探してしまう。永続性に関する実験結果については解釈が本当に難しいようだ。

ピアジェの言う自己中心性について。いわゆる三つ山課題を使って,他者の視点から説明が可能かどうかを問う。

ピアジェの発達段階論で言う「前操作期」の典型的反応を3種類の保存課題で確かめる。1つ目の課題は水面の高さが変わっても液量は操作前後で等しいかどうかを問うもの。2つ目の課題は並べられた幅が変わってもコインの枚数は操作前後で等しいかどうかを問うもの。3つ目は...なんだろうね。量と数の区別ができているかどうか,ということを確認する課題?ちなみに学生に見せると一番いい反応が返ってくるのがこの課題。「こうして彼女は"大人は卑怯だ"ということを学んでいくのですね」と言うとうける。

ピアジェの発達段階論で言う「具体的操作期」と「形式的操作期」の反応の仕方の違いについて。現実世界ではあり得ない前提から演繹的に結論を導くことができるかどうかを問う。映像では「羽根でガラスをたたくとガラスが割れます」「太郎君は羽根でガラスをたたきました」「ガラスはどうなりましたか」と聞いていく。

大学生にとって,乳幼児に触れる機会というのはそうない。そのような場合,乳幼児の発達過程について説明する際に,ただ単に言葉を並べるよりは,映像で具体的な姿を見せてあげると反応がよい。ともすると「赤ちゃんは癒される」とか「子供はかわいい」とかいった,のんびりとした感想しか返ってこないかもしれないが,それでもイメージを残してやることが大切なのかなと思う。

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Youtubeで学ぶ心理学概論(1)―学習編

dun (2011年1月 7日 12:45)|コメント(0)| トラックバック(0)

Youtubeには心理学の自学自習に使えそうな動画がいくつも上がっている。非常勤で心理学概論を教えていたときにはそうした動画にたいへんお世話になった。そうした動画のいくつかについて,これから心理学を勉強しようという方のために,説明を加えながら紹介していきたい。

それらの動画には著作権者がおり,Youtubeへの投稿は恐らく著作権者の許可を得ていない場合が多いのではと思う。ただまあ,言い訳すれば,心理学関係の映像教材は普通に買うとなるとべらぼうに高いのである。たとえば心理学の講義を非常勤で持ち始めた大学院生にはとうてい手が出ない。

それでもなるべく良質の授業をしようと思えば具体的な例を動画で見せるのはある程度効果的だろうから,いきおい,無料で手に入る動画を資料として頼りたくなるのも人情である。そういう言い訳を前置きして以下に並べていく。まずは「学習」編。歴史を追ってみていこう。

まずはパヴロフの犬の実験。"Pavlov"で検索すれば動画は山ほど引っかかるが,再現ドラマ仕立てになっている上の動画は,実際の実験を正確に再現したものかどうか分からないにせよ,雰囲気は伝わってくる。

おなじみワトソンによるアルバート坊やの実験。この実験がどのようにして行われたのかについては,鈴木光太郎先生の「オオカミ少女はいなかった」あたりを読むと面白い。

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
鈴木 光太郎
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ソーンダイクの試行錯誤についての再現ドラマ風動画。パヴロフの後でソーンダイクを紹介すると,一人か二人は「動物虐待だ」と感想を書いてくる学生さんがいる。

スキナーによるハトを使ったオペラント条件付け実験の様子。ネズミの入ったスキナーボックスの動画なんかもたくさんある。

BBCのドラマThe Officeより。古典的条件付けがオフィスでも再現されるか,てなシークエンス。パヴロフの話をした後でこの映像を見せると笑いが起こる。ちょっと前だともう少し鮮明な動画があったんだけど。

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修論生のように

dun (2010年12月 1日 11:50)|コメント(0)| トラックバック(0)

今月の10日が完成原稿デッドラインという論文をうんうんいいながら書いている.この文章の句読点が普段使い慣れない「,」と「.」なのはATOKの環境設定でデフォルトをそれにしているから.

論文だけど,データはそれなりにあるのだが,投稿する雑誌の性質に合わせて問題を書いているうちに再分析が必要ではないかと思い始めたのが運の尽き.何をどうすればよいのやらととにかく手当たり次第数字を出しまくっている.

うちの学部ではクリスマス直前が卒論や修論の締め切りとあって,どこもかしこもピリピリとした雰囲気であるが,そういう雰囲気作りに一役買っているのではないかと.デスク周りのデータと論文のプリントアウトの山はまるで修論生のようだ.こういうときに限って,HDやUSBメモリが逝ってしまったり,プリンタが壊れたり,サーバが落ちたりとお約束のようなアクシデントが起こりがち.まだ大丈夫だけど.

10日までにそれは提出するとして,実はまだ大小2本ほど年内には出さねばならない原稿がある.そういう状況に嘆いていると,「ぼくは年内締め切りが7つある」と豪語される方もおられて実に爽やかな気持ちになる.

こんなの書いてる暇もないわけだがまあ12月になったしということで.

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怒濤の一週間

dun (2010年11月19日 11:49)|コメント(0)| トラックバック(0)

なんかあっという間に1週間が過ぎてしまって自分でも驚いている。

先週の土曜から、東京から来札したSさんと一緒に小学生を対象とした実験を大学でしていた。呼びかけに応じてくれた子どもたちが次から次へと来てくれたので、おかげさまで嬉しい悲鳴をあげながら1週間が過ぎたのである。

その間、Kさんとその娘さんと一緒にうちの子どもも連れてボウリングに行ったり、調査をお願いしている学校で授業見学と研究発表をさせていただいたり、神谷先生のヴィゴツキー本を読む会を企画したり、実家に帰省する妻子を空港に送っていったり、実習の準備をしたりと合間の業務をこなしていた。

実験は火曜まで続く。

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子どもの会話に分け入る

dun (2010年9月 8日 11:18)|コメント(0)| トラックバック(0)

p> 9月1日の読書会では,レポーターを含めて12名が参加。活発に議論が繰り広げられました。参加していただいたみなさんに感謝です。

 読んだのはGardner, H. & Forrester, M. (2010). Analysing interactions in childhood: Insights from conversation analysis. Wiley. この中から5章を選んで読みました。以下,感想です。

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3章 Ethnomethodology and adult-child conversation: Whose development? (Michael Forrester).

 トップバッターとして不肖私が紹介したのは,エディターでもあるMichael Forresterの論文。Forresterはケント大学の先生。

 子どもの言語的スキルの発達過程を研究する上で,会話分析の手法が用いられることが増えてきたのはいいとして,会話分析にはもともとエスノメソドロジーという方法論的前提があったはず。発達という概念に対するエスノメソドロジー的な問いは,どのようにして「発達」が構築されるかというもの。そこで,子どもと大人による会話において,子どもが有能なメンバーとして社会的に取り扱われるためにはどういう条件が必要なのかが検討された。

 エラちゃんという女児が事例に出てくるが,1~2歳の頃は家族から「子ども扱い」されている。ところが3歳になると,自分を子ども扱いする親の発話実践に対して「それはおかしい」と異議申し立てをするようになる。

 ここからは,本論文を受けてのぼくの提案だが,子どもを含む人々の実践の帰結として達成される「発達A」と,「発達A」実践を可能にするある個人の「発達B」を分けた方がいいのかもしれない。なにしろ赤ちゃんは,話せない状態から話せる状態にならないかぎり,発達A実践に携わることもできないのだから,どうしたって発達Bは必要(成熟と言ってもいい)。

 では発達Bの帰結としての発話はすぐに「発達A認定実践」の網の目に取り込まれてしまうかというとそうでもなくて,発達Bとしてはなかなか達者なパフォーマンスをディスプレイできているにもかかわらず,発達Aとしてはずっと「子ども扱い」されていたというのがエラちゃんの事例から明らかになったことだった。

 読んでいるときは物足りなかったが,当日参加されていた札幌学院大の森先生からいただいたコメントで「なかなか面白いかも」と見方が変わった論文。なお著者のForresterの大学でのウェブページからこの論文で扱われている事例がムービーでダウンロード可能。

5章 Children's emerging and developing self-repair practices (Minna Laakso). 

 2本目はMinna Laaksoの「幼児における自発的修復実践の発生と発達」。Laaksoはヘルシンキ大学の先生。所属はDepartment of Speech Sciencesってなかなか楽しそう。

 データは2002年から07年にかけてフィンランドで行われた大規模な縦断・横断研究からのもの。責任者はLaaksoご本人。そういうプロジェクトができてしまうところがまずすごい。

 子ども自身が自分の発話を「言い直す」(repair)事例を整理して示してくれている。早い事例では1歳0ヶ月でそのような場面が観察されたらしい。このことは,言語発達初期から「この言い回しは違うぞ」という気づきのようなものが芽生えていることを示すと述べられる。

 言い間違いの修正という実践は相当に高度で,というのもその前提にはメタ認知的な能力が想定されるから。そんなことは1歳代には無理だろうと一般には思われるかもしれないが,ぼくら大人は必要以上に小さな子どものことを無能扱いしているのかもしれず,この研究もそうした見方を改めさせる。

6章 Questioning repeats in the talk of four-year-old children (Jack Sidnell).

 3本目はJack Sidnellの「4歳児の会話における同じ言葉による問い返し」。Sidnellはトロント大学の先生。

 会話にはたまに同じ言葉を用いて問い返す実践が現れる。「こちら,4000円のご奉仕価格!」「えーっ,4000円?」とか。情報学的には,同じ言葉を繰り返すことには情報的な価値はまったくないが,会話の社会学的には,繰り返すことでいろいろな機能を果たすことができる。たとえば同意とか,批判とか。質問というのもそうした機能の一つだ。

 同じ言葉を繰り返すという言語使用が4歳児と5歳児の自由遊び場面にどのように見られたかを調べたのが本研究だが,結果から言えば,4歳児の方が5歳児よりもそうした問い返しを多く使用していた(約2倍)。この発達的(これは発達Bね)な違いは何によるものだろう?

8章 Feelings-talk and therapeutic vision in child-counsellor interaction (Ian Hutchby).

 4本目はIan Huchbyの「子どもとカウンセラーのやりとりにおけるフィーリングス・トークと治療的なヴィジョン」。Huchbyはレスター大学の先生。

 親の離婚を経験して,そのことでカウンセリングを受けさせられる子どもとカウンセラーの会話が分析される。面白いのは,「どう思う?」とカウンセラーが尋ねても,子どもの答えはたいてい素っ気ないこと。カウンセラーは自分の見立てを押し通し,子どもの発話をその枠組みにおさめて見ようとするが,あくまでも子どもの発話は素っ気ない。それはそうで,カウンセラーには会話を続けていく義務が職務としてあるのだが,子どもにはそんなものはないのだ。

9章 Intersubjectivity and misunderstanding in adult-child learning conversations (Chris Pike).

 最後の5本目はChris Pikeの「大人と子どもによる勉強中の会話における間主観性と誤解」。Pikeはカンタベリー・クライスト・チャーチ大学の先生。

 小学校の先生と1人の6歳児とが,算数の問題を解いているところを分析。子どもは何を話せばいいのかはよく分かっていて順調に会話をこなしているが,問題の構造はまだよく理解できておらず,結局同様の課題を何度も繰り返すことになっている。面白いのは,子どもの手が「誤り」だということが顕在化せずに円滑に会話が進んでいたこと。
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 こうして見ていくと,子どもの会話にはまだまだ分け入っていく余地が大いにある感じです。その際に頼みになる理論はと言うと,まだちょっとぴんと来ないですが。このあたりを今後は考えていかねばならないと思います。

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授業のリズム

dun (2010年6月18日 23:14)|コメント(0)| トラックバック(0)

 いくつかの授業を見てきて思うことは、同じ単元であっても、先生によって授業の進め方はまるで違うということだ。

 特に、やりとりの進め方が異なる。具体的に言うと、顕著なのが、リズムだ。コミュニケーションのリズムに気を遣っているかどうかは先生によってだいぶ意識に差がある。

 リズムに気を遣う先生は、自身の話し方にメリハリをつけることはもちろんなのだが、それを子どもたちにも求める。というのも、いくら自分の話し方でリズムを整えようと思っても、受け答えをする相手がそれに乗ってこなければ、トータルとしてのリズムはいびつなものになるからである。

 餅つきにたとえれば、先生がテンポよく「こねどり」をすることによって、子どもたちの杵を上げ下げするテンポが先生のリズムに引き込まれていくような、そんな感じを目指しているように思えた。

 たとえばある先生は、発問に対する子どもの回答があまりにも長くなると、途中でも切ってしまうという。発言する内容が事前にまとまっていなければ、子どもたちは「あのー、それでー、だからー」と、だらだらとした話し方になってしまう。これでは、先生の発話のテンポがよかったとしても、コミュニケーション全体のリズムは整わない。そういうときには、「、(てん)」で終わるのではなく、「。(まる)」で終わりなさいと指導されるのだそうだ。当然、「短く言い切る」の言い換えである。

 発言を短く言い切ることができるようになれば、自ずと先生と子どもたちのやりとりのリズムは整然としてくる。それは、とりもなおさず、先生が自身の話すテンポに自覚的にならなければならないということでもある。

 いずれにせよ、コミュニケーションのリズムが教室全体で整っていくことにより、子どもたちの授業への集中の度合いは高まっていくように思われる。これはまだ観察者の直感的なものである。

 ただ、授業中の子どもたちのとある非言語的行動を時間軸に沿って見ていくと、コミュニケーションにリズムがあるなと感じた授業については、時系列グラフにそのリズムがはっきりと見て取れる。その点についてもう少し掘り下げていくと面白いのではないかと最近考えている。

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ポジティブに行こう

dun (2010年4月13日 22:38)|コメント(0)| トラックバック(0)

 1限から実習。初回なので読めない人数を過去の経験から推測してその分レジュメを刷ってでかける。

 教室の前にはチベットからの研究生。ぼくが受け入れ教員なので呼んでおいたのであるが、「教室に誰もいません」と不安そう。

 部屋に入りしばらく待っていると学生さんが1人。そしてそのまま2人だけでとりあえず始める。

 しかし、いろいろ話を聞くと、どうも研究生1人だけになりそう。誰も受講者がいないというのはこれまでにない経験で、さすがにがくっと来た。

 誰も来ないなら来ないで、研究生の勉強のために、実習の時間帯を利用して、市内の保育園・幼稚園を見学しに一緒に回ることをたくらむ。ポジティブに行こう。

 研究室に戻ると、投稿していた論文の審査結果が。ちょこちょこと修正すればよさそう。

 さらに翻訳会社からメール。小学生の保護者の方に渡す調査の案内と同意書を英訳してもらっておいた。保護者の中に日本語が読めない方がいるため。本当はそれぞれの国の言葉で書いたものを揃えておければよいのだが、そこまでの余裕がない。

 研究もゆっくりとだけど進んでいるような気がする。ともかくポジティブに考えていこう。

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書くのが苦手

dun (2010年2月16日 22:09)|コメント(0)| トラックバック(0)

 インプットは大好きでアウトプットの苦手な私です。

 論文というのが本当に書けないのですね。研究者が行う実践として調査,分析,執筆がありますが,私は調査は大好きであとの2つは大の苦手です。「データ取りはやりますからあとはお願い」と放り出せたらどんなに楽だろうと思うのですが,そうはいかのなんとやらであります。

 そんな私なので公刊された論文というのは皆無です。

 しかしそんな人が学府に居座っているのは誠に不合理きわまりないので,がんばって書いてみました。書いた,というのが分かる証拠に,この文章の読点を眺めてみてください。

 データはなんと2001年のもの。今から10年も前のものです。今年の正月からデータの再分析を始めて,何が言えそうかを整理して,文章に仕上げて,もろもろくっつけて,いまさっき電子投稿しました。

 まだ分析と執筆を待っているデータが山のようにあります。古くは2002年のものから今に至るまで。調査協力者の方と連絡が取れるうちに早く救い出さねばなりません。

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がんばらねば

dun (2010年2月 8日 22:06)|コメント(0)| トラックバック(0)

 朝から、調査でお世話になっている小学校へ。

 5年生の算数と国語の授業を見せていただいた。調査の対象としているのは国語だが、担任の先生の希望もあって算数も見せていただく。

 見学の後、校長先生とも少しお話をする。夏前に行った調査から分かってきたことをかいつまんでお伝えすると、とても面白がっていただくことができたようで、先生方の前でお話をする機会を設けていただけることとなった。おまけに新聞社の取材も呼ぶとのこと。

 身の引き締まる思いである。がんばらねば。

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研究者自身で何ができるか

dun (2009年11月23日 21:31)|コメント(0)| トラックバック(0)

 研究に対する事業仕分けについてもう少し考えてみましょう。

 ちょうど、自分の入っている学会から、学会として意見を申し述べた方がよろしいのではという旨の会長名義メールが届いたところです。研究費の削減は、研究者の自由なアイディアに基づく研究を不可能にするがゆえに、この国の科学技術の発展を妨げるという趣旨のメールでした。

 その通りだなと思います。思いますが、もう少し立ち止まって考えてみましょう。

 実際のところ、他の事業も含めた予算総額は限られています。その中でのパイの奪い合いが起こっているわけで、いくら研究が大事だと言ったところで、現在以上に使える予算が回ってくることはないでしょう。

 だとすれば、余力のあるうちに、税金を効率よく使うシステム、税金に頼らずに研究を推進するシステムを部分的にでも作っておく必要があるのではないでしょうか。恒久的な研究基盤づくりをする上で、今後再びの政権交代もあり得る政府はアテにならないことははっきりしたわけですから。

 じゃなきゃ、そんなシステムすら自前で考案できないような(人文社会科学も含めた)研究者には、やはり予算を渡すわけにはいかないよね、と言われてしまいます。では、何がシステムとして可能でしょうか。私には思いつくことはわずかです。

 (1)単年度予算をやめること。年度末になると、予算が余ってるからという理由でどうでもいいものを買っていたりあちこち出張していたりする研究室を私は知っています(ちなみに私は年度途中でほぼ使い切ってしまいます)。現実としてこうした「ムダ」な執行はあるわけですから、それをいかに「ムダ」にしないかが求められる。そこで、複数年度に渡る予算執行をさっさと認めて欲しいわけです。ただ、これは財務省の協力が確実に必要ですね。

 (2)研究成果による儲けを研究費にまわすこと。あまりにも単純といえば単純ですが、一番健全な姿なのかもしれません。儲けを産み出しにくい研究領域ももちろんあるわけで、そのような場合には、たとえば一般書などを執筆した場合の印税をプールするための仕組みを作っておくことも有効では。微々たる印税も積もり積もれば億の単位になるかもしれません。

 あまり鋭いアイディアは出ませんね。これが私の限界ということでしょう。

 ともかく、これからの研究者が税金に頼り続けることはもうできないと認識しておくべきでしょう。うまいシステムはないもんでしょうかね。

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書き起こし随想(2) 聞き手のタイプ分け

dun (2009年11月10日 21:28)|コメント(0)| トラックバック(0)

 授業中のコミュニケーションを「聞き手」の側から描こうと目論んでいる。その際にどのような枠組みをもってくるか。Goffmanの参加役割は使えないか。

 Goffmanによれば会話の聞き手は多様に分化しうる。話し手の発話を聞くことができる範囲には、承認された聞き手とそうでない聞き手とがいる。通常、承認された聞き手と話し手を含めて「会話の輪」と呼ぶ。が、輪の外には、輪のメンバーとして承認されていないものの、聞いている人というのは存在する。食堂の隣のテーブルに座っている人なんかそうだ。

 この水準では、教室内のメンバーはすべて承認された聞き手である。参与観察者はどうか?一般的には承認されていない聞き手なのだが、学校の先生のなかにはそれを許さない人もいて、「ちょっとあそこにいる先生にも聞いてみよう」と話を振ってくれることがある。

 承認された聞き手もいくつかに分かれうる。どのように分けるかが分析のポイントになるだろう。

 話し手との協働性、相互行為の連鎖といった観点からは、発話に返答すべき者とそうでない者という分け方ができる。これは聞き手が自分で決定することができない、という意味で話し手との協働の結果であるし。さらには、自分がそのうち何者であるかは発話連鎖という文脈のなかで決まってくる。

 教室の子どもたちは自らをどのように位置づけるのだろうか?ある子どもが指名されて発言する。それに対して、子どもたちのなかには「ふーん」「あー」と相づちをぼそっと言う者もいる。挙手をして「似ていまーす」「同じでーす」「違いまーす」と自分の意見との比較を言う子もいる。彼らは「返答すべき者」として位置づけているのかもしれない。

 一方で、何もしない子、何か授業に関係していないことをしている子もいる。そもそも、授業とは別の会話の輪を作っている子もいる。彼らは「返答すべきでない」あるいは「しなくてもよい」と位置づけているのかもしれない。

 このように聞き手としての参加のありようをいくつかの種類に設定し、そのカテゴリーをもって子どもたちの立ち位置の時系列的な変化を記述してみたい。その際の行動指標は、発話内容、そのタイミング、視線といったものが想定しうる。

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書き起こし随想(1) 勝手に学ぶ

dun (2009年10月31日 21:22)|コメント(0)| トラックバック(0)

 小学校の授業について、可能な限りすべての子どもの発話を聞き取りながら書き起こしを作っている。ひとりひとりに専用のICレコーダを装着してもらったので、つぶやきが聞こえて大変に興味深い。

 それを聞いていて思うことは、教師の発話も他の子どもの発言も、ある子どもにとっては背景音のひとつに過ぎないということ。実際のところ、教室内の座席位置によっては教師の声の聞こえ方に著しい違いがある。

 加えて、子どもは学習のコンテクストを授業内でみずから選択し、作り出し、なんらかの達成を得ようとしていることも見えてきた。仮想的なたとえを出せば、授業中に消しゴムかすを一生懸命作ろうとしているとか、一言もしゃべらずにいようとしているとか。これを悪くとらえれば、「授業に参加していない」のであるが、もう少しポジティブに受けとめるロジックは作れないか。

 月並みな言い方であるが、「授業に参加していない」ように見える子どもも、学ぶことを放棄しているわけではない。みずから学習の課題を設定するなかでコンテクストを選択し、その枠内で課題達成しようとしているのである。要は、子どもは勝手に学んでいるのである。

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Skypeは難しい

dun (2009年10月19日 21:14)|コメント(0)| トラックバック(0)

 とある打ち合わせのため、日曜なるも大学へ。

 打ち合わせ会場は横浜である。札幌の研究室と横浜の某研究室とをSkypeで結んでみる。某研究室に打ち合わせ参加メンバーがそろっていて、ぼくは一人このような形での参加である。アカウントは以前から取っておいたのだけど、使う機会がなかったので、初めての体験である。

 最初はとても面白かった。時代は進んだなあ。

 さて、打ち合わせが終わり、結果として思ったこと。

 可能であれば、会話の場に直接いた方がいい。

 ネットワークの調子如何で、動画と音声のクオリティがコロコロと変わる。最後の方はぷつぷつ途切れてばかりであちらの会話がほとんど聞き取れなかった。

 それもあるのだろうが、今、自分に話しかけられているのかどうかがよくわからない場合が多い。「伊藤さん」という言葉が会話の端々に出てくるのだが、それが自分に対する呼びかけなのか、それとも自分のことが話題に上っているだけなのかが判別つかない。

 これは相互行為分析的にはよく理解できる。というのも、会話場面において参加者はネクストスピーカーの選択のためにいくつものリソースを用いているのだが、そのうちいくつかがSkypeでは使えない。たとえば視線などだ。向こうでは複数の参加者が視線のやりとりをしていて、会話のアドレスが自明であるために、かえってこちらには不明になる。このことは、文字によるチャットと比較すればよくわかる。文字だけであればネクストスピーカーの選択を文字で行うことになるから、参加者全員にとって自明になる。

 そういったことを考慮に入れた上で、ひとくふう入れれば、とても楽しいツールになりそう。たぶんそういう工夫はもうすでになされているのだろうな。

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書き起こし支援ソフト「Voice Writing」

dun (2009年7月29日 17:17)|コメント(0)| トラックバック(0)

 授業が終わったので、これからたまりにたまった録音の書き起こし作業をはじめる。そこで不可欠なのは、テープリライター向けのソフトである。

 テープリライティング用のソフトはこれまでにいくつかあった。ぼくが利用していたのは「おこしやす」と「SndPlay」。最近ではもっぱら「SndPlay」ばかり使っている。「おこしやす」は、いつの間にかバージョンがあがって「おこしやす2」になっていた。

 これから作業を始めるにあたり、なにか新しいソフトは出ていないかしらとVectorをのぞくと。おお、よさそうなものがリリースされているではないですか。

 Voice Writing株式会社ボイススピリッツ

 キーだけで音声を操作することができるのはもちろんだが、珍しいのはエディタが内蔵されている点。しかもそのエディタは2つのペインに分かれていて、左端には発話者やタイムコードを打ち込むことができる。この辺はすばらしい。

 現在公開されてるのはフリー版とのことで制限が大きい。これは商品版に移行させるための仕掛けだろうが、お金を払っても使ってみたいと思ってしまう。

 テープと格闘することの多い研究者で、お金が余っている方は、購入を検討する余地がおおいにあるだろう。

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【PMF】7月4日(土)

dun (2009年7月 4日 15:35)|コメント(0)| トラックバック(0)

 4日午前に芸術の森アートホールにて札幌交響楽団とPMFオーケストラメンバーによるリハーサル。 次の日にKitaraで開かれるウェルカム・コンサートのリハ。

 本番の演目は、最新パンフによれば、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、モーツァルトの 「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。

 10時45分から午前のリハ開始と事前の案内があったので、アートホールに10分前に到着。練習室にはすでに奏者が集まっていた。 弦が65人、木管が16人、金管が19人、ハープが2人、パーカスが5人の計107名。大所帯だ。まだ指揮者は入室していないように見える (2階席なので、真下にある1階入り口付近の様子は見えない)。個々人がめいめい音を出す。自席に着いている人もいれば、 荷物置き場で音を出す人も。チューニングではない。みなラフな格好。

 コンマスは男性、白い細身の半袖シャツにジーンズ。若い。後で気づいたが、彼だけイスの種類が他の人とは異なる。 他は折りたたみイス、彼はピアノを弾く時に座るようなイス。

 45分になり、長身の男性が指揮台の脇に立ち、奏者たちの方を見ながら手を挙げ、かれらが音を出すのを止める。 「2コマ目の途中で終わります」「フィンガルが」後から気づいたが、彼はバスクラの奏者だった。その日本語での説明の後、 ワイシャツを来た男性が英語で同じ内容を説明。今日の予定を全体に対して説明する機会はこれだけだった。

 47分、指揮者の尾高忠明氏入室。黒いTシャツに黒いパンツ、黒いスニーカー。指揮台に置かれたイスに腰を置き、 「おはようございまーす」。指揮棒を右手に持ち、30度ほど腕を持ち上げ、そのまま振り上げるとすぐさま演奏に入った。 指揮者からは何の説明もない。

 曲目は「英雄の生涯」。40分以上ある曲だが、そのまま最後まで通して演奏。その間、演奏していない奏者たちは退屈そうにしている。 たとえば出番がない時は、腕や足を組み、目をつぶっている人もいる。パーカスはほとんど出番なしのためずっと座って腕を組みっぱなし。 文庫本(?)を読んでいる人も。

 トランペット3人、演奏の途中で席を立ち、後列に置かれた3つのイスに座り直す。何だろうと思っていると、 そこでファンファーレを鳴らした。指揮者はその3人に対して左手で何か合図。元の席にもどれということだろう。

 終了。指揮者、各パートごとに指示を出す。英語で。パートが日本人だけで編成されている場合は日本語で指示。 英語でも日本語でも擬音ばかり。「ティヤーッタッタッタ」「ティヤーティヤー」「ヤカタカタカタカ」「ポンポンポン」「ヤーラリラリ」 「タリラリラリラリラリ」

 譜面のどの個所を吹くのか、ピッコロ間違える。頭を下げ、左手をひょこっと上げる。チューバへの指示の出し方。「もう少し遠くで」。 吹き込む息の量が少なすぎ、音が出ず。「遠すぎです」。

 11時45分、指揮者が15分休憩の指示。建物の外に出てタバコを吸う者、コーヒーを飲む者、本を読む者、音を出す者、話す者。

 11時58分、尾高氏入室。Tシャツが変わっている。汗をかくから?それでもやはり黒。

 「英雄の生涯」の続き。パーカス、座っている席の後ろにあるゴングを鳴らしてしまう。 真正面に座っているトランペットパートの年配の男性、両手を顔の脇に置いて前後に揺らす。スネアの男性(ゴングを鳴らしたのではない人)、 両手を頭の上で合わせる。指揮者に謝っているふう。

 バリトンオーボエの奏者に、指揮者が「○○さん、□□からもう少し大きくできる?できないなら...」。バリトンオーボエ、 「やってみます」。はじめて双方の発話をともなうインタラクションが見られた。これ以外にインタラクションはなかった。たとえば、 セカンドバイオリンの席に座る女性に、指揮者から細かな注文が頻出。例としては曲想について。「老人が天国に行く際の平安を」とかなんとか。 女性はただだまって聞くだけ。練習終了後、隣のセカンドバイオリンの女性と楽譜を見ながら話し合う。

 12時30分、尾高氏がメンバーに「2時に戻ってきてくれ」と英語で言い、午前の練習終了。

 13時からの野外ステージで開かれる開会式を見る。ファンファーレ、市長挨拶、エッシェンバッハ挨拶など。 ウィーンフィルから来た奏者によるモーツァルト「クラリネット五重奏曲イ長調」。そこで立ち、再びアートホールへ。

 14時からのリハーサルはすでに始まっていた。メンバーが減っている。日本人のみ。曲目の違いによる?弦40、木管8、金管4、 パーカス2。午後最初の練習曲目は「フィンガルの洞窟」。午前中最初にバスクラの男性が話していた「2コマ目」とは2つ目のこと? 尾高氏のTシャツが替わっていた。また黒。

 「結婚式が遠くに聞こえる」「モルダウと同じで」

 14時30分頃、「ここで休憩していきましょ」と指揮者が告げる。メンバーのうち三分の一くらいが帰り支度をしていなくなる。

 休憩時間中、指揮台の隣にハープが運び込まれる。コンマスのイスが移動。このあたりの作業をするのは、演奏者ではない男性。 ピンク色のTシャツ。移動させたイスに座って見え方の確認(?)。

 14時45分、練習再開。尾高氏のTシャツがまた違う。今日4着目。ハープとフルートはゲスト。それぞれ、クサヴィエ・ドゥ・ メストレ氏とヴォルフガング・シュルツ氏。指揮者がイスに腰掛けながら左手を2人の方へ上げる。メンバーは足を踏みならす。 ハープとフルート、コンマスと握手。次いで指揮者と握手。

 曲目は「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」。指揮者による指示はほとんどない。3曲流す。1度、 曲を止めてセカンドバイオリンに対して指示。

 15時15分、3曲が終了。「どうするんだろう」というようにハープがきょろきょろ。フルート、「ヤンタラータラー」ではなく 「タランタラン」だと指揮者に伝える。「同じことをさきほど伝えていました」と指揮者。フルート、コンマスの楽譜を見ながらコンマスと話す。

 メンバーはほぼ全員帰り支度を始めている。今日はもうリハはないのだろうと判断、帰途につく。

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【PMF】リハーサルから見るPMF

dun (2009年7月 4日 15:33)|コメント(0)| トラックバック(0)

 Pacific Music Festival、略してPMFが本日開幕します。PMFとはレナード・ バーンスタインが提唱して開催されるようになった、若手音楽家のための教育音楽祭です(公式サイトより)。 今年で20回目の節目を迎えて関連するイベントも企画されているようです。

 札幌に住んでいますと、毎年この時期になると通りのあちこちに音符の描かれた旗がひらめいて気にはなっていましたが、 これまで足を運んだことはありませんでした。今年はできるだけ音楽を聴く機会をつくりたいと思っています。というのも、 9月の学会で音楽教育に関するシンポに出ることになったのですが、そうした分野にはこれまで触れたことがなかったのです。 なんとか何かひとこと言えるようになっておこうと、PMFに参加することにしたのでした。

 参加と言ってもコンサートを聴くだけでは「音楽教育の成果」しか知ることができません。ですので、リハーサルを聞くことにしました。 申し込むと、開催期間中に開かれる芸術の森やKitaraでのリハーサルを見学することができます。 私は開催期間中すべてのリハーサルを自由に観られる通しチケットというのを取りました。15,000円。

 それに加えて、来週末に学校の音楽教育関係者や学生を集めて開かれる音楽教育セミナーというのにも参加することにしました。 私自身は音楽教育に携わっているわけではありませんが、何か糸口がつかめるかもしれないという思いです。

 先日、芸森でのリハーサルを少しだけ見てきました。弦のみの編成で45人。やはり奏者は皆若い。指揮は(おそらく)ルイス・ ビアヴァ。見るといっても、アリーナ席で上から見下ろすような感じです。近づいて話しかけたり楽譜の書き込みを見ることはできません。

 私自身ブラバンでラッパを吹いていたのですが、練習の様子はオケもあまり変わらないというのが今のところの印象。 実際はだいぶ違うのでしょうね。たとえばビアヴァは「タラリタラララ」「パンパンパン」「ターンターン」「シーパパパパ」 と擬音で欲しい音のイメージを伝えます。また、奏者と指揮者とが楽譜をともに見ながら演奏について相談するという場面は、 いまのところコンマスとだけ見られました。オケと指揮者との関係とはそういうものなのでしょうか。

 知りたいのは、このリハーサルがいかにして「教育」の場として成立しているのかということです。 おそらく奏者は何かを学びに来たのであり、指揮者もまた何かを教えようとして来ているのでしょう。 そこがプロとプロのやりとりとの違いだと思われます。では、その関係性はどういう場面において見られるのか。もしかすると、 私のブラバンでの練習の仕方と同じだなと感じたのは、両者共に「教育であること」を前提として組織されているからでしょうか。 よく分かりません。

 ひとまず今日も終日芸術の森にいりびたってリハーサルを見てきます。楽譜が手に入らないかなあ。

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すおっ(声にならない叫び)

dun (2009年4月 6日 20:49)|コメント(0)| トラックバック(0)

 2年連続で空振っていた科研費ですが、今年から3年の間、いただくことができるようです。メールボックスに書類が入ってました。どなたに御礼を言えばいいのか分かりませんが、ありがとうございました!!!!

 このところ気分が沈みがちだったのですが、少し上向きになってきました。

 研究計画書ではだいぶ大風呂敷を広げてしまったので、形にするのが今から悩ましいですが、とにかく3年間がんばります。今回の研究の舞台は小学校。さて、どうなるか...。

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ヴィゴツキーのドキュメンタリー!

dun (2009年2月26日 22:07)|コメント(0)| トラックバック(0)

 ヴィゴツキーに関するドキュメンタリー映画ができたのだそうだ。これは、青山学院大の高木光太郎先生のブログからの情報。高木先生は、Holzmanのブログを参照している。

 Lev Vygotsky Documentary 公式サイト

 解説を読むと、映画はおよそ2時間。その生涯、理論解説、実践の3部で構成されているとのこと。そうそうたる方々が出演している。

"Lev Vygotsky: one man's legacy through his life and practice" explores the compelling story of this father of Russian Psychology. This documentary uses a mixture of interviews and commentary from family members Gita L. Vygodskaya and Elena Kravtzova, renowned professors/educators including Michael Cole, Lois Holzman, Vera John-Steiner, Alex Kozulin, Tamara Lifanova, Luciano Mecacci, James Wertsch, and others, archive photos, film footage, narration, and Vygotskian practice examples. (公式サイト解説より)

 サイトではDVDが販売されており、1枚400ドル。だいたい4万円弱?ISCAR会員だと2割引だそうだ。私は非会員。会員のどなたかにお願いしよう。まずはM先生か。

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科研と打ち合わせと野球

dun (2008年10月23日 15:19)|コメント(0)| トラックバック(0)

 昨日は朝から研究室にこもってパチパチとキーボードをたたいていた。科研の申請書を書いていたのである。

 本来であればその前の日が(大学の事務での)締め切りだったのだが、電話で頼み込んで1日のばしてもらっていたのである。 まったくもってよい教師ではない。

 なんとか体裁を整えて2部印刷し、1部ずつクリップで留めて提出。電子申請になって楽になったのはこの点だ。数年前は、確か、 両面で印刷し、端をのり付けして、角に色を塗ったものを7部くらい提出しなければならなかった。電子申請になり、そういう作業はすべて「あちら」 でしてもらえることになったそうである。

 提出したのもつかの間、全学の授業へ。英語をぱあぱあと読む。

 研究室にとんぼ返りし、Kくんと研究の相談。状況的学習論第2世代をうそぶくからには、いったい何を発信する必要があるのか。 やはり実例をもっている人は強いと思う。Kくんにはそういう体験に裏付けられた議論を展開していってもらいたい。

 打ち合わせを終えて、そのまま2人で打ち上げ。久々に13条の「しょうた」へ。そういえば昼飯を食っていなかったことに気付く。

 Kくんがタクシーに乗ったのを見届けてから、地下鉄で平岸へ。「もつ一」。黒ホッピー、厚揚げ、小袋刺しをルーティンのように注文。

「日ハムどうだったの」、とぼく。
「負けちゃった、完敗」、とおかみさん。

「何対何」「キュウゼロ、ヒット3本じゃどうしようもないよ」「向こうは打つからねえ」「セリーグはどっちかな」 「中日じゃないですかね、巨人は中日と相性が悪いし」

 カウンター越しに野球の話。野球をよく見るようになって、何がよかったかというと、こうして居酒屋で話すネタができたこと。 天井を見ると、「誠」「賢」と勘亭流で書かれた旗が。札幌の居酒屋で、日ハムの悪口は言わない方がよろしい。

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ヴィゴツキー『心理学の危機の歴史的意味』の意味について

dun (2008年9月27日 14:28)|コメント(1)| トラックバック(0)

 以下は、以前執筆しようとした論文の冒頭に置かれるはずであった文章である。書いてはみたものの、結局は使わずに終わった。前後の文脈がないので読む方には何のことだか分からないとは思うが、ヴィゴツキーの理論について理解する一助になるかもしれないと思い、ここに掲載するものである。

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 あらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる人物において等しく該当する唯一の説明体系を求めようとする人びとがいるとしたなら、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーはそこには含まれない。人間のあらゆる精神機能を説明する究極の原理などとたいそうなことを、彼は決して言わなかった。その代わり、ごくごく小さなこと、たとえば目の前にいる子どもに触れて、言葉をかけてみるなど、そうした些細な出来事に目を向けた。

 この文章を読む方も、もしも目の前に誰か知り合いがいたら、何か話しかけてみてほしい。話しかけるという出来事が、いつでもどこでも誰にとっても同じ出来事を引き起こすということがあるだろうか。「やあ、元気?」とのあなたの問いかけに、目の前の誰かは、「元気だよ、君は?」と、いつもどこでも返事をしてくれるだろうか?これには否と答えておいた方がいいだろう。「最近だめなんだ」と悲しい表情をする人、「なんだよ、突然」と訝しがる人、無言であなたの方を一瞥するだけの人、このほかに何が起こるのか筆者には見当もつかないが、とにかく一言で片付けられないことは間違いない。

 話しかけるという出来事の帰結は、確かに多様な出来事である。しかし、こうして発生した多様な出来事のひとつひとつは、この世界に起こり得ることの完全な表現であるはずだ。起きてしまったことは仕方がない。結果の多様性という事実は、決して否定できない。たとえ仮想された唯一の説明体系から見ると互いに矛盾していたとしても。この意味で、多様な出来事はこの世界の可能性を実にみごとに反映している。多様な出来事のなかには、唯一の説明体系から予測されるものも含まれるだろうが、例外もあるはずだ。ひとつの説明体系が予測する出来事も、そうでない出来事も、等しく世界に発生するならば、その説明体系とはいったい何の役にたつのだろう?せいぜい、説明体系にうまくのった人間を正常、のらない人間を異常もしくは人間ではないものとして区別するだけの道具にしかならない。

 起きてしまったことは多様で、そこにいたるまでの道筋も多様である。これが、ヴィゴツキーの言う「具体的多様性」(『思考と言語』邦訳上巻 pp.18-9)であろう。しかし、それが起こるきっかけはどうだろうか。これを読む方々が、それぞれ目の前の人に話しかけた結果としての返事は、確かに多様であろう。しかし、その結果を発生させたのは、あなたが話しかけたという、まさにその出来事にほかならない。多様な返事は、まさにこの「話しかける」という出来事から出発している。

 ところが、単に「話しかける」という出来事は存在しない。実在するのは、誰かが誰かに話しかけるという出来事であり、本章の読み手が異なれば、当然その「誰か」も変わってくる。つまり「話しかける」という出来事も、実際には多様である。にもかかわらず、単一の「話しかけるという出来事」というカテゴリーにまとめあげることは可能である。それはなぜか。

 考えられることは、出来事としては多様でありながら、そこでは「話しかける」という共通の「方法」が採用されていることである。それを採用する人物も異なれば、それが採用される時間的・空間的状況も異なる。この世界に同一の出来事は二つとしてあり得ないのだから当然だ。にもかかわらず、出来事の同一性が保障されるのは、ひとえにひとつの方法が共有されていればこそである。科学者が、みずからの方法論の中で、再現可能性を最も重く見るのはこの限りにおいてである。科学とは、方法の異称のひとつにすぎない。

 話がそれた。以上をまとめると、「話しかけ」というひとつの方法が、さまざまな「話しかけるという出来事」を生み出し、そこからさらに多様な返事が派生する。これは、本書を読む方々と目の前の人との間に生まれた多様な対話を分析する、ひとつの図式である。そして、ヴィゴツキーの『心理学の危機の歴史的意味』での論点のひとつが、将来の心理学はこの図式をパラダイムとして科学的営みを進めるべきだということであるように、私には思われる。

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非常勤+ダメでした

dun (2008年4月11日 19:43)|コメント(0)| トラックバック(0)

 非常勤先での講義1回目。

 お仕事のお声をかけてくださったM先生にご挨拶をした後,教室へ向かう。だいたい80名ほど。去年よりも少なく, こちらとしてはちょうどやりやすい人数である。

 ほとんど全員1年生ということで,大学で学ぶ上での心得のようなものを開陳する。話の中身は内緒である。

 帰り際,4月に北大から異動されたF先生にご挨拶に行く。まだまだがらんとした部屋で引っ越しの整理に追われていたようだ。

 久しぶりに講義をしたら足がぐたっと疲れた。ついこないだまで,2コマ続けて話をしていたこともあったんだけどなあ。体力のなさ。

 北大に戻る。メールボックスを開けてもダイレクトメールばかり。PCの前に座り,Eメールボックスを開ける。 「科研があたった人にはお知らせ入れといたでよ」のメッセージ。

 お知らせ?

 ... えー。

 今年もダメでした。はは。ははは。はははははは。

 気を取り直して別の助成にちょこちょこ応募しようっと。

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幼児に対するバーチャル・マイキングについて(2)

dun (2008年4月 5日 17:21)|コメント(0)| トラックバック(0)

 バーチャル・マイキングに注目するのは,会話の秩序を組織化する技能の発達過程を調べるうえでなんらかのヒントが得られるのではないかと思うからである。

 会話における秩序を社会的秩序のミニマムな単位と見なして研究する会話分析は,その基本的な秩序として「順番取り(turn-taking)」を見いだした。会話において参加者は一度に一人が話す。これは秩序だったやり方で参加者が発話する順番を取ったり与えたりと行為した結果起きた社会的現象である。行為における秩序は,ごく簡単に言うと,「現在話している者が話し終えたら,その人は自分で話し続けるか,ほかの誰かに発話権を与えられる」と体系的に記述できる。これは,社会学者のサックスらが見いだしたことである。

 このような秩序だったやり方は,実は,発達初期の子どもとその母親の間のやりとりにすでに見られるという指摘がある。たとえば赤ちゃんがごきげんで「ああ,ああ」と声を出す。その次に母親が「どうしたの,気持ちいいの」と話しかける。母親の発話の間,赤ちゃんは沈黙する。母親の発話がやむと,赤ちゃんがもぞもぞとしはじめてまた「ああ,ああ」と声を出す。このようにして,卓球のような発声のラリーが母子相互作用に見られることが知られている。

 発達初期の子どもの行動に見られるこうした相互行為上の秩序だったやり方は,大人の会話に見られるような順番取りの萌芽的基盤だとみなす研究者がいる。確かに発達のごく初期の場合,やりとりは秩序だって交互におこなわれるように見える。

 しかし,1歳を過ぎ,4歳に入る頃までの子どもを見ていると,交互になされていたコミュニケーションがなりを潜めていることもあると気付く。たとえば,親同士が会話をしているところに平気で「ねえねえ」と割り込む。あるいは,こちらが話しかけても返事をしない。などである。そうかと思えば,5分くらいしてから「○○だよ」と返事をすることもある。少なくともこの時期の子どもは,声をかけたら必ず返してくれるやまびこのようなものではない。

 あたかも,2~4歳頃の子どもには会話の秩序以上の何か「気がかりなこと」があって,それ以外のことにはかまってられないかのようである。気がかりがあるからこそ「ねえねえ」と割り込むし,他人の言うことをぼんやりと聞き流すのではないか。

 そう考えると,発達初期におけるやりとりに見られた秩序と,後に成長してからのやりとりに見られる秩序の間に単純な線形的関係を想定することはできない。そのあいだには2~4歳頃特有の何か熱っぽさのようなものが挟まっており,それを経由することにより会話の秩序には量的かつ質的な変化があってしかるべきだろう。その変化とは何なのかを明らかにする必要がある。そのためには,2~4歳頃から幼児期後期にいたるまでの子どもが会話の秩序をどのように組織化しているのか,発達的視点からながめなければならない。

 このテーマにはまだまだ分かっていないことがたくさんあり,あらゆることが検討の範囲の中に入ってくる。そこでバーチャル・マイキングである。

 もう一度確認すると,バーチャル・マイキングとは,保育の場などに見られる,話し手が片手を握り自分の口元に親指の方を向けながら発話し,それを終えるとその手を聞き手の口元に向けるという一連の動作を言う。そう呼んでいるのはおそらくぼくだけだろうと思うが,このような動作を見たことのある人は少なくないと思う。

 こうした動作は保育者と子どものやりとりにおいて,いわば「交通整理」(コミュニケーションを交通と訳すこともある)の機能を果たすのではないかと推測している。というのも,マイクを持っているかのように見える手は,発話権を現在誰がもっているのかを視覚的に示すと考えられるからである。握られた手の親指のある方が向けられている側に話す権利がある,というように。

 多くの場合,「質問-応答」というフォーマットと平行して用いられることも,この動作の機能を有効にしていると考えられる。誰かに質問されたら次に答えるのは自分であり,自分が質問したら次に答えるのは誰か他の人である。このように質問という言語形式は相互行為上の役割の交代と深くかかわっている。このような役割交代は,バーチャル・マイキングによって視覚的に明示されるだろう。

 たとえば,複数の子どもと1人の保育者がいる場を想像してみる。そこには話したがりの子もいれば,無口な子もいるだろう。保育者がバーチャル・マイキングを行うことにより,話したがりの子を牽制しつつ,無口の子から発話を引き出すということが可能となる。それでも,保育者にマイキングされても固まったまましゃべらない,という子も何人も見ているのだが。

 いずれにせよ,バーチャル・マイキングは複数の参加者がいるような状況において,発話権の配分を円滑に行うための手段となりうるだろう。

 ただ,ことはそう単純ではないとも思う。保育者と子どもとのやりとりにおいて,握った手を口元に向けることにより,「今,手が向けられた人が話す番ですよ」という文脈が公的なものとなる。そこで実際に話そうと話すまいと,「話す番だったこと」を文脈としてその人の行為が解釈されていく。無口な子どもは「話さなかった」のではなく「話せなかった」ものとして解釈されていく。このように文脈をつくるものとしてバーチャル・マイキングは機能する。

 バーチャル・マイキングとともに現れる言語形式をもう少し検討すると,それが「学校的な語り口」の特徴を備えていることも分かる。学校的な語り口の特徴を網羅したリストがあるわけではないのだが,丁寧体,語末音の上昇調,そして分かりきっていることについての質問がそこには含まれる。

 バーチャル・マイキングは,「学校的な語り口」にある特徴をもうひとつ教えてくれる。それは,「誰かが話しているときは,残りの人はそれを黙って聞く」というコミュニケーションのやりかたである。日本の小学校ではこうしたやり方は低学年の頃から教師によって徹底的に仕込まれる。クラスメイトが発表しているときに隣の子と話していると「今,誰が話してるの?」と怒られた経験のある人は多いだろう。バーチャル・マイキングは,保育においてこれを暗黙的に行っているものとも考えられる。

 もう少し体系的に調べてみたいものである。

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幼児に対するバーチャル・マイキングについて(1)

dun (2008年4月 3日 17:19)|コメント(0)| トラックバック(0)

 仕事柄,保育の場におじゃますることがたびたびあるのだが,保育者のみなさんが子どもに対するときに行なう行動で気になるものがある。それが,掲題の「バーチャル・マイキング」である。

 マイキング(miking)は,普及版の英和辞書などには載っていないが,りっぱな英語である。最新版のOEDによれば,

The action, process, or technique of arranging microphones for a recording or performance; the manner or fact of using microphones. Also miking-up.

 とある。用例として,「近づけてmikingすれば部屋の音響をほぼ無視することができる」(1973年Studio Sound誌)などがある。「マイキング」と検索すれば,たとえばこんなページがひっかかる。要するに,マイクを向けるふるまいのことをマイキングと呼ぶようだ。

 保育園や幼稚園にうかがい,自由遊びやお集まり場面に参加すると,たまにこの「マイキング」のような出来事を目にすることができる。たとえば,こんな感じだ。保育者が「あなたのお名前はー?」などと子どもに尋ねる。そのとき保育者は手をにぎり,グーの形にして,親指のある側を自分の口元に近づける。尋ね終わると,その手を握ったまま,今度は子どもの口元に近づけるのである。あたかも,インタビュアーがマイクを持ち,それを自分とインタビュイーに交互に向けているかのようである。 

miking_image2.gif

 これまで,茨城,山形,北海道,愛知の保育園・幼稚園で確認している。ちなみに愛知の事例は,名古屋の友人Mさんのご息女がこの行動をしているのを見て,おそらく同様のことを保育園で経験しているものと間接的に推測した。

 保育者は手を握るだけで実際にマイクを持っているわけではない。なので,「バーチャル」をつけて,バーチャル・マイキングと呼びたい。当初は「エアギター」になぞらえて「エア・マイキング」と呼ぼうかと思ったが,それはスタジオ用語で別のことを指すらしく,無用の混乱を避けるために「バーチャル」(嫌いなことばであるが)とした。

 さてこのバーチャル・マイキング(以下VM)であるが,なぜこの行動に注目したのか。

 それについては以下次号。

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会話の進化論

dun (2007年9月11日 11:38)|コメント(0)| トラックバック(0)

 ISCARでのダメダメな発表から立ち直れずにいます。気持ちを切り替えねばなりませんね。

 はてさて、来週日心での発表準備をしなければならないのですが、 某学会の事務作業がこのところ毎日続いていてどうにもこうにもなりません。今日はようやく学会誌の発送作業を終えました。 300人程度の規模の学会で、類似した学会と比べると小さい方だと思うのですが、 会員への案内を手作業で発送するとなるとやたら多く感じます。

 これが終わると大学院の某作業で拘束されます。1日みっちりと拘束されるわけではないところがまた気持ち悪い。

 話を日心で話す内容に戻しますと、家族の家庭における自然な会話を分析したものを出します。

 コミュニケーションを開始するために、話し手は聞き手の注意を獲得するためのいろいろな方法を駆使しなければなりません。この 「呼びかけ」の手段は、家族間会話でどのように用いられているのかという問題について調べました。

 話を言語的な「呼びかけ」に絞ります。「呼びかけ」にはいくつか種類があります。たとえば「お父さん」「太郎ちゃん」 といったように相手の名前あるいは続柄を呼ぶ。あるいは「ねー」や「ちょっと」などの間投詞を用いる。さらには「見て」 など注意を要求する言葉を用いる、などが考えられます。

 簡単に発見を述べますと、第一に、呼びかけに用いられる単語の種類は、それを用いる話し手と聞き手の関係によって異なっていました。 たとえば、「太郎ちゃん」など相手の名前を呼ぶのは圧倒的に両親が子どもに話しかけるときでした。子どもが両親を呼ぶ際に名前(お父さん、 お母さん)を用いるのはそれと比べれば少ないようです。逆に、子どもが親を呼ぶときに「ねー」「見て」といった言葉が用いられるのですが、 これらを両親が用いることはまったくありませんでした。

 第二に、今回分析した家族の会話では、言語的な呼びかけの手段がほとんど見られない関係がありました。 それは両親の間でのやりとりでした。たとえば、同じ室内に、父、母、子どもがいたとして、それぞれ自分の作業(父は新聞を読むこと、 母はスーパーのチラシを読むこと、子どもは人形で遊ぶこと)に没頭していたとします。このとき、父親が突然、「明日は晴れるんだって」 と新聞を読みながら発話したとします。これに対して、母親が「ふーん」と答えていました。父親の発話に対して返答する義務は、 母と子どもの両方に等しくあるはずなのです。宛先が明示的には指定されていないのですから。しかし、父親による「呼びかけ」 のない発話に対して答えていたのは、ほとんどが母親でした。これはどうしてなのか。

 とりあえずの答えは、二人は夫婦なのだ、というものです。馬鹿にするなと言われそうですが。

 考えてみると、話は核家族の場合に限りますが、子どもが生まれる以前、夫婦は二人きりで暮らしていたわけです。この場合、 「呼びかけ」がなくとも、話し出せばその相手はおのずと決まります。このようなコミュニケーション・ パターンが形成されていた二人と突然同居することとなったのが、子どもです。そのうち、「呼びかけ」 のない夫婦間コミュニケーションと区別するために、「呼びかけ」のある親子間コミュニケーションパターンが選択され、 両方のパターンが併存することとなった、というのが読み筋です。言い換えると、「呼びかけあう」というコミュニケーションは、 「呼びかけあわない」というコミュニケーションと区別できるがゆえに有効に機能するということです。

 会話で使用される言語形式の多様性を進化論的に見ているわけですね。

 これが正しいとするなら、いくつか言語発達研究に対するインプリケーションを挙げられると思います。ひとつは、 子どもが日常を密に暮らす社会的環境全体を一度に見ないと、子どもがなぜある特定の言葉を利用するのかを理解できないということです。 もうひとつは、子どもが使用する言語形式や文法構造はかれがその社会文化的状況において「何者であるか」ということに依存するという、 OchsとSchieffelinの言語的社会化理論への貢献が考えられます。

 以上のようなことを、先日北海道に来たヴァルシナー教授に話そうとしたらうまく説明できませんでした。説明できないのは、間違っているからでしょうね。

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力業の力強さ

dun (2007年7月 7日 13:12)|コメント(0)| トラックバック(0)

 Yahooのニュースなんかでも紹介されたのでご存じの方も多いと思いますが、Scienceにこんな論文が載ったそうです。

  「女性の方がおしゃべり」はウソ?-米大学研究

 紹介されている論文の書誌情報はこちら。

 Mehl, M. R., Vazire, S., Ramírez-Esparza, N., Slatcher, R. B., and Pennebaker, J. W. (2007). Are women really more talkative than men? Science, 5834, p.82.

 まだ読んでいないので詳細は不明なのですが、方法としてはどうやら大学生に録音装置をつけて、その音声から発話語数を単純にカウントした模様です。6年間で396人の発話が採集されたとのこと。

 得られた結果から、男女ともに毎日およそ1万6千語を話しているものと考えられるそうです。著者たちの関心は発話語数の男女差にあったわけですが、統計的に有意な差はなかったらしい。

 つっこもうと思えばつっこみどころは多々あるのでしょうが、私としてはこの研究に素朴に驚嘆してしまいました。

 人は1日にどれくらいの単語数を話しているのか、疑問に思うのは簡単ですが、これを実際に数えるとなるとそうとう苦労するのは目に見えています。いや、実は数えることそれ自体はそれほど手間ではない。形態素分析ソフトのようなものもありますし。

 この手の研究で一番手間がかかる問題は、コンピュータでカウント可能な形に発話を文字化することでしょう。この作業をやったことがある人なら実感として分かりますが、書き起こしはとにかく時間がかかる。ぼくの場合、1時間の会話を書き起こすのに6時間くらいかかります。それを1日分、しかも396人!1人について1日の発話を書き起こすとして、1日のうち起きている時間(録音された時間)を16時間とすると、396(人)×16(時間)×6(時間)=38016時間! 24時間ぶっとおしで書き起こしをしまくるとして、ぼく一人ではまるまる4年以上かかる計算となります。

 繰り返しますが、まだ元を読んでいないので詳細は分かりませんが、仮に396人分の1日の発話を「すべて」書き起こし、文字化した上で、1日に使用された単語数をカウントしたのでしたら、ぼくは素直に拍手を送りたい。

 「ぼくら、1日でどんだけしゃべってんだろうねー」って、なんだか「トリビアの種」のように素朴な疑問です。これに対して回答する術としては、サンプルとなる時間帯を取り出してそこで用いられた単語数から1日の単語数を推計するか、あるいは実際に1日の単語数を数え上げるかしかないわけです。

 こざかしい計量言語学者ならば前者を採用するのでしょうが、あえて後者というイバラの道を選ぶ。言ってみれば、「力業」ですよ。しかし、得られた数は、異論をはさむ余地のないものであります。この力強さ。

 「数え終わりました!1万6千語でした!」

 うつろな目、髪はぼさぼさ、肩はがちがちになったスタッフが、窓から差し込む朝焼けに照らされながら、集計の終わったメモを読み上げる。同じく目やに混じりの眼をしたまわりのスタッフはパチパチと力強く拍手、そしてかれらはそのままばったりと机に倒れ伏し、安らかな寝息をたてはじめるのでありましょう。なんかそんな情景が頭に浮かびますよ。

 理論もない、技術もない、あるのはただひたすら疑問に素朴に答えようとする執念のみ。いいですなあ。

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ケータイ非使用時のケータイ使用について

dun (2007年6月12日 09:24)|コメント(0)| トラックバック(0)

 人目につくようなかたちでケータイを持つことが可能となるためには、2つの条件が満たされていることが必要だろう、という話をした。

 持つことが可能であるとして、では実際にどうやって持っているのか。このことについて街の中の人々の行動を眺めてみよう。

 そのつもりで眺めていると、人々はケータイを実にさまざまな仕方で「持って」いることが分かる。

「ケータイの持ち方」に注目したのは、JRの駅にいたある若い女性の振る舞いを見たせいである。 彼女は折りたたみ式ケータイを右手に持ち、画面が見えるようそれを広げたまま、画面のある側の縁を自分のあごの先につけて立っていた。

 彼女はケータイの主な機能を使ってはいなかった。メールも電話もしていなかった。ただ、ケータイにあごを「載せて」 視線を遠くに投げかけていただけだった。

 しかし、まぎれもなく彼女はケータイを使っていた。手に持つことが可能なモノとして使っていた。 われわれが傘やステッキに体ごともたれかかるように、ケータイにあごがもたれかかっていたのである。

 タイトルの、「非使用時の使用」とはこのことを指す。確かに主機能は使われていない。しかし「あご載せ台」 として使われていたのである。

 「あご載せ台」としての使用法の他に、どのようなものがありうるのか。同じく駅にいた男子高校生の10分間の観察から、 以下のような行動レパートリーが得られた。ちなみに彼が持っていたのは折りたたみ式ケータイであった。

 ・ 頻繁な開閉。
 ・ 開閉の一バージョンとして、ケータイを開いたまま、持った手の肘を支点にして勢いよく上に上げ、その勢いで画面側を閉じる。 「ケン玉型開閉」。
 ・ 閉じたケータイの両横を、手の親指と中指を使ってはさみ、 別の手の指でケータイのアンテナ側とその反対側の端をはじいてくるくると回す。
 ・ 開いた状態で画面側を体の一部にこすりつける。観察された動作としては、ケータイを持っていない側の膝頭が服の上からこすられていた。
 ・ 同様に、開いた状態で、画面側で体の一部をぽんぽんとたたく。同様に膝頭をポンポンとたたいていた。
 ・ アンテナを延ばし、手の指ではじく。アンテナはびよんびよんとしなる。

 彼は待合所のベンチに腰を下ろしており、そのことが多様な行動を可能にした側面もあろう。 たとえばケータイの画面でこすられたりたたかれたりしていた体の部位が膝頭だったのは、座っていたからだと言えそうだ。 もしも立位であったら、他の場所(腿の脇とか)が選ばれていたはずである。

 いずれにせよ、ケータイとは使っていないときにも使われるモノなのである。「もてあそび」という用途を満たすモノとして。

 前のエントリからの話をまとめると、ケータイとは「もちはこび」と「もてあそび」を可能にするモノだということが言える。ここで、 人が人前でケータイを「もてあそぶ」ことが可能となるための条件に、「もちはこび」 が可能となるための諸条件が含まれていることは言うまでもない。

 蛇足だが、ケータイのもてあそび行動を見て取りやすいのは、乳幼児においてである。わが子は1歳前後の頃、 親の使うケータイをしきりに持ちたがった。持っては、パタパタ開いたり閉じたりしてみたり、アンテナを延ばしたり、 キーをプチプチと押したりしていた。

 もてあそび行動のレパートリーとして他に何があるのか、もう少し観察を続けてみようと思う。 今和次郎の考現学のような感じになるだろうか。

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持ち運び可能なモノとしてのケータイ

dun (2007年6月11日 09:23)|コメント(0)| トラックバック(0)

 ケータイを使った行動について興味をもっている。ケータイとは、携帯電話やPHSを含む移動通信機器をここではまとめてそう呼ぶ。

 ケータイにかんする研究というと、電話やメールなど、それを使ったコミュニケーション行動に焦点があてられている。その一方で、 ケータイのケータイたる所以、すなわち、持ち運ぶことのできるモノという性質にはあまり焦点があてられていないように思われる。

 カバンや衣服のポケットに収納した持ち運びはもちろんのこと、文字通り手にケータイを持ちながら街を歩く人のなんと多いことだろう。 ケータイはコミュニケーション・ツールである以前に、我々が人々のいる社会的環境の中を持ち運ぶことの可能なモノなのである。

 社会的環境の中を持ち運ぶことが可能、とは2つのことを意味する。一つは、 人間が持ち運びできるくらいの形状や重さだという意味である。30kgもあるケータイは物理的に持ち運ぶことが不可能である。

 もう一つは、ある個人が他の人々を前にしている際に、持ち運んでいてもかまわない、おかしくない、という意味である。 これはたとえば、衆人の中を鶏もも肉の塊やむきだしのナイフを手に持って歩いている姿を想像してもらえればよい。 獣の肉の塊を手に持ち歩く人が駅の構内を歩いていたら「変」であるし(「変」とならないための工夫としては、食肉業者的な格好をする、 という手がある)、ナイフをむきだしで持って歩いていると、「変」である以前に銃刀法違反で捕まる。

 面白いことに、紙幣をむきだしのまま手に持って歩くのも「変」である(これはぼくだけの感想か?)。ところが、 びらびら広げた状態だと変なのだが、折りたたんで手の中に入れておくと「変」でない。というか「変」かどうかという判断が、 第三者にはできない。隠れて見えないのだから。だが、容易に想像がつくように、 街を歩く多くの大人は紙幣を身体のどこかに持ち運んでいるはずである。

 このように、他者から見て持ち運びが許されているモノは、実はそんなに多くない。日本のこれまでの歴史の中では、 思いつくままにたとえば傘、ステッキ、うちわ、タバコ、ペット、財布(紙幣は変なのに財布は許される)、 カメラなどが持ち運び可能なモノの一覧に入れられてきた。

 繰り返すが、人間にとって身につけた状態での自力移動が可能な程度の物理的な大きさや重さである、という条件(条件1としよう) とともに、人目につくようなかたちで所持したまま社会的環境の中を移動することが適切だと考えられている、という条件(条件2とする) がそろってはじめて、手にそれを持って歩くことが可能になる。

 ケータイに話を戻すと、1990年代初頭までのケータイは、条件1も満たされていなかったが、 条件2もまた満たされていなかったのである。

 いわゆる自動車電話と呼ばれていた時代は、確かに鈍重な形をしており、手に持ったまま長時間歩くことは至難の業だったろう。 NTTドコモによれば、1985年に世に出たショルダーホンは3㎏近くあったようである。 1987年のケータイ専用機TZ-802型ですら、 900gあった。

 これまでのケータイの歴史の語られ方では、この条件1がいかに満たされていくかという観点が中心になっていたように思われる。 軽薄短小を理想のゴールとする歴史観である。

 ところがその陰で、いかにして条件2が満たされるようになっていったかという歴史観はほとんど語られてこなかった。

 面白いことに、初期のケータイは、人目につくような形で持ち運ぶことが快く思われていなかったのである。たとえば松田・伊藤・ 岡部編(2006)「ケータイのある風景」 所収の松田論文には、金持ちの鼻持ちならなさを象徴するものとして、ケータイをこれ見よがしに持っている人への嫌悪感を語った、 1990年代初頭の文章が引用されていた。条件2が満たされていなかったのである。

 ところが、いつの間にか、条件2は満たされていた。こちらの歴史をきちんと解かない限り、 移動通信機器と人間とのかかわりを理解することは難しいだろう。

 なぜこんなことをつらつらと書いているかというと、ひとつには学部の心理学実習でケータイをテーマに取り上げていることがある。 先日も駅でケータイを使う人の行動を観察しに出かけた。もうひとつは、それとの関連なのだが、ぼく自身、 高校生や大学生のケータイ使用をよく観察するようになったことがある。観察していて気付いたのだが、 ケータイをカバンや衣服のポケットにしまうという時間がほとんどないのである。

 たとえば、駅構内のベンチに座っていたある男子高校生の場合、メールを打ったあと服の胸ポケットにケータイを入れた。 20秒ほどたって取り出し、ふたたび画面に見入った。折りたたみ式ケータイの場合、たたむことはあってもどこかにしまうことはほとんどない。 人目につくところに出しっぱなしなのである。

 こういう光景を見て、世の中には人前で出しっぱなしにできるモノとできないモノがあって、 ケータイは前者の範疇に入るのだなあと考えた次第。

 (もうちょっと続く)

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iRiver S10

dun (2007年5月23日 09:18)|コメント(0)| トラックバック(0)

 自然な状況において起こる発話を録音する方法に悩みはじめてかれこれ5年。自分のニーズにあった録音機材ならば自分で作るのが早道なのだが、こればっかりは電子回路の技術が要るので、自作というのはなかなかハードルが高い。というわけで、出来合いの民生品に頼るばかりである。

 子どもに装着することを考えると、小さく、軽く、丈夫であることが必須の要件となる。そうしたニーズを満たす民生品として、まずICレコーダは大きすぎて除外される。最近では、音声録音も可能なデジタルオーディオプレイヤーが出ていて、こちらなら先の条件を満たす。

 昨年まで集中的に行なっていた録音では、iRiverのN11を使っていた。Nシリーズには先代のN10からお世話になっている。

 久しぶりに札幌駅前のヨドバシカメラに行った。行くと必ずデジタルオーディオプレイヤーのコーナーに寄ることにしている。

 iRiverから新しくS10なる商品が出ていた。スペックを見ると、 N11よりも4.5g軽い(N11:22g、S10:17.5g)。たかが4.5gと侮ることなかれ。

 大きさはどうか?写真に撮ってみたので比べてみよう。

P1010271.JPG

 ね。ぜんぜん違う。

P1010274.JPG

 見たとおり、S10は、ディスプレイがカラーである。あまり欲しいポイントではないのだが、綺麗なら綺麗がよい。しかも。ディスプレイが本体からほんのわずか浮いていて、上下左右にクリックできるようになっている。これが操作メニューを選択するキーとなっているのだ。したがって、本体側面にあるスイッチは、電源とボリューム上げ下げの3つだけとなっている。

 なかなかそそられるガジェットではある。しばらく使用してみて、使い物になるのかどうか確認してみよう。

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ケテスタだって

dun (2007年4月17日 09:07)|コメント(0)| トラックバック(0)

 私の現在のサブテーマは、幼児期における音韻意識の発達過程に関する研究である。

 このテーマを扱った先行研究には、幼児に対して介入プログラムを実施するものが少なくない。そういうのを読むと、たまあに、 がちっと組んだ実験がしたくなるわけで、そのへんは母校の"意"伝子のなせるワザであろうか。

 そんなわけで、身近な子どもたちに協力してもらって、いま、ちょっとした実験を繰り返している。結果発表は9月になる予定だが、 うーん、思うような結果が出てこない。そういう悩みもまた楽しさなのであるが。

 で、今日も今日とて実験を終えて研究室に戻ったのだが、そのときにふと思い出したのが掲題のセリフ。ご存じ、『ドラえもん』 にてジャイアンがのたまわったものである。

 ドラえもんの出した秘密道具に「コエカタマリン」という薬がある。この薬を飲むと、出す声が大きな文字となって固まるというもの。 マンガのお約束である、いわゆる書き文字を「声が固まったもの」と見なすという、考えてみればむちゃくちゃな秘密道具である。

 小さくなれる潜水艦で金魚鉢の水の中にもぐったまま大きく戻れなくなったのび太とドラえもんが、コエカタマリンを飲んで叫んだ 「助けて」が、「タ」「ス」「ケ」「テ」という文字の塊となって水中を漂う。それを見た剛田先生が「ケテスタだって」と言う。

 大昔に読んだマンガなのに、なんか俺、いやに覚えてるなあ。

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自転車操業此処に極まる

dun (2007年3月20日 19:32)|コメント(0)| トラックバック(0)

 日曜から名古屋のhouさんが来ていた。月曜に音韻意識の実験を行なうためである。3歳の子に協力してもらって、 単語の分節の仕方を見るというもの。

 実験の結果については近々、というよりも週末に発表される。なんという自転車操業!仕方がない、 こうでもしないと時間が取れないほどお互い抱えているものが多いのである。

 「最近顔が痛いんだよー」。それは顔面神経痛というヤツですか、houさん。仕事は抑えましょう。

 実験中に撮った映像を見返してデータに起こし、大急ぎでポスターを仕上げて名古屋に送る。

 一仕事終えてもまだ積み残しはある。27日から伊東で身振り研究会の合宿。強面の中堅処がぞろりと来られることが判明しており、 いまから戦々恐々。そのための資料がまだできておらず、今更ながら文献を読み返し、発表の内容を検討する。

 29日からのハンナおばさん読書会のレジメはまだできてない。明日から茨城の実家に帰るが、そこで仕上げる予定。

 かように月末はあちこち飛び回る。先々でお会いする方、どうぞよろしく。

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打ち合わせ

dun (2007年3月 7日 15:21)|コメント(0)| トラックバック(0)

 名古屋からhouさんが来札。研究の打ち合わせのためです。

 もう2年くらい、ああでもないこうでもないと二人で頭をひねってきました。今回も、ホテルのラウンジ、カレー屋、そして研究室と場所を変えながら理論的な骨子をえんえんと相談。いいかげん、とりあえずシンプルなところからやってみようとふんぎりをつけることにしました。最終的に、実験の細部にいたるまでつめることができました。来週、慌ただしく実験を行ないます。

 mouさんとトモちゃんもいっしょにいらしていたので、夕食はうちの家族とともに食事。子ども2人は向かい合って座っていたのでお互いをどうも気にしていた様子。トモちゃんはニコニコと上機嫌で、まわりの大人に愛想を振りまいてました。

 ところでぼくはどうでもいいことに躍起になるタチなのですが、この共同研究のマスコットキャラクターを作ってはどうかと勝手に提案し、勝手に作ってみました。いかがでやんしょ?

palogo.jpg

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a memorandum for analyzing conversation of children (2)

dun (2007年2月26日 15:19)|コメント(0)| トラックバック(0)

 Goffman(1961)において提起された、状況的活動システム(situated activity system)と状況的役割(situated role)という2つの概念を見ておきたい。

 状況的活動システムとは、活動の目標を共有する参加者たちが構成するある程度閉鎖的なまとまりであり、状況的役割とは、そうしたシステムが反復されることで形成される、参加者が遂行すべき行為のパターンである(Goffman, 1961, 邦訳 p.98-100)。

 状況的活動システムの身近な例は会話であろう。会話の「輪」がシステムの境界を指し示し、「話し手」や「聞き手」といった会話上の役割が、「輪」の中での適切なふるまいを参加者にとって予期可能なものとする。


文献
Goffman, E. 1961 Encounters: two studies in tehe sociology of interaction. New York : The Bobbs-Merrill Company. (佐藤毅・折橋徹彦(訳) 1985 出会い:相互行為の社会学 誠信書房)

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a memorandum for analyzing conversation of children (1)

dun (2007年2月26日 15:18)|コメント(0)| トラックバック(0)

 GoffmanとSacksのそれぞれの相互行為についての見方には、安易に統合できない違いのあることが指摘されている。高原・林・林(2002)は、Goffmanにさかのぼるコミュニケーション研究のパラダイムを「相互行為分析」、Sacksにさかのぼるそれを「会話分析」とそれぞれ呼び、その発想の違いに触れている。

 たとえば、相互行為分析と会話分析のひとつの違いは、ある行為の「原因」をどのように説明するかにある。前者の見方によれば、「原因」の一部は参与者の内的な認識に求められる。ある発話が起こるのは参与者がそれを用いてなんらかの効果を相互行為の場にもたらそうと「意図した」ことによる。

 一方、後者の会話分析では、参加者たちは行為の「原因」なるものを互いに提示し、承認しあいながら相互行為を進めていくという見方を取る。相互行為分析では「原因」の一つとされた参加者の「意図」の扱いに関して、Sacksに影響を与えたエスノメソドロジーでは、その実在の真偽を問わない。むしろ、相互行為において参加者が実際に何を「意図」や「動機」と見なし、またそれらについていかに語るかを明らかにすることを目指す。

 行為の「原因」なるものをいかに捉えるかは興味深い問題である(「原因」としての知覚と行為に関する議論として、高木(2000)がある)。


文献
高木光太郎 2000 行為・知覚・文化:状況的認知アプローチにおける文化の実体化について 心理学評論, 43(1), 43-51.
高原脩・林宅男・林礼子 2002 プラグマティックスの展開 勁草書房

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音韻意識研究徐々に始動

dun (2006年11月25日 20:17)|コメント(0)| トラックバック(0)

  ああ、今週もなんだかあっという間に過ぎ去っていったことであるよ。

 水曜、非常勤を終えたその足で新千歳空港へ。名古屋に向かう。共同で音韻意識の発達過程について研究しているhouさんと打ち合わせのため。

 中部国際空港に降り立ったのが夜中だったため、金山のカプセルホテルに投宿。寝るにはまったく不自由しないが、仕事をする環境ではないことが身にしみて分かる。

 明けて木曜、houさん宅におじゃまする。お嬢さんのtomoちゃんと必死になって遊ぶ。本題の打ち合わせが煮詰まるとtomoちゃんと遊ぶ。おかげでだいぶ慣れてくれたのではないかな。

 音韻意識の形成の発達をどのようにモデル化すればよろしいか、欧米で大量に生産される研究が立脚するモデルはむぁったくなっとらんと二人で憤慨しながらレビューを書く算段をたてる。さらには、口ではいくらでも耳に良いことが言えるわけで、そうすると実際にデータを取らねばならないわけで、そのために来年1月の調査開始に向けて、具体的に実験素材選定に入る。いよいよ、である。

 すやりすやり寝ているtomoちゃんに別れを告げ、飛行機で帰った札幌には雪が舞い降りていた。気持ちよいので白石駅から歩いて家まで帰った。

 明けて金曜、九州大の学会からずっと長崎に戻っていた妻子が帰ってきた。アマネはちょっと背が高くなった。きゃあきゃあ叫んでは部屋のすみずみを冒険し、札幌の家の感触をじわじわと取り戻しているよう。

 さあ、これから雪の季節である。今年は3人でそり遊びをしよう。

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An individual as a grin

dun (2006年10月30日 14:31)|コメント(0)| トラックバック(0)

 ようやっと原稿を書き上げた。関係各位にはひどくご迷惑をおかけしました。ここに謹んでお詫び申し上げます。

 嬉しくなり、帰途東急に寄ってギネスと獺祭を買い晩酌とした。

 何に苦しんでいたかと言うと、ジェイムズ・ワーチを短大生・学部生向けに紹介するという作業に心底苦労していたのである。 苦しんでいたのだが、正確な紹介が必要なのではなく、分かりやすいこと、 自分にも社会文化的アプローチを理論的枠組みとして使えそうだと思わせることが重要だと考え直し、正確さは多少犠牲になろうとも、 具体的な例をふんだんに混ぜながら書いて何とか脱稿した。

 で、PCを開いてみると、かつて苦しんでいたさなかに書いていた一文を発見した。 学部生に分かりやすい例えはないかと呻吟していた頃のものである。結局使わずじまいだったのだが、 もったいないのでここにご披露する次第である。


 どうも昨日からアマネが激しく下している。夜中、寝ているときまでぷっぷとやっているので、妻は対応に追われて寝不足気味、 こちらは手伝いに起きたまま眠れず、このような時間に仕事をしている。

 個人と環境の描き方をめぐって、苦しんでいる。

 ワーチの社会文化的アプローチは、近代西欧的自我論の前提である個人と環境の二分法を超克せんとするものである。 どう超克するかと言えば、個人と環境をあらかじめ措定することが認識論的な錯誤だとすることによってである。それらは、 行為によって事後的に生まれる。行為とは、あたかも、真白き紙を切り裂く鋏のようなものだ。 鋏による裂開が単一の紙を二つのパートを生み出していく。私がイメージするところの、 社会文化的アプローチにおける行為観はこのようなものである。

 近代西欧的自我論の失敗は、事後的に生まれるはずの個人を説明の出発点としたことにある。これはあたかも、 「ネコなしのにやにや笑い」である。アリスのチェシャネコは、にやにや笑いだけを残して消えていった。これがナンセンスだと理解できるのは、 にやにや笑いはネコの属性だということを私たちが知っているからにほかならない。ところが人間の知について説明する段になると、 私たちはにやにや笑いだけを見ようとしてしまう。ネコがにやにや笑いを作ったように、自然が個人を作ったにもかかわらず。

 個人と環境とのこうした錯誤をチェシャネコに例えたのは、これが言葉遊びだからである。

 ここまでのところですでに明らかなように、行為から説明を出発するにせよ、「個人」「環境」という言葉をそこに含めざるをえない。 「個人が環境に対して行為する」といったように。ここで、個人とにやにや笑いをアナロジカルにとらえるなら、「行為が個人し、環境する」 と言い換えることができる。こんなの言葉遊びではないか、と思われるだろう。しかし、 社会文化的アプローチが念頭に置く現実とはまさにこのようなものなのである。こうした表現がおかしいと思うのは、 社会文化的アプローチがおかしいのではなく、まさに言語が個人中心主義を構成していることの明白な証拠なのである。


 なるほど。かつての私はこのようなことを考えていたのか。

 かつて、ヴィゴツキーやポリツェルは、抽象的カテゴリを心理の本質とする古典的心理学を非難し、 かわりに具体的個人の動態を描くドラマ心理学の構想を提示した。ワーチはその批判を再び繰り返しているのである。 そのことを私はここでチェシャネコに託したのだった。

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尻に火がつき

dun (2006年10月23日 14:30)|コメント(0)| トラックバック(0)

 この国の研究者のみなさんは毎年この時期にしこしこと書類を書くこととなる。科学研究費補助金、いわゆる科研費の申請のためである。

 ご多分に漏れず私も申請書を作成した。昨日今日と2日間で「えいやっ」と書いてしまった。

 助成申請は楽しい。どんな調査ができるか、どんな機材を買うか、どこの学会に行くか、風呂敷を広げるだけ広げるからである。どうせ申請額が満額降りてくることなどないのだから、このときとばかりに大言壮語を並べ、ふだんは指をくわえているだけの機材名をリストアップする。

 事務に提出してチェックをしてもらっているが、特に問題はなさそう。来年をお楽しみに。

 これから尻に火がついている原稿を書く。「え、これから?」とびっくりされる方も読者のなかにはおられようが、事実である。片付けねばならぬ用件を先に回しているうちに、このようなことになってしまった。

 この原稿は「質」が求められているようで、2日間で「えいやっ」とはゆかぬのである。

 札幌はもう寒い。冬へまっしぐらである。

 夏からかかっていた原稿が、とうとう晩秋にもつれこんだ。ため息が出るのは、落ち葉がはらりと舞い落ちるのを見たせいか、あるいは。

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はこだて未来大学に行ってきた

dun (2006年9月11日 14:07)|コメント(0)| トラックバック(0)

 卒論生といっしょに、はこだて未来大学へ行ってきました。目的は、人工物とインタラクションを広くご研究されている南部美砂子先生にお会いするため。

 卒論生の一人、わーさんの研究テーマが、「母子間相互行為場面におけるケータイ」というもの。ケータイ研究の動向はこちらはとんとさっぱりなので、ここはご専門の方にうかがうのが最良と、南部先生の門をたたいたのでした。

 札幌からはスーパー北斗で函館入り。駅にて、今回の参加者、めぐくん、わーさんとともにレンタカーに乗り込みました。函館の駅は最近新しくしたのでしょうか、6年前に学会で来たことがあるのですが、そのときはもっとぼろっとした印象でした。ところがいつのまにか近代的な建物に変貌していました。

 街から大学までは車で20分くらいです。函館の内陸になだらかに盛り上がる山の上に大学は建てられました。函館山からの夜景は有名ですが、大学からは「裏夜景」と呼ばれる街の灯が望めるのだそうです。

 大学の駐車場に車を停めると、南部先生と東工大の岩男征樹先生が出迎えにいらしてくださいました。

 今回は研究のヒントのようなものをいただければと考えていたのですが、先方は研究交流会のような形でセッティングして下さっていました。南部研からはゼミ生2人が参加してくれました。彼/女は、わーさんと同じくケータイについての研究をしているそうです。違う点は、一人は小学3年生のケータイ使用、もう一人は高齢者のケータイ使用と、お二人とも機械のユーザビリティの点から見ているところでした。

 研究会は、わーさんのここまでの調査内容の報告に続いて、南部研の2人の発表という順で行なわれました。ケータイそのものが新しいメディアであるだけに、ユーザの視点からの研究は本当に少ないのですね。これから若い3人にはいろいろな視点から具体的なデータを集めてもらいたいと思います。

 ところで、北大の学生は、はこだて未来大学の建築デザインにいちいち驚いていました。なにしろ新しい大学ですから、きれいなのです。僕が岩男先生と日心でのRTの打ち合わせをしている間、めぐ、わーの両氏には大学のなかを探検してきてもらいました。 

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 この大学のように、新しいカリキュラム編成をデザインするとともに、それにみあった建築のデザインもしてしまう、というところは少ないと思います。カリキュラム編成のデザインにあたっては、ヴィゴツキーに由来する学習観も大きな影響を与えたと聞きます。そのあたりは、下の本に詳しいです。

「未来の学び」をデザインする―空間・活動・共同体
美馬 のゆり 山内 祐平
東京大学出版会
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 研究のヒントをたっぷりといただいて、大学をあとにしました。南部さん、岩男さん、そして学生の皆さん、どうもありがとうございました。

 このあと、ぼくが予約した宿の名前をど忘れして、1時間ほどうろうろと探し回るという失態を演じたりもしましたが、無事に投宿。函館の夜の駅前をぶらぶらと3人でそぞろ歩きしながら打ち上げです。

 1軒めは「根ぼっけ」。海のなかであちこち動かず、居着いてしまったホッケのことを根ぼっけというのだそうですが、その魚の名を店名にしているだけあって、根ぼっけ料理がウリのようです。貧乏な3人でしたので、根ぼっけ焼き半身(小)を頼みましたが、3人だとそれでも十分なくらいでかいものが来ました。その他、刺身も活きがよくたいへんおいしい。実は、ここは南部先生に教わったお店なのでした。感謝であります。

 2軒めは「杉の子」。ここは居酒屋好きには知られた古いバー。柱にかかった操舵輪をはじめ、年季の入ったオブジェが壁一面を埋め尽くしています。函館という観光地にありながら、地元の方らしき人がひっきりなしにドアを開けてくるのは良いお店の証拠。ここでは、オリジナルのカクテル「八甲田丸」をいただきました(その他に、青函連絡船の名を取ったとおぼしきカクテルが3種類ほどありました)。卵を使ったリキュール(名前、失念)を使っているそうで、グラスのなかのクリーム色をなめると甘酸っぱくコクのある味が舌にまとわりついてきます。めぐ、わーの両氏は「うまいうまい」と感動してお酒を飲んでいました。

 宿の門限は11時、現在10時半です。大急ぎで戻ったところが、すでに共同浴場は終了。部屋でめぐくんの卒論指導をしたのち、汗くさいままふとんのなかで気を失いましたとさ。

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なんとか

dun (2006年8月25日 13:56)|コメント(0)| トラックバック(0)

 アマネの誕生日を祝ってからだいぶ間が空いてしまいましたが、その間何をしていたかというと、仲間内で出す本の原稿を必死こいて書いていたのです。

 分担する分量としてはそれほど多くなかったのです。ただ、担当した章に書く内容が、自分にとっては思い入れの強い対象だっただけに、何をどう書こうかと最後までねちこく悩んでいたら、締め切りが過ぎてしまいました。編集担当のお姉様から、最終締め切りは25日朝6時というお達しをいただき、ようやくたったいまなんとか筋だけはつけてメールで送りました。肩の荷が5トンくらい落ちました。

 日曜から名古屋へ飛んで、そこで編集会議です。暑いんだろうなあ。

 それにしても、8月はずっとこの本のことが頭にあって、ちょっとしんどかったです。卒論のときもこんな感じだったなあと思い出しました。

 でもいいこともありました。「ヴィゴツキー『思考と言語』は○○○である」という仮説を思いついたのです。○○の中はひみつです。近日、このブログでそのネタを公開します。

 そうそう、9月なかばまでにY草先生にラウンドテーブルの原稿を送らなければ。やることはたくさんあるのう。一難去ってまた一難じゃ。

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沈黙を見ねばならない

dun (2006年7月 3日 21:38)|コメント(0)| トラックバック(0)

 沈黙は多様である。このことを分かりやすく示しているのが、小津安二郎の映画『お早よう』(1959年、松竹)である。

 高度経済成長期の日本の庶民生活をユーモラスに描いたこの映画は、「黙っていること」が主要なモチーフだと思われる。そこでは2種類の沈黙が登場する。

 第一の沈黙は、発話の不在という形式をとる。映画に登場する林家の2人の子どもは、テレビを両親にねだる。そのあまりのやかましさに、父親の笠智衆は「男の子は黙っていろ」としかる。へそを曲げた子どもたちは、誰とも口をきかなくなる。

 家族や隣近所の人々とも口をきかないし、学校の授業中にもしゃべらない。結局このストライキは、父親がテレビを買ったために終了する。ここで、子どもたちのしたことが第一の沈黙である。

 一方、第二の沈黙の場合、発話が存在する。子どもたちはある青年(佐田啓二)の家に英語を習いに通っていた。その青年の元へ、子どもたちの若き叔母(久我美子)が仕事を依頼しにたびたび訪れる。青年の姉は彼に、彼女に対する好意を指摘するが、青年は答えをはぐらかす。

 こうして映画のラストシーン、当の2人が駅のホームで偶然出会う。天気のことなどたわいない話題を交わすだけで、結局2人のお互いに対する気持ちははっきりとは語られない。ここで観客が、2人の会話の背後にあると感じるものが、第二の沈黙である。

 第一の沈黙が典型なのが狭義の沈黙、すなわち不在の発話である。一方で、第二の沈黙の場合、発話は存在するものの、聞く者にとってその発話は、会話の核心だとは思われず、結果的に、「話し手が話すべき核心」の存在が浮かび上がる。つまり、聞き手は話し手について、あることについては話し、それとは別のあることについては沈黙している、と推測するのである。こうして第二の沈黙は、未遂の発話として捉えられる。

 ひるがえって、言語発達研究、あるいは相互行為研究の文献を読むと、沈黙が単にデータの不在としてしか捉えられていないことが分かる。人々にとっては話すことが至上の命題なのであって、沈黙とは「話す」という必死の作業の合間の止まり木のようなものでしかない。そのように描かれるのだ。

 しかし上で見たように、沈黙はシンプルなものではない。そこでも人々はいろいろなことをしているのである。ある人は、生命について知るには死についても知らねばならないと言ったそうだが、発話について知るには、沈黙についても知らねばならないようだ。

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houさんへの私信だな、こりゃ

dun (2006年5月 2日 22:15)|コメント(0)| トラックバック(0)

 連休を利用して、名古屋のhouさんとmouさん夫妻がお嬢さん(3か月)を連れて札幌にいらした。

 この機会に、共同研究の打ち合わせを進める。方向はおおまかにかたまった、ように思う。metaではなくepiを見る、というところで落ち着く。

 打ち合わせのときには言う機会がなかったですが、どうでしょう、metaとepiの話というのは、ヴィゴツキーの発達理論からするととてもよく分かるようにも思うのですね。

 Metsalaたちのlexical restructuring theoryでは、子どもが似たような音の単語を急速にたくさん覚えるほど、記憶コストを下げるために、分節単位が自然に細かくなっていく、と想定されていました。そのようにしてphonologyが発生するのだ、と。ところがこの理論は個人の頭の中だけを問題として、いわば純粋なepiというものを想定しているように思うのです。

 一方で、レキシコンというのはソーシャルでフィジカルなものでもある。そもそも、メンタルレキシコンというのも、外的なブツとしてあるレキシコンに基づいたメタファであるわけですから。私たちは、モノとしてのレキシコン内の単語と単語が区別しやすくなるよう、歴史的に協同的に、単語のよけいなバリアントを整理してきたという経緯もあるのではないかと思うのです。要するに、一種の淘汰の過程があった、と。

 とすると、現代の子どもたちは、あらかじめ整理された単語を再整理するという作業をしている、とモデル化できるのかもしれません。ヴィゴツキーのいう二重の発達モデルからすると、MetsalaやGoswamiの考えていることは一種の主知主義であり、要は不十分なのです。

 こういう議論もアリではないでしょうか、houさん。

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バフチンにおける対話概念について: 桑野隆先生講演会まとめ

dun (2006年4月23日 22:10)|コメント(0)| トラックバック(0)

 と冠する集まりが東京茗荷谷の筑波大学で開かれた。

 ミハイル・バフチンは20世紀ソ連を生きた思想家である。彼の提出した概念には、コミュニケーションを分析しようとするときに援用できそうなものがふんだんにある。そのように考える研究者が一堂に会した形で、 100名近くが集まった。

 一番の目玉は、早稲田大の桑野隆先生のご講演である。先生はバフチンに限らず20世紀初頭のロシア文化、特に芸術運動をご専門に研究されておられる。今回初めてお姿を拝見した。なんとなく、厳しい感じの方のようにイメージしていたのだが、あにはからんや、柔和なたたずまいの方だった。

 壇上のお話は、「対話」概念をバフチンの著作の歴史を追って跡づけることに割かれた。

 バフチンのいう「対話」とは、人間という存在のありようについての考え方である。この考え方によれば、人格とは孤立した個人で完結したものとみなすことはできない。そうではなく、相容れないものとの並存において現れてくるものとして、人格が理解される。この考え方は、アメリカのロシア思想研究者ホルクイスト以降、「対話主義(dialogism)」と呼ばれ、バフチンの思想を一貫して枠づけるものとして捉えられてきた。

 たとえば、『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)では、こう書かれる。「在るとは対話的に交通することを意味する。... 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」。ここに言われているように、対話という概念が強調するのは、複数の言葉が並置されている状態である。これを多声性(ポリフォニー)と呼び、誰にも向けられていないモノローグ的発話と対立させられる。 

 今回の桑野先生のご講演は、しかし、バフチンが執筆活動のはじめから「対話」という言葉を使っていたわけではなかった、というお話から始まった。以下、ご講演の内容をレジュメやぼくのとったノートに基づいてメモしておく。

 対話主義は、バフチンが一から創造した思想ではない。そもそも、日常会話に見られる対話形式が根元的なことばのありかただ、という認識はロシアの伝統的な考え方としてあった。それを「対話」というタームとして取り上げたのはフォルマリストのヤクビンスキイだった。バフチンはロシア・フォルマリズム最後の世代と目されることがあるが、フォルマリズムの担い手にも論争を挑んだ。したがって彼の対話主義は、ロシアの伝統的言語観を前提としながら、当時の芸術論やマルクス主義との対峙の中で磨き上げたものだと言える。桑野先生によれば、そのように当時のロシア人思想家なら誰しもが手の届くところにあった対話主義を、芸術のみならず他の領域にも利用可能な理論として練り上げたところに彼のオリジナリティがある。

 「対話」という言葉が頻出するのは、1929年に書かれた『ドストエフスキーの創作の諸問題』である。このテクストには、 1963年に書かれたヴァリアント(『ドストエフスキーの詩学の諸問題』)があり、邦訳で読めるのはこちらの方である。後に書かれた方には、いわゆる「カーニヴァル論」と呼ばれるパートが加わっているため、「対話」概念にもカーニヴァル論に合わせた形で登場するものがいくつか現れる。桑野先生はまず、29年版ドストエフスキー論と、 63年版のそれとの間にある、対話という言葉の使い方の異同をていねいに洗い出してくださった。レジュメにずらりと並んだ「対話」用法のリストは壮観である。

 一方で、1920年代初期に書かれたいくつかの著作、たとえば『芸術と責任』『行為の哲学によせて』『美的活動における作者と主人公』『言語芸術作品における内容、素材、形式の問題』(いずれも邦訳は水声社刊『ミハイル・バフチン全著作 第1巻』に所収)には、「対話」という言葉がほとんど出てこない。また、バフチンには1920年代中頃から後期にかけて他人名義で書かれた著作があるのだが、たとえば『生活の中の言葉と詩の中の言葉』『マルクス主義と言語哲学』(ヴォロシノフ名義)、『文芸学の形式的方法』(メドヴェジェフ名義)にも、同様に「対話」という言葉はほとんど出てこない。

 出てこないものの、対話主義の萌芽のようなものは見て取ることができる。

 たとえば『行為の哲学によせて』で述べられる、「理論的であること」と「参加的であること」の対比はモノローグとポリフォニーの対比につなげて読むことが可能である。理論的であることとは、「生きた唯一の歴史性に無縁の」抽象的統一体を指す。一方で参加的な意識とは、唯一の存在へと人を関わらせる活動を指す(レジュメより)。ここで、参加的とはロシア語でучастныйである。ところで、63年版『ドストエフスキー論』では、このような表現が見られる。「ただ対話的な共同作業への志向のみが、他者の言葉を真剣に受け止め、一つの意味的な立場、もうひとつの視点を表すものとして、それに近づくことを可能にするのである」(強調は伊藤)。ここに見られる「共同作業」は、 участныйに英語でwithを示すсоをつけたсоучастныйである。桑野先生は、この点に対話主義への息吹を感じ取っておられた。

 あるいは、『美的作品における作者と主人公』では、作品の理解が「感情移入」や「共感」に基づくのだと捉える見方を徹底的に批判する。他者と同じ目で物事を見ることはただの他者のコピーにすぎず、真の理解とは言えない、というのである。理解において重要なことは、外部にあることだという。新しい理解は、内部からは生まれないのだから。ここで述べられていることもまた、自己と他者の一致を前提とする態度=モノローグ的、不一致を理解の前提に置く態度=ポリフォニー的という図式で読むことができる。

 このように、対話主義の基本的な考え方は、たとえ「対話」という言葉がほとんど出てこないにせよ、すでに20年代初期の論文に見られるのである。

 対話主義が分かりやすい形で書かれるようになったのは、言語を対象とした議論がなされるようになってからだという。それまでは、つまり1920年代初期の論文では「唯一の出来事」といったような書き方で議論されていたことが、「言語論的転回」とでも呼べるような時期を経て、「発話」という概念に置き換えられた。言語論的転回がもたらしたことは大きく、たとえば「イントネーション」といった概念を容易に理論に組みこむことができるようになった。あるいは、20年代初期の論文では人格を「見る」メタファ(鏡、写真、肖像画)で表現していたものが、後半になると「聞く」メタファで語ることが多くなった。

 これとは少し異なる側面での変化として、文芸作品の批評に新たなカテゴリが導入されたことが挙げられる。すなわち、「聞き手」「読み手」である。それまでは、「美的作品における作者と主人公」といった論題からも分かるように、批評のカテゴリは作者-登場人物という二項がメインであった。そこに、作品を受け取る者という立場が重視されるようになったのである。

 さて、実はひとつ重要な問題がある。バフチンは、『ドストエフスキー論』で次のように述べている。

 対話のもっとも重要なカテゴリーとしての一致(согласие)。...不一致(несогласие)は貧しく、生産的でない。もっと本質的なのはразногласие(さまざまな声があること)である。実際、それは一致へと向かっているが、そこには声の多様性と非融合性がつねに保たれている。

 対話とは、むしろ自他の一致を拒否する概念ではなかったか?桑野先生は最後にこのような宿題を投げかけて壇上からお降りになった。

 ここで一致と訳されているのはсогласие。гласиеとは「声を出す」という意味で、それにwithのсоがついている単語。直訳すれば「ともに声を出す」ということだ。絶対的に相容れない他者への語りかけをしながらも、結果的にその他者の言葉と一致してしまうこと、これははじめから一致を前提とするモノローグ主義とは異なる。あくまでも対話の結果として、対等に声を出し合う者同士として、同じ言葉が発せられてしまう、そのように考えてみたらどうだろうか。言い換えると、表面的にはユニゾンなのだけれども、個々の声はそれぞれはっきりと聞こえており、いずれの声もなんらかの点で対等である状態が起こりうるのだということを、バフチンは言っているのではないか。

 ぼくはなにしろロシア語が読めない。また、テキストのヴァリアントを追って丹念に読み込むという研究方法は、ぼくの身につけていないものである。このたびは「対話」概念にしぼった検討だったが、それでもバフチンを読む上で最重要となるものである。それさえおさえればよいと言えるかもしれない。その意味で貴重なお話を拝聴できましたことに深く感謝する次第です。

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研究の基盤

dun (2006年4月20日 22:08)|コメント(0)| トラックバック(0)

 この季節、あちらこちらで「当たった」とか「残念」という声が聞こえる。科学研究費補助金、略して科研費と呼ばれる公的な助成金制度のことである。

 今年はよく知る複数の方々から「当たった」との声が聞こえてきて、喜ばしい。おめでとうございます。

 大学にせよ、研究施設にせよ、科学研究の推進に割かれる予算については、現況安穏としてはいられない。よい研究にたくさんのお金がまわり、その分、比較的よろしくない研究にはお金がまわらなくなっている。

 このことについて、最近は本当にさみしくなったねえと嘆く先輩研究者もいらっしゃるのだが、最近この道に入り込んだ身にしてみれば、トータルのお金が少なく、パイを奪うために自分の研究を「よいもの」として売り込むということはもはや前提である。何もしなくてもン百万というお金を使えた時代が過ぎ、何かをすればン百万というお金を使える時代が来ただけの話だ。ン百万というお金を手に入れるためにする何かができない方にとってはさみしい限りだろう。

 科研など公的な助成金のほかにも、私企業や財団が制定している助成金制度もたくさんある。去年もちょこちょこ出していたが、軒並み落ちてしまった。これは憶測でしかないが、こちらの方が公的な助成金よりも、選考の基準はよりシビアであろう。

 今年もがんばって出し続けよう。申請書を書く中でアイディアが出てくるということもあるしね。

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ビルイカンヘイソク?

dun (2006年4月 5日 14:40)|コメント(0)| トラックバック(0)

 4月から新しく始める調査では、子どもたちにマイクをつけてもらうのだが、むき出しのままでは不安になる子もいるかもしれないと、園の先生から安全ピンで服に留めるワッペンにマイクを仕込んではどうかと提案を受けた。それならと、1時間かけて首から提げる小さな袋を縫い上げたものの、あまりにもお粗末である。たまたま通りかかった院生さんに手芸の心得を聞いたところ、得意だとのお返事。よし、手芸アルバイト決定。伊藤さん、助かったよ~。

 学部ウェブページの更新作業は遅々として進まず、気ばかり焦る。明日は新入生のオリエンテーションではないか。なんちゃら委員として、出席せねばならない。1日仕事である。

 かつてこのブログに書いた「社会文化的アプローチにおける人格」について、広島大学の院生さんよりコメントをいただいていたのだが、ようやくそれに簡単なお返事を書いた。ヴィゴツキーの『高次精神機能の発達史』に、発達における「人格」概念について詳しく書かれた章があるのだが、そのところと、拙論で議論した「人格」概念の関連について。バラバラな行動を統一する「場」のような何かとして、ヴィゴツキーは人格を考えていた。とするなら、ハムレット論や『芸術心理学』における登場人物論との対応は十分に考えられる。このつながりについては指摘を受けて気付いたことだ。岡花さんありがとう。

 携帯に電話がかかっていた。かけ直すと妻である。

 アマネの左目からの目やにがひどく、思いあまって眼科を受診したところ、ビルイカンヘイソクだろうとのこと。鼻涙管閉塞?調べてみると、よくある先天性の状態らしい。治すには、針金のようなものを涙管に差し込むようだ、と妻。ひい、痛そう。

 調べてみると、大きな病院の眼科なら小児眼科の専門医がいるようだ。もうそろそろ長崎から札幌へ帰ってくるので、すぐに市内のどこかの病院へ連れて行くことにした。

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蝦夷地のおぢさん

dun (2006年4月 3日 14:39)|コメント(0)| トラックバック(0)

 ぽっちり研究会から札幌へ戻り、があがあと仕事を片づけ、再び名古屋へ舞い戻った。プロジェクト(と書くと格好良い)の打ち合わせのためである。

 名古屋といえば喫茶店である。待ち合わせ場所に指定されたヤマダ電機の隣にあった喫茶店に入りコーヒーを飲んでいると、松本博雄さんが車で迎えに来てくださった。今日は松本さんのご息女トモちゃんの保育園入園式だったそうで、午前中はそちらにご出席されていたそうだ。桜咲くうららかな日である。

 打ち合わせは松本さんのご自宅で。奥さんの美穂さんがトモちゃんを連れて出迎えてくださった。

 PCをつきあわせて今後の方針を決めていく。共同研究とは銘打っているものの、ぼくはほとんどおんぶにだっこ状態である。分担していた作業の積み残しもある。それでも5月までにお互いやっておくべきことだけは決めた。読むべき文献の分担も決めた。

 作業の脇で、トモちゃんがえーえー泣く。まだ生後3か月、アマネでさんざん経験していたのだが、やはりなにか切なくなってくるものである。そのたびごとに松本さんはお父さんになり、美穂さんはお母さんになる。ぼくも「蝦夷地のおじさん」としてときどきだっこさせてもらう。トモちゃんはよその人に会うときはおとなしいそうなのだが、ぼくがいるときでもえーえー泣いていた。だから「家族と認識されているみたい」なのだそうな。

 一晩泊めてもらい、日中少し作業をした後、おいとまをした。赤ちゃんがいて大変なところ、いろいろとお世話になりました。ありがとうございました!

 札幌に戻ってみれば雪だった。それでも明日からぼちぼち新学期の香りがしてくる。

 こうして怒濤の3月は終わったのだった。

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埼玉県立大探訪記

dun (2006年3月16日 14:24)|コメント(0)| トラックバック(0)

 13日から14日にかけて、陳省仁先生とともに埼玉県立大学にうかがった。先週のKICR探訪と同じく、プロジェクト研究の一環としてである。

 埼玉はひさびさ。午前10時半のANAで羽田へ、そこから京急から都営浅草線、浅草で乗り換えて東武伊勢崎線。越谷の先、せんげん台という駅を降りると、北関東の駅前の風景が広がる。駅前で拾ったタクシーを降りると、目の前に鉄筋とコンクリとガラスでできた巨大なオブジェが現れた。

 埼玉県立大は、大学としては比較的新しい。県立衛生短大を基礎として平成11年に開学した。

 大学の特色はまずその外観であろう。田んぼを埋め立てて造られた広大な敷地にそびえる建築構造物は2つのメインとなる棟から成る。 設計は山本理顕。生活する人々の活動をなにものにも遮られず徹底して透明にするために、外壁をガラスにして、内部を吹き抜けにしてある。

IMG_0025.jpg    大学の内部

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 今回の目的は、看護学科の徳本弘子先生に案内していただいて、乳幼児に対処しなければならない看護師のタマゴを育てるカリキュラムの一部とそのための施設を見学することだった。

IMG_0021.jpg  徳本弘子先生と陳省仁先生

 広い看護実習室には、患者が病院で使うのとほぼ同じベッドがずらりと20台近く並んでいた。同じ部屋の反対側には、グループで座学ができるような設備(テーブル、PC、ビデオデッキなど)がこれまた20台近く並ぶ。学生は、まずビデオやPCなどを通して学習目標を確認し、それから実際に現場でも用いられる器具を使って練習に入る。練習を一通り終えると再びグループ学習に戻り、何が問題だったのか、どうすれば良くなるのかを検討する。これの繰り返しだそうだ。

 小児看護の実習室では、就職を間近に控えた4年生が集まって自習をしていた。心臓に異常のある子どもの心音ばかりを集めたテープを一生懸命聴いている姿は真剣そのものだった。

 徳本先生、それに同じ看護学科の西脇由枝先生と駅近くの豆腐料理屋へ。患者の身になって看護を行なうことを、どうしたら大学教育として学ばせることが可能かと、熱く議論されていた。

 次の日、急遽朝から陳先生の研究発表会が開かれることとなった。渡部尚子副学長にもおいでいただき、10名ほどの先生方が参加してくださる。

 午後から、教員研修会が開かれる。教員がいかにして学生の学習を促進できるのか、テューターとしての役割をどのように演じればよいのか、まずはみずからが学生になってテュータに必要なふるまいを知ろうという趣旨であるらしい。何回かに分けて行なわれるようで、今回は10名程度の方が参加されていた。

 1時間ほど見学してそそくさと大学を後にする。帰りの飛行機に間に合わせるためである。

 札幌に着いたのは7時頃。近くの居酒屋で夕食とした。

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KICR訪問記(2)

dun (2006年3月11日 14:18)|コメント(0)| トラックバック(0)

 小嶋秀樹さんたちが製作されたInfanoidはさまざまなメディアを通して知られていることと思う。ラボにも新聞や雑誌の記事の切り抜きが掲示されていた。

IMG_0097.jpg  Infanoidと小嶋さん

 むきだしの配線や大きめの眼球はいかにもグロテスクではあるが、これはあえてロボロボした感じを残しているのだそうだ。たとえばマネキンのように人間のような外見をもたせようとすることもできるが、かえって実際の人間との違いが際だってしまってダメらしい。

 小嶋さんがコンピュータを立ち上げる。「命を吹き込みました」とおっしゃったのが印象に残った。

 準備運動のあと(Infanoidは、可動部の可動範囲を計算する基準点を探すために、準備運動をする)、きょろきょろと辺りを見渡し始めた。背後のディスプレイにはInfanoidの見た風景が映る。この画像を解析して、見るべきものに注意を向けるよう体や眼球を動かすのである。

IMG_0096.jpg  Infanoidの見る景色

 キーポンにはできなくて、Infanoidにできることはいくつかあるが、コミュニケーションの発達を考える上で大事なのは次の2つ。まず、他者の発話を模倣すること。小嶋さんがマイクに向かって「おはよう」と言えば、Infanoidはほやっとした声で「ほあよおおほ?」と返す。録音した声をそのまま発話させるのではなく、いちど他者の声を解析した後にそれを返すようにしているのではないか(この点は、未確認)。

 もう1つは、指差しができること。手には5本の指があり、それぞれ独立して動かせる。人差し指だけを立てて、小嶋さんの差し出したピンク色のウサギ人形を指さした。

  発話したり指差しをしたりするInfanoid (Movie 2.99MB、約30秒)

 この2つの機能をベースにして、事物をことばで指し示すという、コミュニケーションの発達上、もっとも重要な能力を持たせることを小嶋さんは大きな目標にしておられる。 Infanoid自身にそうした能力が発現するまでにはまだまだ長い時間がかかりそうである。今のところは、 Infanoidを一種の鏡として、上記のような機能を持ったロボットと出会ったときに人間がどのようにコミュニケーションしようとするかを観察しているところだろう。

 このあと、現在開発中のロボットのモックアップを拝見した。

 これらのロボットを見て思うに、人間にはできなくて、ロボットだからこそできることは、そのものの外見的な、あるいは触覚的な質感のコントロールではないか。わたしたちの肌や毛は生まれもってのものであるから、これらはいかんともしがたい。しかしロボットは、コミュニケーションに必要な機能としては人間と同等のものを持ちつつ、なおかつ見た目をコントロールすることができる。樹脂や金属やフェイクファーの質感をもつこと。これはロボットにしかできない。

 ロボティクスというとどうしても内部の計算をどうするかとか、環境に実機を置いたときにフレーム問題をどうクリアするかといった問題が注目を集めてきたが、コミュニケーションする身体としてロボットを考えたとき、どのような存在感を、どのようにしてもたせるかという問題も浮かび上がってくるだろう。言うならば、私たちの視界にInfanoidのような存在が入ってきたときに、「ロボットがある」と思わせるのではなく、「ロボットがいる」と感じさせることがどのようにしてできるのか、という問題である。

 たとえばキーポンを子どもたちの中に置いたとき、ある女の子がキーポンを遠巻きに眺めていた場面をビデオで見せていただいたが、彼女には「変わったお人形がある」ではなく、「何だか分からないやつがいる」という感覚があったのではないか。

 蛇足ではあるが、日本語では存在を表現するのに「ある」と「いる」の区別が可能である。他の言語ではどうだか分からないけれど、たとえば英語では「be」に回収されてしまう感覚が日本語では区別されて指し示される。この点、日本語でものを考えることのできる人にとっては、アドバンテージになるのではないだろうか。

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KICR訪問記(1)

dun (2006年3月10日 14:15)|コメント(0)| トラックバック(0)

 8日から9日にかけて、けいはんな地区にある情報通信融合研究センター(KICR) へ行ってきた。小嶋秀樹さんにお会いするためである。

 小嶋さんはコミュニケーションの成立するしくみについて研究をされている。その方法がたいへん面白い。まず、生き物のように動くロボットを作る。その意味ではロボット工学の技術者である。しかしそれにとどまらない。子どもや大人がそれに対峙したとき、どのようなインタラクションが発生するのか、また、それとのやりとりを繰り返すことによってインタラクションがどのように発達していくのかを、つぶさに観察されている。だから認知科学者でもあり、発達心理学者でもある。詳しくは、 Infanoid Projectホームページを参照のこと。

 私は3年くらい前に一度お会いしていた。確か、Katherine Nelsonが東京にやってきたときにオーガナイザとして働いていらして、そのときにお世話になったように覚えている。

 小嶋さんにお会いする目的は2つあった。1つは、Infanoid Projectについてお話を伺うこと、もう1つは、教育学研究科の陳省仁先生、佐藤公治先生とともに行なっている研究プロジェクトについて、なんらかのサジェスチョンをいただくことであった。

 今回の旅は陳先生のおともをするものである。朝9時半のJALで伊丹へ、バスと近鉄を乗り継いで最寄りの高の原駅に着いたのが1時半すぎ。そこからタクシーで住宅街を抜けた先の山を越えると急に視界がパッと開け、研究都市が広がる。

 KICR玄関ロビーで待っていると小嶋さんご本人が出迎えてくださった。

 案内していただいたラボのそこここにロボットが鎮座していた。

 小嶋さんと共同で研究されている仲川こころさん、ヤン・モレンさんも同席してくださり、 Infanoidプロジェクトの成果についてうかがった。

IMG_0103.jpg右から、小嶋秀樹さん、仲川こころさん、陳省仁先生

 Keepon(キーポン)は高さ20センチくらいの、雪だるま型のロボット。両の目がカメラ、鼻がマイクになっており、それが拾う映像と音声をワイヤレスで飛ばし、受信したコンピュータで記録と解析を行なう仕組みである。見たものに注意を向ける、すなわち体ごと物体の方を向き、顔の向きを上下に傾けることができる。それ以外にも、体を上下にゆすったり(この動作を見ていたら、なんとなく『できるかな』のゴン太くんを思い出した)、首を左右に揺らしたりすることもできる。

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 小嶋さんたちはこのキーポンを、保育園や、発達障害をもつお子さんの参加する療育グループに持ち込み、そこで子どもたちがキーポンとどのような関係を築くのかを観察されている。自動で動かすことも(つまり、注意を向ける価値のある対象を映像の中から自動的に抽出し、そこに視線を向けようとキーポンが自動的に動く)できるそうだが、現場ではより人間らしい動きをさせるために、仲川さんが黒子となって別室から操作しているとのこと。

 キーポンの目(カメラ)から見た映像は録画されており、私たちはさながら子どもと出会ったキーポンの視点を追体験することができる。キーポンとのやりとりで、子どもたちは実にさまざまなはたらきかけをする。怖がって近寄らなかったり、たたいたり、蹴ったりもするが、キスをしたり、なでたり、食事をあげようとしたり、絵本を読んでくれたりもする。観察者はすべてをキーポンの視点から見ることとなるのだ。

 これが面白い。

 保育室やプレイルームに、人形やぬいぐるみがあるのはありふれた光景だ。子どもたちはそれらに対して、遊びの中で、たたいたり、なでたり、食事をあげたりする。これまたありふれた光景だろう。では、単なるぬいぐるみとキーポンに違いはないのか、あるのか。あるとしたらそれはなんなのか。

 単なるぬいぐるみは動かない。もちろん、目をぱちくりさせたり、手足を動かして歩いたりする、からくり人形のたぐいはそれこそ大昔からあった。ただ、それらは「動くこと」そのものを目指して作られたものだ。動きそのものが楽しみを与えてくれるのである。

 もちろん、キーポンも動く。しかし、キーポンにとって「動くこと」は到達点ではなかった。動くことによって、子どもにとって意味ある表現を組み上げていくことが目標なのだろう。キーポンはきょろきょろと視線をうろつかせ、あたかも意志があるかのようにふるまう(実際に、キーポンの動きは仲川さんの意志が反映されたものだ)。この、「意志」を、いかに限られたデバイスで表現するかが小嶋さんたちの取り組まれたことだったように思う。

 さらに言えば、単なる人形とキーポンの違いは、子どもたちにおいて編まれる「物語」の形成のされ方にあるように思う。

 子どもたちは頻繁にままごとをするし、そこには動かない人形が子ども役で登場したりする。ここでは人形は一種の憑坐(よりまし)である。人形には子どもの想像した何かが憑く。したがって、人形の意味は子どもの想像を超えることはない。

 キーポンも、ままごとに子ども役で登場するところまでは同じだろう。しかし、キーポンは動いてしまう。子どもにとってある方向を向いて欲しいときに、そっぽを向いていたりすると、子どもはいちいち想像を修正しなければならないはずである。そっぽを向いているのには理由があり、たとえばそちらにキーポンの欲しいものがあるとか。これは子どもの想像したことであるが、キーポンがそっぽを向くまでは想像しなかったことでもある。このことを言い換えれば、子どもたちの想像する物語は、キーポンの自律的な動きによって完結しなくなる。この点はとても重要なことだと思う。

 小嶋さんは、キーポンと子どもたちのあいだに「ループ」を作るという表現をされていたように記憶しているが、ループ上のインタラクションは、子どもの想像にキーポンが切れ目を作ることによって生まれるのだろうと想像する。

 それにしてもキーポンは私が見てもかわいらしく、ついなでなでしたくなる。材質はシリコンだそうで、ふにょっとした質感もまたよい。帰りがけにキーポンストラップをいただいた。これまたかわいらしい。(やっぱり見れば見るほどゴン太くんだ。)

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 キーポンと子どもたちのビデオを拝見した後、動くInfanoidを見学したのだが、それはこの続きで。

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実験協力者のハシゴ

dun (2006年2月25日 11:25)|コメント(0)| トラックバック(0)

 現在、2件の縦断調査に協力者として参加している。ぼくでなく、アマネが、だ。

 調査協力者探しには苦労しているので、ぼくが調査対象者となったときにはすすんで協力しようと思っていた。なのでアマネが生まれたときにちょうど協力者を探していた2件の乳幼児発達調査に参加することを決めたのだった。

 今日は午前と午後とでその2件とも調査者が来宅した。

 まずは朝9時から某大学のK先生がいらっしゃった。妻が息子に離乳食をあげる場面をビデオで撮影するという。20分くらいかけて食べさせ、それを脇からビデオで撮影されていった。

 昼過ぎからは某大学のA先生がいらっしゃった。息子にさまざまな音楽を聴かせて反応をビデオに撮影するという。また、妊娠や出産、育児などについて妻に質問をされていった。

 ふだんはなにしろ核家族の見本のような生活を送っているため、1日にどやどやと人がこんなに出入りすることはまずない。なのでアマネは興奮してしまったようで、夕方には顔を真っ赤にしてキーと叫びっぱなしだった。

 ぼくにとっては、研究で先を行かれる方々の調査の実際を間近で見られるのがうれしい。直接見る機会があまりないことだからだ。ノウハウを知るチャンスでもある。

 ただ、妻とアマネには少し負担をかけてしまっているようにも思う。まあアマネが乳幼児でいられる時期は限られているし、その間に乳幼児を対象とした研究に参加する機会もそうあるわけではないだろうから、ね。

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アタック2/3

dun (2006年2月21日 11:23)|コメント(0)| トラックバック(0)

 共同研究を行なうために申請していた研究助成だったが、お相手のhouさんに続いて、 こちらも残念ながら不採択。通知は簡易書留ですらなく、ぺらぺらの紙1枚が。

 昨秋1か月くらいかけて、仕事が空いた時間を使い、2人で連絡を取りながらしこしこと助成申請書を作成した。 けっこう手間をかけて作ったものなだけに、がっくり感もひとしおである。

 さて、ぼくの所属する大学では、研究助成金の公募についてまとめて一覧表を作ってくれている。便利である。

 研究助成公募一覧

 このあたりからちょうどいいものを探して、次にアタックしてみよう。

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